鎌倉、まぼろしの風景。261 

鎌倉、まぼろしの風景。


Kamakura,a land of illusions
          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。

Kamakura,a land of illusions    

北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴

206.庚申様はすばる星(すばる星1)

207.六所神社のすばる星(すばる星2)

208.キリシタンと庚申様(すばる星3)

209.鎌倉キリシタンの伝承 1

210.東渓院の領地

211.大坂城の遺児
鎌倉キリシタンの伝承 2

212.手広村の大岡様
鎌倉キリシタンの伝承 3

213.田代寺安養院
鎌倉キリシタンの伝承 4

214.水戸光圀の鎌倉案内
鎌倉キリシタンの伝承 5

220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
鎌倉キリシタンの伝承 6

236.山崎の女領主相高院
鎌倉キリシタンの伝承 7

238.豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」

249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1崇法院琴姫様と山崎の谷戸

250.北鎌倉明月院洞窟と竹田市の三日月岩

251.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩2山崎にまつわる家康公の姫君たち

252.萬姫のお散歩漫歩3「消えた村」善行寺村の謎

253.萬姫のお散歩漫歩4 葡萄の蒔絵と北鎌倉の琴姫様

260.夏目漱石のキリシタン1

261.「吾輩は猫である」とキリシタン


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)
*** ***

   

私家版「織姫星と鎌倉」銀の鈴社で通信販売中です。Kindle版「織姫星と鎌倉」もあります。
リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」の続きです。鎌倉駅前蔵書室で読むことが出来ます。

4月29日(金)鎌倉のカジュ・アートスペースのカジュ祭に参加します。
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この本を使うと、あなたの町の星を見る道が見つかります。
ご説明いたします。10時〜14時まで。

キリシタンと江戸文化

261.「吾輩は猫である」とキリシタン


 江戸時代では、キリシタンはご禁制、「大罪」であった。
 幕末になって、まず外国船が寄港する横浜に、次に長崎に、キリスト教の教会が建てられた。でもそれは商館の外国人の為の施設であり、明治になってからもキリシタン禁教は続いていた。
 フランス人神父が赴任した長崎の大浦天主堂に、浦上村の住民が現れたのは1865年。天主堂ができて一ヶ月経った頃だった。激しい弾圧の後にキリシタンは居なくなったと、誰もが思っていた。しかし250年を経たこの時に、潜伏していたキリシタンが名乗りを上げたのだ。奇跡と言われた信徒発見であった。
 ところが明治政府は江戸幕府の政策を引き継いでいて、まだ村々の高札には「切支丹邪宗門厳禁」と掲げられていた。
 1868年(慶応4)、浦上村の114名は流罪になり、さらに1870年(明治2)浦上村のキリシタン全員が捕縛され配流された。この弾圧を浦上四番崩れと呼ぶ。流刑先の待遇は厳しく、江戸時代と同じく拷問にあい、幼児や子供の死者もあった。

 フランスを中心にキリスト教諸外国は猛抗議した。発足したばかりの明治政府はしかたなしに1873年(明治6)高札の制度を廃止する。「切支丹邪宗門厳禁」と書かれた札が取り外されたのだ。「人々に内容が知れ渡っている為に村々に掲示する必要が無い」という理由だった。しかしこれが、事実上の禁教令の廃止となって、浦上の住民はやっと解放された。
 配流された3千人を超える人々のうち600人を超す死者を出して、浦上に帰っても家や農地が残っていたわけでもない。
 それから26年後、1899年(明治32)になって、明治政府はやっとキリスト教の活動を公式に認めたのだ。
参照:小説「青い空 幕末キリシタン類族伝」海老沢泰久著 文春文庫
 「金沢・大聖寺・富山に流された浦上キリシタン」三俣俊二著 聖母の騎士社
 「姫路・岡山・鳥取に流された浦上キリシタン」三俣俊二著 聖母の騎士社
 「和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン」三俣俊二著 聖母の騎士社

 「津・大和郡山に流された浦上キリシタン」三俣俊二著 聖母の騎士社

 明治は45年までだから、その前半3分の2は、キリスト教は「邪宗」のままであったのだ。

 明治時代を生きた人たちは、高札が取り払われた後も、いつ禁教令が再び発動するかと疑心暗鬼だっただろう。外国人と付き合いのある紳士淑女やインテリ達が、カトリックやプロテスタントのキリスト教に入信する、それは大丈夫だと思っただろう。地位と財力のある人たちだ。でも伝統的なキリシタンは?隠れて信仰を守った江戸時代を引きずっている農民や漁民は?
 結局、カトリックからも異端だと言われて、キリシタンの名誉回復は為されなかったように思う。
「邪宗」であり「大罪」であるというイメージは、実は21世紀の今もって、晴れてはいないようなのだ。
 この状況を、同時代を生きた人々はどう見ていただろう。カトリックやプロテスタントではなく、江戸時代から続くキリシタンを、いつ頃から自由に語り始めたのだろう。
 明治に生きてキリスト教徒になり、社会に向けて語ることのできた文人の島崎藤村を調べてみた。キリシタンを語ることができなかった明治時代の藤村について。

  信州木曾の馬籠の庄屋に生まれた島崎藤村は、20才で明治女学校の英語教師になった。1892年(明治25)である。
 藤村と同じく、明治女学校の教師の多くがプロテスタントの洗礼を受けていた。新しい時代の気風にあふれた学校が出版する「女学雑誌」に、詩や散文を発表していた。姉妹紙に「女学生」があって、これはキリスト教系女学校の生徒のための投稿誌であった。「女学生」の主筆が星野天知。藤村より10才上のやはり明治女学校の講師だった。
 日本橋の砂糖商「伊勢源」の次男坊だった星野は、店を弟に譲って鎌倉市笹目に邸宅を構えたばかりだった。彼は建長寺に参禅しているので、翌年、島崎藤村が円覚寺に入るのも、彼の影響であったと思われる。キリスト教と禅は折り合いが良いらしい。
  翌年1893年、「女学雑誌」から独立して「文学界」が創刊された。星野天知や島崎藤村、北村透谷らが集まって、ロマン主義文学の旗印となった雑誌だそうだ。キリスト教の倫理からも離れて、個人的な感情、恋愛や憂鬱、苦しみを自由に発表できる場ができたのだ。編集人は星野天知。雑誌社の経営も任されていた。
 その星野の家に藤村がやってくる。
 許婚者のいる1才年上の教え子に恋をした藤村は、職を辞して放浪の旅の後に、鎌倉へ落ち着いたのだ。
 この年の夏に藤村は円覚寺帰源院に入り、禅に向う。

 一方、島崎藤村より5才年上の夏目漱石は1892年(明治25)、帝国大学に学びながら東京専門学校(後の早稲田大学)の英語講師になっている。前年に兄の妻であった登世が亡くなっていて、彼の片思いは失恋になった。この年に親友の正岡子規と関西旅行をして、京都、岡山と、子規の故郷である松山に滞在している。あまり家に居なかったという兄。その妻と同居していた漱石の心。登世の死は、後の漱石の小説に大きな影響を与えたのではと思う。
 翌年1893年(明治26)、大学を卒業し師範学校の英語教師になる。教師という仕事に疑問を持ち、体を壊し神経を病む。そして12月の末から2週間、円覚寺帰源院に参禅する。島崎藤村が帰源院を去って1年半の後であった。

 同じ時期に英語教師になった漱石と藤村は、片思いの失恋の末に旅に出て、共に円覚寺の帰源院にやってくる。
 藤村はすでに詩や文章を発表していたから、若い英語教師の有名になってしまった恋愛スキャンダルを、漱石は自分のことのように見聞きしただろう。
 自身の恋愛を作品にしてドシドシ発表するロマン主義文学の若い藤村と、5才上の漢詩や俳句、謡曲に詳しい妙に古風な漱石、ではあったけれど。

 島崎藤村の生まれた馬籠宿のある中山道に添って、キリシタンの遺跡が点在する。街道の宿場宿場に、キリシタンの痕跡はあったのだ。夏目漱石の家にもキリシタンがらみの伝承があっただろう。
参照:260.夏目漱石のキリシタン1

 漱石が旅した京都や岡山にも、正岡子規の故郷の松山にも、キリシタン遺跡はあった。
 まだ明治政府がキリスト教の布教を公式には認めてはいない時代に、表には出てこないけれど、キリシタン弾圧について、その後の信教の自由について、彼らは敏感に語っていただろうと思う。

 ここからは空想の物語を書く。四季折々の北鎌倉を散歩道にして、朝に夕に、その景色を愛する中から生まれた空想である。

  円覚寺帰源院は小高い丘の上にあって、JR横須賀線の向こう、鎌倉入りの旧街道を見通す位置に建っている。今は背の高い建造物が視界を遮っているが、明治の頃は見通しの良い場所であった。帰源院に座して南面すると、向かいに崖がありその岩肌が見えた。岩には仏像の台座のような段があり、荒れた岩肌は、ここに摩崖仏があった頃を想像させる。今は県道から自転車駐輪場の背後に、わずかに見ることができる。

 鎌倉時代に各地に彫られた摩崖仏が、なぜ鎌倉には無いのだろう。公園になった公有地の背後や切通しの岩肌に、あるいは辻に当たる重要な場所に、灯明を灯し目印になった摩崖仏があっただろうと思う。今そこは破壊されたヤグラの跡と、白い崖だけになっている。
 帰源院の向かいの崖に、達磨大師の像を想像で描いてみる。赤いベールを被った、金の耳飾りをつけた達磨の姿を。

 島崎藤村は爽やかな夏の朝に、帰源院の庭に立っている。朝靄の中に霞む向かいの崖を見ている。
 左手から朝日が差し込んで、崖を照らしている。岩肌の凹凸が人の姿のようだ。
 あれはマリア像ではないか?キリシタンが拝んだ丸屋の娘ではないか、と思った。
 そのことを素直に住職に問うと、円覚寺はキリシタンの祈りも受け入れる寺であると、答えた。
 達磨さんは転んだキリシタンで、イエスもマリアも居なくなったその教えは、良き事を行って自分の生を全うせよと勇気づけているのだと、藤村は思った。
 後に島崎藤村は小説「破戒」を発表する。夏目漱石は、明治の小説と言えば後世にこの「破戒」が残るであろうと褒めた。精神の自由を求めた時代に、差別された人々を語った。しかし「邪宗」のキリシタンは人間の扱いさえされず、タヌキやキツネ、馬、犬や猫として、未だに語り継がれていた。
 松山にはタヌキ番付があり、佐渡にはキツネの伝承があった。伊豆の三島には孝行犬が語り継がれ、横浜市泉区には猫の踊り場が残っている。

 夏目漱石は藤村に1年半年遅れて帰源院に来た。庭に立って向かいの崖を見た。しかし冬の太陽は山の後ろから昇り、崖は逆光に暗く沈んで摩崖仏の姿は見えない。藤村のような感動を味わうことはできなかった。
 でも漱石は知っていたのだ。親友の正岡子規と、俳句とキリシタンについて、何度も語り合ってきたからだ。
 松尾芭蕉の一番弟子の宝井其角が円覚寺の和尚さんに救いを求めに来ていることを、子規も漱石も知っていた。その其角は江戸一番の人気作家で、三囲(みめぐり)神社に奉納した雨乞いの句で奇跡を起こしたのだ。
 「夕立や田を見めぐりの神ならば」
 というその句には綺麗なクルス(十字架)が描かれていた。
 田という漢字のあぜ道に立って、田の中の様子を見ながら巡ると、そこには神の十文字があるではないか。江戸人はこの仕掛けに大喜びしたのだ。語れば死罪になる話題であった。
 其角が芭蕉の弟子をやっていたのは、一番近くで芭蕉を見張るためであったのだろう。

 漱石は「朝日に浮かび上がるダルマかマリアか」という奇跡を見る事はできなかった。でもキリシタン弾圧の不正を江戸の人々は語り合ってきた事を、すでに知ってはいた。仏性は棄教した元キリシタンの人々にこそ、と漱石は語る。

 夏目漱石は処女作の「吾輩は猫である」で人気作家になった。明治政府が公式にキリスト教を認めた1899年の6年後の1905年の発表である。
 「猫」とはキリシタンの人々を指す隠語である。
参照:191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

 この時期に文化人は誰もまだ「吾輩はキリシタンであります」と語らなかった。キリスト教は文明開化で裕福なイメージであっても、キリシタンはタブーであり続けたのだ。
 与謝野鉄幹が後の詩人、作家たちを集めて島原城を訪ね、天草四郎を語った紀行文「五足の靴」は1907年の発表、その中の一人だった北原白秋が処女詩集「邪宗門」を発表したのは1909年である。未だに「邪宗」であった明治42年(1909)を想像する事ができる。
 長崎とキリシタンの乙女を異国情緒たっぷりに描いてヒットさせた竹久夢二は大正時代が最盛期だ。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」という題名が、どんなに新しい時代を語っていたか、どんなに勇気のある事であったか、人々の度肝を抜く題名であったかを、今の私たちが知る事は難しい。

 奇しくも先日、東京都文京区小日向にある吉支丹屋敷跡地から、シドッチ神父の遺骨が発見された。今この世に出てきた骨は、江戸時代がずっとキリシタン禁教令の時代であった事を訴えている。それは隠し念仏の僧侶でさえも、キリシタンであると言いがかりをつけて殺す事ができる悪法だった。これは宗教問題ではなく、どの人にも降りかかる恐怖である。その中で江戸の文人達はキリシタンを語り継いでいた。明治になって、夏目漱石の「吾輩は猫である」が発表された。読む前からすでに、人々は題名だけで漱石を歓迎したのだろうと思った。
 その後、キリシタンの名誉は回復されただろうか。鎌倉のキリシタン遺物は今後も保存されるのだろうか。昭和の弾圧の時代が再来しない事を、私は願っている。
 
 
 

 リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」地湧社  60頁 600円。
 私家版「織姫星と鎌倉」銀の鈴社 272頁 2000円。
 メールしていただければ郵送いたします。
4月29日(金)鎌倉市西御門カジュにて販売*

      


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  ***亀子***
( 21 Apr. 2016)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2):::
215.権五郎神社と彦星
216.扇湖山荘と星
217.その八重垣をギャラクシーという
218.逗子市沼間の地上の北斗
219.星宿橋と梅田川の北斗
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
221.東慶寺の景観とすばる星
222.大船の南斗六星と星ガ谷
223.長岡京の彦星線

224.二宮町の出雲八重垣
225.六人の勇士 池子の蛇退治1

226.石楯尾神社の星

227.阿蘇内牧温泉の星
228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮
229.カガセオの星
230.摩多羅神の居る鎌倉
231.深沢の星景色
232.鎌倉の熊野神社
233.猪鹿狼寺の秘密
234.泣塔が見ていた星
235.霜月祭のヘンバイと星
237.京都下鴨神社の星
239.スカイ島の立石と銀河 The Storr&MilkyWay
Scotland&Cygnus/1

240.オークニー島の世界遺産と天の川 Heart of Neolithic Orkney&Cygnus
Scotland&Cygnus/2

241.緑の洞門(北鎌倉駅のトンネル)とその稜線について
242.緑の洞門と北鎌倉の星の景観
243.「道の先」と円覚寺、東慶寺、浄智寺の星景色

244.藤原の宮の御井の歌

245.見開かれた眼
246.高市皇子の星空 藤原宮御井歌2
247.天文現象の事実と記載された歴史の差 藤原宮御井歌3

248.天武天皇とすばる星 藤原宮御井歌4
254.越木岩神社とイワクラ

255.永福寺跡の星景色

256.北西312度の白鳥座
257.源頼朝の古式巻狩
258.天の川が地平線を覆う星景色(かさね石)

259.鳥羽三女神の星景色 熊野4
......池子王の戦い 池子の蛇退治2


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