東日本大震災で被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。 +キリシタンと江戸文化+ +
191.踊場の猫の供養塔(横浜市泉区) 鎌倉市の北4.5kmほどの所に横浜市営地下鉄一号線が通っていて、踊場駅がある。そのあたりの字名を踊場(おどりば)といって、駅の1番出口を使うと旧大山道と旧岡津道の交差点に出る。急坂の頂上である。
踊場駅2番出口から 踊場とはネコが踊った場所だ。この地に残る伝承を横浜市泉区のHPから読んでみた。 参照:「いずみ いまむかし?泉区小史?」泉区小史編集委員会編集
「明治百年記念 戸塚区郷土史」(戸塚区観光協会昭和43年発行)にもこの伝承が掲載されている。踊場のある泉区は旧戸塚区なのだ。要約してみると。 昔、水本屋という醤油屋の手ぬぐいが毎晩一本づつなくなった。主人は飼い猫のトラが手ぬぐいをくわえて逃げていくのを見た。或る夜、踊場を通りかかった主人は猫どもが踊りながら話しているのを聞いた。「今夜は水本のトラがいないぞ」「あいつ、家で熱いオジヤを喰わされたんで、舌をやけどしたと言ってたぜ」「それで来ないのか」主人はびっくりして家に帰り、聞いたところ、たしかに猫にオジヤをやったという。そこで手拭いのなくなる謎が、やっと解けたといって喜んだ。猫達が頭に手拭いをかぶり、毎晩踊っていたところを踊場というようになった。 いいお話だと思う。手拭いがなくなった謎が解けてよかったと、お話は締めくくられる。ネコに手拭いを返せ、とは言っていない。踊りに行くなとも言っていない。私はどこかで、主人が飼い猫と一緒に踊ったと言うバリエーションすら読んだことがある。ほのぼのとしている。 似た話が静岡県田方郡函南(かんなみ)町にある。熱海から三島に向かう峠越えの道がある町だ。 こちらはもう少し写実的、リアルである。函南町観光協会のHPから引用、要約してみる。 昔、天保のころ(1830-1844)の春の夜のこと。軽井沢の藤蔵さんは隣村の田代に行き、夜更けての帰り道に、村境の寂しい竹林で、藪の中から話し声がした。足を止めて聞いてみると。「みんな集まったかい?」「いや、まだ上の白が来てないぜ」「白が来ないばっかりに、踊りがはじめられないじゃないか」
と、親分らしい者の声がした。「○○屋の『トラ』××屋の『三毛』、△の『くろ』、□屋の『ぶち』☆屋の『玉』」「みんなそろったようだ、ぼちぼちはじめるか」「白やい、今夜はお前が笛を吹けよ」「今夜はおれはだめだ、笛はふけないよ。夕飯に、熱いオジヤを食わされ、舌をやけどしてしまったよ」「しかたがない、それでは今夜は踊りはできねえ、お開きにしよう」
「そうしよう、そうしよう」それで、みなガサガサ音をたてて、行ってしまった。
藤蔵さんは、「藪の中で笛を吹いて踊っているなど聞いたこともない。それに、白、ぶち、くろ、三毛、玉なんて、みんな猫の名前だ」と思った。恐ろしくなり家に帰ると、「猫の白に今夜は何を食わしたな?」と聞いた。「残りのオジヤをくれました」藤蔵さんはびっくりして、とんだ化猫を飼ってしまった、と思った。あくる日、白を捕まえて藤蔵さんは話した。「白よ、うちでお前を飼っているのは、踊りをおどったり、夜ふけに笛を吹いたりするためではないぞ。そんなことをしているのなら、うちで飼っておくわけにはいかないよ」すると、その日の夕方から白の姿はどこにも見えなくなった。 参照:函南町観光協会 かんなみ猫おどり 言葉を話すなら、それはネコではない。人間だ。 互いをマチヤスとかマリヤとか呼ぶ仲間であったと想像してみよう。春の復活祭の徹夜のお祭りを見とがめた村人が、この村でその祭りをやってもらっては困ると言ったのかもしれない。 横浜と函南と、二つの伝承はよく似ている。だからこの話は同じ話の継承だ。同じ事を伝えている。函南はネコを追い出したが、泉区は黙認したのだ。 そして、広く伝承として流布して伝えたい、もっとも重要な事は。それは両方とも、「ネコ」は昔から村に住んでいた人ではない、ということだ。 村人ではなく街道を流れて来た人達の深夜の祭りだったと語っている点だ、と思う。 キリシタンだと言われると「無宿」になる。お寺が管理する村人ではなくなるのだ。 熱海や三島、戸塚という大きい宿場町はそういう人達を雇って、生活できる場を与えたのだろうと思う。 ある日その祭りを見とがめられる。そんなに派手にやってもらっては困る、というのだ。キリシタンが見つかったなどとは言えない。雇った人や庄屋さん、村のお寺さんも責任を問われて打ち首になる。だから「ネコ」なのだ。人語を語るネコとして語り伝えたのだ。 こんな事例を鎌倉市の「古狸塚」で書いた。こちらはお寺に住み着いた気の良いタヌキの伝承である。 参照:125.古狸塚 江戸時代の人達は、かつてキリシタンであった人達と共存し、死者を出さないで穏便に暮らそうと工夫していたのだ、と思うのだ。 +
横浜市泉区の踊場には猫の供養塔と言われる石碑が建っている。「南無阿弥陀仏 寒念仏供養」「相州鎌倉郡中田村 同行五人」「三界萬霊等 志」「元文二丁巳天十二月」(1737)と書かれている。そこに猫の置物がたくさん供えてあった。地域の人達に大切にされている石碑である。
踊場駅2番出口にある供養塔 この供養塔の説明板に、碑は中田寺の和尚さんが建立したと書いてあった。隣の中田駅で下車して、中田寺も参拝してみようと思った。
浄土宗 貯徳山 中田寺(ちゅうでんじ) 三門を入ってすぐ右に、六地蔵の隣に、子安地蔵があった。赤ちゃんを抱いたお地蔵様だ。赤ちゃんの顔までしっかりと彫ってある。見惚れてしまった。このお地蔵さんも江戸時代には白く美しくお化粧されていたのだろうか。 参照:173.化粧するお地蔵様
中田寺の開基は石巻五太夫康敬、小田原北条氏の重臣だ。それも小田原城が落ちる時の。江戸時代の始めに立ち会ってしまった人だ。 新編相模風土記稿によれば、呼び出されて城主の代理として豊臣秀吉に会い、小田原攻めの後に徳川家康によって助命されたという。 後に許されて中田村に蟄居。家康が江戸に来た時に柏尾川のほとりで再会する。 小田原北条氏の家臣は落城の時に戦死したり、武士をやめて農民になったりした。彼は家康に認められたおかげで中田村の領主として存命することが出来たのだ。死なずにすんだ。めでたい事だ。 石巻五太夫康敬が家康を迎えた場所は今も五太夫橋と呼ばれて、家康と石巻五太夫の人柄を讃える伝承地になっている。 つまり中田村とは、小田原北条氏の時代からずっと変わらずに、石巻下野守康敬が領主であったことによって、その文化を継承し続けることができた場所だったのだ、と思う。 踊場で踊った猫が追い出されずに、手ぬぐいを盗むなとも言われずに、おおらかに語り継がれたのは、踊場を語った人達が、江戸時代になっても小田原北条氏の雰囲気を保ち続けていたからではないのか、と思った。 歴史嫌いだった私がつい最近学習した僅かな知識によると、小田原北条氏とは四公六民という格安な税制をしいた領主で、側室をもたなかった為に相続問題でトラブル事が無く、「小田原評定」という軟弱な戦術で武士にあるまじき戦争回避をし続けた一族だ。 「ネコ」と一緒に醤油屋の主人が踊ったとしても、理想郷中田村では、ありえることだと想像してしまう。 +
江戸時代はキリシタンを語ることが出来なかった時代だ。そのかわりにタヌキやムジナ、カッパやテングという妖怪を江戸時代の人々は作り上げた。そこにネコを入れるとは、思いもしなかった。 先日「猫の神様を求めて」というブログを知った。長野や福島に祀られている猫神について、たくさんのことをここから学ぶことが出来た。街道、鉱山、泉、安産祈願など、キリシタンに関係するキーワードがちりばめられていた。 猫への愛情から始まったと言うブログは古代から現在までの猫信仰について、様々な方向から考察を試みている。すばらしい。そこに「江戸時代のキリシタン」という横軸を交差させてみる。その交点に江戸時代の「猫」がいる。興味深いと思う。既存の猫のイメージがあったからこそ、そこに「隠れる」ことが出来るのだ。 猫の神様を求めて、に「マタエンバ供養塔」の伝説があった。福島県の伝承だそうだ。その一部を要約してみる。
元禄の初めの頃、又右ェ門と云う爺が、老婆を介抱してやった。婆はそのまま後妻に落ち着いた。
婆は毎晩、鹿島神杜の境内で猫を大勢集めては、歌いながら踊っていた。
西念と云う若い僧が、婆の姿を化け猫と見破った。猫は煙出しからとび出し、黒雲に乗って西の空に消えた。
猫の行先きは那須の北の湯だった。それ以来、村の者が行くと変事が起こるので、北の湯には行ってはいけない。 ブログ「猫の神様を求めて」が素晴らしいのは、この後に那須の北の湯に残る伝承を併記している事だ。「猫ばっぱの話」である。これも引用、要約する。 昔、今の「福島県」のある村のある家で、猫が飼われていた。村人からも可愛がられて長生きとなった。ところが、村人がその猫の尻尾が二股に分かれているのに気づいた。これは猫又だと、村中みな恐れおののいた。村中で唐辛子を火にくべ、い燻して猫を村から追い出した。その後、村には平穏が戻ったと云う。しばらくして、北の湯に貧しい老婆がやってきた。北の湯の主人は湯治場で働いてもらうことにした。老婆は、陰日向なく働いた。ある日のこと、家族連れの客が北の湯にやってきた。明け方頃に一家のおじいさんがいないことに気づいた。探すと、おじいさんは引き裂かれて、大木の枝に引っ掛けられていた。この家族はあの猫又騒動の村からやってきたと云う。この日以来、老婆はいなくなり、あの村の人々は、現在も北温泉にはやってこない。
猫はその後、裏磐梯の猫魔ヶ岳に移り住んだと云われている。 参照:「猫の神様を求めて」 すごい、と思う。福島県と栃木県の伝承が繋がっている。 福島の猫は那須に逃げる。そして更に裏磐梯の猫魔ヶ岳に行く。 そこから北へ向かえば30kmで米沢だ。米沢には北山原(ほくさんばら)殉教遺跡がある。1629年(寛永6)53人の殉教者を出した。 あるいは、猫魔ヶ岳から東に30km進めば二本松城下に至る。1632年(寛永9)、14人の殉教者を出す。マタエンバの伝説は元禄の初めの頃だから1690年代だ。恐怖はまだ語り継がれていたのだろうと思う。 踊場のネコと函南のネコ、マタエンバと猫ばっぱ。これらの伝承が伝えたかったことは、どれも「村にやって来たキリシタン」の事であっただろうと思う。もし村にキリシタンの遺物があったとしても、それは旅人が残していった物なのだ、その事は子供から大人まで誰でもが知っている、決して村人を処罰しないでください。殺さないでください。そういう命がけの切実な願いが、このネコの物語を、21世紀の今日まで伝えて来たのだ、と、思うのだ。 +
追記: キリシタンをネコと呼びかえたのは誰だろう。 猫は仏教徒に嫌われる動物なのだそうだ。お釈迦様にお薬を届けるネズミを猫が押さえてしまったので、薬が届かずに釈迦は入滅したのだそうだ。 それから「猫の島」の伝承がある。平安時代の今昔物語集(巻二十六「加賀國諍蛇蜈嶋行人、助蛇住嶋語」第九)に語られている猫の島は、能登半島の輪島の沖にあると言う。7人の若者達が定住した楽園の島であると語り伝えている。理想郷である。 参照:能登の民話伝説(奥能登地区-No.1) そういう古典を知っていた人が能登半島に居た。その人はキリシタンである為に日本から追放される身の上を思って、海の向こうの猫の島、楽園を語ったかもしれない。それは高山右近だと想像してみた。石川県七尾市にキリシタンの魂祭りの料理が伝わっているそうだ。それは高山右近の記憶でもあるのだ。 参照:隠れキリシタン料理 江戸時代にキリシタンは語ることができなかった。日本の各地でキリシタンの処刑があったのに、その墓も作る事は許されなかった。 キリシタンとは、最後まで習慣を変えなかった村人であったり、通りがかった旅人であったり、キリシタンだという位置に追い込まれた村の弱者だったり、要するに顔の見える人間なのだ。一緒に生活して笑う事の出来る人達が突然に殺されて行く。 それを見て、人々は供養塔を建てたのだろうと思う。そこに猫と言う記号が付けられた。そういう時代があったのだと、思うのだ。
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***亀子***( 29 Apr. 2011-3 Mar.2012)
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十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
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