鎌倉市山ノ内に在る松岡山東慶寺は縁切り寺として有名な臨済宗円覚寺派の古刹である。ここに葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ)という重要文化財があって、拝観するといただける解説にも、その写真が載っている。箱の蓋全面に大きくIHSというイニシャルが付いていて、花十字と3つの釘のマークが付いている。イエズス会の印だそうだ。キリスト教のミサで用いる道具らしい。
この豪華な箱がいつから東慶寺にあるのか、わかっていない。昭和11年に東慶寺の収蔵品調査があって、その時に吉野冨雄氏が発見したのだそうだ。
参照:3.「知られざるjapan」の誕生 東慶寺は1285年(弘安8年)に鎌倉幕府9代執権の北条貞時により建立された。前年に父である8代執権の時宗が亡くなって、母の覚山尼が開山となった。彼女は安達泰盛の年の離れた妹で、泰盛の養女になっている。この年に霜月騒動があって、貞時の執事の平頼綱が、安達泰盛とその勢力を抹殺している。全国で500人余りが自害したことがわかっているそうだ。父と息子は円覚寺に、覚山尼は東慶寺に眠っていて、安達泰盛はどこに眠るのか、私は知らない。
その後、5世住持に後醍醐天皇の皇女、用堂尼を迎えて、東慶寺は松ヶ岡御所と呼ばれるようになる。二十世住持は有名な天秀尼で、徳川二代将軍秀忠の娘、千姫の養女であった。そんなお寺にキリシタン遺物が伝わっている。不思議な事だと思う。
1615年(慶長20年)、大阪夏の陣で大阪城は陥落する。豊臣秀頼とその母の淀殿(浅井菊子、茶々)は自害したという。秀頼は23歳であったそうだ。秀頼の息子の国松は捕えられて斬首された。8歳。淀殿は妹の常高院や多くの侍女を大阪城から逃がしたという。この時城から脱出した淀殿の侍女の菊が、孫に語った大阪城落城の様子が「おきく物語」として残っているのだそうだ。
参照:
おきく物語
秀頼正室の千姫はこの時18歳。彼女は大阪城を脱出する時に、奈阿姫6歳を連れて逃げる。秀頼の娘である。自分の養女として、尼にすることで姫の命を救った。奈阿姫は実母の小石の方と御付きの甲斐姫とともに東慶寺に入る。徳川家康に滅ぼされた秀頼の娘。天秀尼とはそういう人だった。
では、あの美しい聖餅箱は誰の持ち物だったのだろうか。
+天秀尼の祖母の淀殿、その母は織田信長の妹のお市である。市は浅井長政の正室となり茶々、初、江与の3姉妹を産む。1573年、信長に破れた長政は自刃。市は北ノ庄城主の柴田勝家と再婚する。この北ノ庄を1581年(天正9年)に宣教師のルイス・フロイスが訪ねていて、その様子を書いているのだそうだ。あの聖餅箱はお市の方の遺品なのだろうか。
+淀殿の父は浅井長政である。長政の姉は京極マリア。夫の京極高吉とともに安土城で洗礼を受けた。彼女の持ち物だったのだろうか。
+淀殿の妹が初(常高院)。京極高次の妻となった。この時代には珍しい政略結婚じゃない夫婦だそうだ。飯田松尾城主の高次は京極マリアの長男で、キリシタン大名だった。初も洗礼を受けたと言う。彼女の持ち物だろうか。
+淀殿の妹の江与(崇源院)は千姫の母。千という漢字は十字架を表しているのだそうだ。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の頭文字の「INRI」が記された札を頭上に付けて、キリストは十字架にかけられた。あの箱は千姫が東慶寺に持ち込んだのだろうか。
+千姫の養女、天秀尼の母は成田助直の娘の小石(おいわ)だ。岩というのはキリストの12使徒のペテロを表す。彼女の物だろうか。
+天秀尼の養育係の甲斐姫は忍城の成田氏長の娘。小田原城が豊臣秀吉の手に落ちた時、父とともに忍城を去って蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に住んだ。氏郷は秀吉に仕えたキリシタン大名でレオンという名を持つ。彼の聖餅箱だったのだろうか。
重要文化財の葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ)は大阪城から千姫と天秀尼によって東慶寺に運ばれたと考える。東慶寺に入る尼僧は皆、荷物のチェックを受けるだろう。でも徳川二代将軍秀忠の娘、千姫の荷物を、いったい誰が点検できるだろうか。東慶寺に持ち込むのは、この時しか無いのではないか。と、思う。1615年(慶長20年)の事だ。
+1623年(元和9)フランシスコ・ガルベス神父らが鎌倉の港で捕縛される。この時聖餅箱を隠し持った少女が東慶寺に駆け込む。そういう想像もできるだろう。東慶寺は少女を救うだろう。聖餅箱を守り、少女の命も守るだろう。
+あるいは、その箱は台の東渓院の物だったかもしれない。東慶寺は山ノ内にあり、その西が台だ。東慶寺から東渓院まで800mも離れていない。東渓院が明治の廃仏毀釈で廃寺になった時に、秘密裏に運ばれたのかもしれない。
この箱の由来について、天秀尼さんに聞いてみたいと思う。縁切寺のシステムを作って、苦しむ女達を救った天秀尼さんが、この聖餅箱の事を一番良く知っている様な気がするのだ。
二十世住持の天秀尼の墓は、東慶寺の墓地の西側の大きなイチョウの木の側に在る。午後の日差しではわからないけれど、十一時頃にお参りをすると墓碑の真ん中にきれいなクロスが描かれているのを見る事ができる。と、私は思っている。
あの箱は6歳の奈阿姫が養母の千姫からもらった宝物。自害したお市、ひいおばあちゃんの遺品なのだと、思いたい。
追記:
東慶寺は尼寺であった。女達の寺の、門を入ってすぐ右に、二十三夜塔が立っている。長い月日が経って、石仏は溶けているけれど、美しい塔である姿は変わらない。この塔が通路に対して斜めに立っていることに気づいたら、その塔の向かう方を眺めてみてほしい。
それはきちんと東を向いていて、二十三夜の夜更けに、右下がりの明月院の山の端から、幼子キリストを抱いた聖母マリアが現れるのを見ている。聖母子が現れた後に、二つのロウソクが灯り、その後に月の小舟が現れるだろう。
誰も何も語らない。語る必要は無いのかもしれない。信仰はその人個人の心の中に在るから。二十三夜は勢至菩薩の講であって、見えるのは阿弥陀三尊だ。そうして鎌倉は、いつまで沈黙を続けるのだろう、と、思った。
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