庚申塔についてはたくさんの研究が為されていて、インターネットでも拝読することができる。鎌倉にも様々な庚申塔があって貴重な文化財として記録されている。
庚申塔は江戸時代の鎌倉に生きた人達を想像する縁となって、時代の証拠として何かを語りかけて来る。
キリシタン弾圧時代に人々はどんな石像を造ったか、そういう色眼鏡であえて庚申塔を見てみたい。想像の翼を広げて「別の庚申塔」を見ようとする試みだ。
庚申塔の代表的な様式に、青面金剛像を浮き彫りにした舟形の石碑がある。青面金剛は2対の腕であるとお経には書いてあるのだそうだ。だけど街角で見る多くの青面金剛像は腕が3対ある。3番目の腕は胸の前で印を結んでいるのだ。だから2対の腕を持つ青面金剛像を見つけるとハッとする。珍しい像なのだ。それは市の有形民俗資料になっている。
青面金剛の4本の腕はぴんとまっすぐに伸ばされていて、一目見てXの形に見える。この庚申塔と全く同じデザインのものが鎌倉にはもう一つあってどちらも延宝八(1680年)という文字が彫られているそうだ。
ギリシャ語でキリストのことをΧριστ??と書くのだそうだ。それでXはキリストを表す頭文字になっている。クリスマスをXmasと書いたりする、そのXがこの庚申塔に描かれている、としよう。するとこの青面金剛の姿が別の姿に見えるだろう。
裸の両腕を広げて高く上げている。腰に布が巻き付けられていて膝から下が出ている。手に持っている剣やロープは目立たない様に、ごく薄く彫られている。厳しい表情の青年の姿だ。頭上には日月が薄く描かれていて、そのまわりを厚い雲が浮き彫りにされている。
同じ画面の下に三猿が彫られている。中心は正面を向いて両耳を押さえた「聞かざる」。両端は「見ざる」と「言わざる」。片手を地面について、片手で目や口を押さえている。その上にごく薄く鶏が描かれている。
キリストが衣服を取られて磔になった時に、空には厚い雲が立ちこめていた。十字架の下には聖母マリアとマグダラのマリア、それに使徒ヨハネが嘆きながら付き添っていた。そういう構図でたくさんのキリスト磔刑図が描かれている。中世からルネッサンスにかけて、さらに現代までの名画の、その磔刑図の様式をきちんと押さえて、この庚申塔は作られている。
擬人化された三猿は顔が欠けているけれど、その姿は背を丸めてしゃがみ込み絶望している人と泣き崩れている人たちに見える。
この庚申塔はキリスト磔刑図そのものだ。と思った。
こちらの庚申塔は風化を免れて美しく保存されている。苔や地衣類などがつかない様にタワシで磨かれて来たのだろう。大切にされた庚申塔である。その青年の顔は、とても心打たれる表情をしている。ざわざわと心をゆらす何かが、彼の表情から伝わって来る。1680年の青年の顔が329年もの時を越えて訴える。それは怒りだろうか。絶望だろうか。苦悩に耐えている姿だろうか。江戸時代の人であったら、すぐにわかる表情なのだろうか。青面金剛像ではなくて、これは実在した誰かの肖像ではないのかと思う。
こんな傑作を美術館ではなく路上で見ることが出来る。すばらしいことだと思う。
庚申塔には色々なデザインがあって、制作された時代も1600年代、1700年代、1800年代と様々で、関心が表面の意匠に集まりがちだ。だからここではあえて、その台座にも注目してみる。
今、庚申塔は地面にコンクリートで止められていて、埋もれているものが多い。でも、江戸時代には基盤の石の上に建っていて、その前で膝をついて祈ると、真正面か見上げる位置に塔があっただろう。と、思う。見る視線が下から見上げる様に出来ていると思うのだ。だから写真を撮る時にはなるべく低い位置から撮影することを心がけている。その、一段高い台座には溝が掘られていて雨水が溜まっている。これはなんだろう。
現代の墓地の墓石には花活けとお線香を置く場所とが墓石の前にしつらえてある。だからこの溝もお線香を置くのかなと思ってしまう。でも江戸時代は、高価なお香を束で燃したりはしないとおもう。この凹みは始めからこの様に、お水を入れておく溝ではないのか、と想像する。人の手のひらの巾よりも長く、指が入る巾よりも広く作られている溝は、カトリックの人達が使うお水を入れておく所なのではないか。と思う。聖水入れに指を浸して十字を切るために。
そういえば、お寺の本堂の仏像の前に、お香とお花とお供物は供えられているけれど、お水はない。お椀にお水を入れて供えたりはしない。だけど家にある仏壇には必ずお水を供えている。仏壇はミニチュアのお寺なのだとおもうけれど、こんなに仏壇が一般的になったのは江戸後期からだろうか、明治期からだろうか。お墓の前にも茶碗に入れたお水を供えたりする。この、お水を汲んでおくという風習は江戸時代のキリシタン由来の風習ではないのか。どうだろうか。神棚にはお酒とお水を供えるのだそうだけど、それはいつからなのだろう。そういう風習に関心が無かった私には解らない事ばかりだ。
鎌倉にあるXのついた庚申塔は双子の様にそっくりだ。さらにお隣の横浜市にも、この形の庚申塔があるのだそうだ。それもやはりそっくりなのだろうか。この庚申塔を作った石工の仕事を追いかけてみたらどんなに面白いだろう、と思う。
庚申塔は辻や塚などにあったものが、今は寺社の境内などに移動されていることが多い。道路の拡張で場所を奪われたり、廃絶したお堂にあったものだったりして、いくつもの庚申塔が一カ所にまとめられて保存されている。だから今ある場所と庚申塔は無関係だったりする。それに庚申塔は石工が造るので、石工のデザインが村にやって来るわけだ。村人の全く関知しないデザインの庚申塔が設置されることもあるのかもしれない。
たとえば石工がキリシタンの意匠をもった庚申塔を意図的に村々に設置していった、ということも考えられる。そうであっても、どこの石工に制作を依頼するかは村の人達が決めることだ。村に縁の良く知っている石工に頼んだだろう。あるいは近隣の村の庚申塔を見て、あの庚申塔を作った石工にと注文したかもしれない。どちらにしても高価な石塔を建立するのだから、青面金剛の腕が6本か4本なのかは承知していたと思うのだ。つまり、キリスト磔刑図としての庚申塔を必要としていた人達が1680年の鎌倉のあちこちにいたのだ、そう私は思っている。
1680年は庚申の年だった。そして北鎌倉に明治まで存続した東渓院の建立された年でもある。北鎌倉の1680年は徳川家の庇護の下に、潜伏したキリシタンが安全に生活できた場所だったのかもしれない。
それは立場の違う人達を排斥しない社会だ。鎌倉の誇らしい歴史のひとつだと思う。その証拠を、この庚申塔に見ることができる、と思った。ある人には庚申塔で、ある人にはキリストの生涯を思い出す記号でもある。この石碑の前でキリスト磔刑図を想像することが出来る。禁教令の下で共存する社会があったのだと、そう思いたい。
参照:110.東渓院菊姫北鎌倉と豊後竹田
参照:138.忠直とサンチャゴの鐘豊後竹田と北鎌倉
追記:ここに掲載した4手の庚申塔について、すばらしい研究が為されていた。こういうサイトに出会えるなんて、インターネットはすごいといつも感謝してしまう。
神奈川南部の石工の系譜 第三報改訂 大畠洋一
片手を地面についた三猿の特徴から一人の石工の仕事を追跡して、彼の生涯について言及したレポートだ。
湯河原の無名の石工が庚申の年に鎌倉に出て来て4手の青面金剛像を作る。それが翌年から6手の青面金剛に変わり、やがて北鎌倉の明月院の北にある様な合掌した6手の像に変わっていく。彼の作品を年代順に並べて説得力のある表にまとめた労作だ。
湯河原と真鶴でとれる安山岩は、江戸城の拡大工事のために切り出された。1606年(慶長11)の事だそうだ。
徳川家康は西国の大名にその仕事を割り当てた。細川興元、大村純忠、黒田長政、有馬直純、京極高次と高知、寺沢堅高などのキリシタン大名がいた。と、高木一雄先生の「東京周辺キリシタン遺跡巡り」にある。神奈川県足柄下郡真鶴町には福岡藩の石切丁場があって、黒田長政の供養塔が近くの西念寺にあるのだそうだ。キリシタン礼拝所も真鶴半島にはあったのだそうだ。
その石工達の末裔の一人が1680年に、この庚申塔をデザインした。猿と庚申は平安時代からある信仰だ。でも庚申塔は相模国、この神奈川県が本場らしいのだ。知らなかった。
その無名の石工のデザインと良く似た絵をイタリアの古都フィレンツェにあるウフィッツィ美術館の名作に見つけ出した。WEB GALLERY of ARTという膨大な美術画像のサイトからCrucifixionで検索して見つけ出すことができたのだ。
NARDO DI CIONEという画家の1350-60年のテンペラ板絵だ。船型の中央にキリスト、その下に3人。鶏はいないけれど天使が飛んでいる。Crucifixion こちら
あるいはロンドンのナショナルギャラリー(National Gallery)のラファエロ(RAFFAELLO Sanzio)の1502-03年のCrucifixion (Citt? di Castello Altarpiece)の方が似ているかもしれない。人物が3人ではなく4人になっているけれど、こちらには日月が雲に覆われて描かれている。
Crucifixion (Citt? di Castello Altarpiece)
青面金剛像は仏像だ。でもこの庚申塔のデザインはイタリアのものだと私は思う。
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