鎌倉、まぼろしの風景。

     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

鎌倉中央公園

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


山崎の里 (3)          

 鎌倉市の中央公園になっている山崎の谷戸は不
思議な所だ。歴史の資料が少ないと言われている
所だ。鎌倉市の真中にあって化粧坂から洲崎へ抜
ける古道が山の峰に通っているにもかかわらず、
谷に何があったかが私には解らないのだ。
 初めてこの谷を見たのは、まだ山崎小学校がで
きる前で、幽玄な山崎の切通しがあった頃だ。
魯山人の窯跡の周辺には、割られた茶碗や皿がま
とめて捨てられていて、おとぎ話に出てくる雀の
お宿の御殿みたいなお屋敷の南には、これもおと
ぎ話にあるような、美しい棚田があった。子供心
にも、これは見るための田園、お庭なのだと思っ
たものだ。特別な美しい大切にされた谷戸である。

 山崎の谷を考える前に、台山のことをまず見直
してみる。台山の峰は二つあるのだ。円覚寺に面
した北西に伸びる峰と谷を挟んで南に、湘南モノ
レールの近くまで北西に伸びるもう一つの峰から
できている。二つの山が重なって、多摩の横山の
ような、台山を作っている。間に谷戸があって、
人家があるということに、ちょっと気づかない。
その様に、山崎の谷戸は3つある。江の島道に添
って平行に3つあるのだ。

 小学校から入る谷は、矢戸ノ池の前で東に登る
と、北鎌倉女子学園のグラウンドに出て、そのま
ま山を下ると、瓜が谷から山仲稲荷の前を通って
円覚寺山門に出る。グラウンドからわずか700m
しかない。鄙びた山崎の田園は北条氏のオフィス
へ直結する場所で、その入り口の「グラウンド」
は、高台の富士見ポイントになっている。
なぜか向かいの山頂が、グラウンドと同じ高さに
平らに削られているのだ。視界を遮らない工事が
されている。だからこのグラウンドは、寺跡か屋
敷跡なのだろうと思う。
 中央公園の谷は、深禅寺がかつてあったという
谷かもしれない。夢窓国師の弟子の義堂が、1649
年に深禅寺の僧と語ったと「日工集」に載ってい
るから、その頃にはあったのだろうと新編相模国
風土記はそっけない。さらに古領主の宗高院の館
跡が南西にあったらしいと続く。奥平の女と伝わ
るこの領主は、「家系伝記等に所見無ければ、考
えるに由なし。」と、これも冷淡だ。
この人物は、ここから約1kmほど北東にある成福
寺の由来にも出てくる。謎の人なのだ。

 そして最後の谷。ここには諏訪山昌清院がある。
円覚寺の末寺で1597年に創建された。

ここで唐突だけれど、徳川家康と息子の2代将軍
秀忠の時の事件を簡単に書いてみる。

 家康の三女振姫を正清院という。秀吉の命令で
陸奥会津の藩主蒲生秀行と1598年に結婚した。18
才だった。ところが秀行が30才で亡くなってしま
う。二人の息子(忠郷、忠知)を庇って筆頭家老
の老岡半兵衛重政と衝突し、家康に進言したこと
で重政を死に追い込んだとされる。あるいは家老
への幕府の弾圧策であったとも。その後、家康の
命令で幼い子供達と別れて浅野長晟と再婚する。
翌年、浅野光晟を生むが、その16日後に亡くなっ
た。高齢出産で命を縮めたともいわれている。38
才だった。後に振姫の長男蒲生忠郷は、会津の融
通寺に母の供養塔を建立している。政略結婚と、
女が子供を産むことに縛られていた時代の悲劇だ。
参照:浄土宗新聞 昭和51年7月10日
?会津若松 融通寺 元和五年徳川家康公姫君昌清院殿の、、

 もうひとつ。
 2代将軍徳川秀忠の三男徳川忠長は、兄の家光
と世継ぎ争いがあったと噂される。1623年に家光
が第三代将軍になると、中納言に任官し、翌年に
は18才で駿府城を与えられている。ところが1631
年に辻斬りをしたらしい。家臣の手打ちもやった
らしい。父秀忠は彼の出仕を止めた。翌年秀忠の
死後に、将軍家光が領地を没収している。大阪城
を要求したため家光の怒りに触れたからだとも言
われている。1634年、忠長は高崎城で自害した。
28才だった。身長 161cm体重65kg(推定)。母の叔
父の織田信長に顔立ちがよく似ていたといわれて
いる。と、ウィキペディアWikipedia には書いて
ある。
 忠長の正室お昌の方(昌子)は、江戸本郷の草
庵に寺を建立して、忠長の乳母の朝倉清を寺の開
基の昌清尼とした。墓を建てることも許されなか
った忠長の供養をひっそりとさせたのだ。寺の名
を嶺松三弘願院昌清寺という。
 お昌の方は出家して松孝院という。扇ガ谷の薬
王寺には、彼女の建立した忠長の供養塔がある。
 薬王寺には振姫(正清院)の息子蒲生忠知の妻
と娘の墓もあって、徳川将軍家とのつながりが偲
ばれる。

***
 家康は岩瀬の大長寺を保護して、鷹狩りの時に
立ち寄ったという。万葉集の時代から、城を出て
野に遊ぶ時には、身分に関係なく一般の人たちと
話ができるチャンス、あるいはプライベートな出
会いを図ることができる希有な時だ。手紙をもら
ったり渡したり、家康にとって鎌倉の西、大船は
個人的な場所だったのではなかろうか。生涯に千
回以上も鷹狩りに行ったそうだ。
 そして後に、その休憩所であったあちこちの寺
は、将軍家の蟄居場所になったと、私は夢想する。
たとえば忠長が必要としたような隠れ里。短期間
の隠居場所。それが後に長久保赤水のような、武
士ではなかった研究者達が、自由に出入りできる
研究所になる。それが、山崎にあったとしたらど
うだろう。仮定に仮定を重ねる夢想だけれど。

 46.おとうさまの谷戸(4)に続けます。



     

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  ***亀子***
(29. Sep.2007 - 26 Jun.2012)
 
     

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