鎌倉市扇ガ谷に日蓮宗大乗山薬王寺があって、ここに松平忠長の供養塔がある。正室の松孝院が建立したと案内板に書かれていた。
徳川2代将軍秀忠の息子は家康と同じ幼名をもらったのだそうだ。竹千代という。春日局によって育てられ、3代将軍家光となった。2歳下の弟は国松。母に溺愛されて才能ある青年に育った。この子が松平忠長だ。
二人の母は浅井三姉妹の江与だ。織田信長の妹のお市の娘達である。大阪城で自刃した淀殿と、キリシタンだった京極高次の妻のお初が、おばさんにあたる。
だから将来の徳川将軍になる長男の竹千代は、大阪城と豊臣家、キリシタンの影響から遠ざけられて育ったのだと思う。その逆に弟の国松は、母の江与から大阪や福井での暮らし、お市おばあさんの思い出話をたっぷり聞いて育っただろう、と思う。二人は兄弟だけどずいぶん違うキャラクターになったらしい。
国松は12歳で甲斐国20万石の甲府藩主となる。14歳で元服して松平忠長と名乗り、信州の小諸も領地になった。1623年(元和9)織田信長の曾孫にあたる昌子を正室にした。17歳と10歳、光源氏と紫の上の様な、兄弟の様な夫婦だっただろうと思う。
1624年(寛永元)に駿河と遠江つまり静岡県が領地として加わった。さらに1627年相模の、今の相模原市も領有して55万石の駿河大納言と呼ばれるようになる。
西国から江戸へ下る大名は、駿府城にご挨拶してから江戸城に入る。それは家康が駿河に隠居していた時代の名残なのだと思うけれど、まるで将軍が二人いる様だと言われたらしい。
ところが1631年(寛永8)頃から忠長の「乱行」が始まり、甲府で蟄居ということになる。翌年には改易になり所領を失って、1633年(寛永10)、幽閉されていた高崎で自刃する。身元預かりであった高崎城主の安藤重長は、助命嘆願をしていたのだそうだ。忠長が27歳、昌子が20歳の時であった。
忠長の自刃を江戸屋敷で聞いて「奥方 松孝院殿は悲歎やるかたなく」と、薬王寺の説明板には書いてあった。
参照:徳川忠長と正室お昌の方
忠長は3代将軍家光から見れば、危険な存在だったのかもしれない。でも、自殺に追い込む程の何が彼にあったのだろう。
彼は「神猿を千数百匹も狩った」「辻斬りをした」「城内の御前試合で木刀ではなく真剣で殺しあいをさせた」という理由で「乱心」と語られている。
猿については、農作物に被害を与える猿を農民の訴えを聞いて駆除したのだそうだ。彼は神猿への信仰を持たなかったのだろう。
真剣試合については、路上で果し合いをしている場面に出会って、その場を止めて諌めるつもりで、「それなら御前試合で」と時間稼ぎをした人がいたのだろう。今では忠長を有能な殿様と認めて、彼を弁護する人達もいるのだ。
参照:よろパラー文学歴史の10ー日本史人物列伝
参照:今日は何の日?徒然日記 非業の3代目ー徳川忠長の自殺
ところで、忠長が駿河を治めていた1630年(寛永7)に、御殿場市の竃(かまど)地区で新田開発をした奥住新左衛門という人がいた。地元では奥住さんと親しまれていて、いわゆる義民とされている人なのだと思う。富士山の南山麓を開墾して、豊かな生活を村に与えた人なのだ。
その功績により竃新田は彼の所領になって、年貢も免除されたのだそうだ。後に新左衛門は忠長亡き後の領主稲葉氏に仕えることができた。それはつまり、もともと武士だった奥住さんは浪人になり、忠長の領地に受け入れてもらえたので、新田開発に貢献できた。ということなのだ。
彼は滅亡した越前の浅井氏の家臣で、棄教したキリシタンであり、宗門改めによって6代後まで監視され続けた人だったのだそうだ。
参照:転びキリシタン奥住新左衛門と竈(かまど)新田
同じ頃、竃の北隣の新橋に「良きキリシタン」と言われた傑心が居た。彼は甲府に生まれた人で、聖フランシスコ会の神学校で学び、伝道士になり、江戸や伊豆地方を巡っていたのだそうだ。1623年(元和9)38歳の時に、ここで棄教したのだそうだ。12年後、江戸へ呼び出されて8ヶ月間も取り調べにあい、翌年もまた取り調べを受けたけれど、二度とも許されて新橋村へ戻っているそうだ。
参照:東京周辺キリシタン遺跡巡り 高木一雄著
ところで、良きキリシタン、という言葉が気になる。聖書には良きサマリア人という言葉が出て来るから、聞き流してしまうけれど、キリシタンに良い人と悪い人がいる、ということなのか。良きキリシタンなどと言うのだろうか。
それはキリシタンを罰する側からの言葉なのだと思うのだ。キリシタンだったけれども良い人だ、という意味だろう。
良きキリシタンと名付けたのは、施政者の側の人、それも力の強い、そして彼らを保護していた人だ。と思う。
松平忠長が言ったのではないか、と想像しよう。「彼らは改宗していて大丈夫なんです。良いキリシタンなんですよ」と、兄の将軍家光に彼は語ったかもしれない。
だからこそ、その命名が後世に残ったのかもしれないのだ。
そしてこれは幕府にとって困った事、だったのかもしれない。
良きキリシタン、有能なキリシタン、村の役に立つキリシタンが、皆に賞賛されて暮らしている、のでは幕府としては困るのだ。
新田開発を推奨して彼らを保護し、駿河で善政を行った松平忠長は、幕府の方針に逆らってしまった。キリシタンなど恐れることはない、棄教した彼らを保護することは藩の為になることもある。それを人々に見せつけた忠長は、弾圧者の徳川家光よりも人気が出るだろう。事実そうなっていたのではないか。
かわいい国松が竹千代よりも皆に好かれていたのではないか。
加賀藩の前田氏は同時代で忠長の言動を見ていて、このままでは松平忠輝や松平忠直のようになる、と心配していたのだそうだ。忠輝は流罪になったまま許されず91歳で亡くなった。忠直も監視されて55歳まで生きている。忠長も自刃しなかったなら、本多正盛の息子であった高崎城主の安藤重長の下で、長生きしたのかもしれない、とも思った。
追記:
江戸時代の朱子学者貝原益軒の書いた紀行文の東路記 (あずまじのき)1685年に、興味深い記事が書かれている。忠長が死んで50年後のお話だ。
駿河に入って駿府城の手前の街道筋に、吉原という町がある。そこに五郎右衛門という大百姓が住んでいた。親を尊び農作業に熱心で、他人にも優しかった。ある日彼の米蔵に盗人が入った。下女が気づいて大声を出すと、盗人は米俵を棄てて逃げていった。それを聞いた五郎右衛門は、盗まれて困窮する様な財力ではないと言って叱った。飢えた盗人もそう思って我が家に入ったのだろう、この米をその盗人の家まで持っていってやりなさい。
またある日、五郎右衛門が畑を歩いていると、ごぼうを掘って盗もうとしている男を見つけた。そこはまだ細い、こっちのごぼうが太くなっている、と彼は教えた。のだそうだ。
諸国巡検使とはキリシタン摘発もしたのだろうけれど、その天和元年(1681)の巡倹使が彼の評判を聞きつけて江戸へ報告をした。五郎右衛門は江戸へ召し出され、年貢を免除されて帰って来る。「その後、家いよいよ富みて財多ければ、貧民をすくひ善をおこなふこといよいよやまず、、、」と益圏は褒め讃えている。
訳注では、泰平の世にはこのような人物が出る、と言う治世を褒める内容であるとして、松尾芭蕉のおくのほそ道にも「仏の五左衛門」という人物が登場する。と説明されている。
仏の五左衛門とは、キリシタン弾圧のあった日光で芭蕉が出会った宿主だ。「良き仏教徒」という意味だろうか。
訳注には「板本では、五郎右衛門に関する記事は削除されていて、存しない。」と書かれている。これが消される程の重大な記事であったということは。駿河、忠長、良きキリシタン、の、その関連を想像させるから、ではないだろうか。
松平忠長について、続きます。
参照:133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6
参照:45.山崎の里(3)
参照:47.将軍のいましめ(5)井関隆子
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