神奈川県鎌倉市と横浜市の境にJR大船駅があって、その大船観音の麓から田谷(たや)へ向かうバスが出ている。田谷には平安時代の屋敷跡があって、戦国時代の山城を借景にして田園の広がる魅惑的な場所なのだ。
参照:89.こぶた山と雀神社(3)
参照:93.こぶた山と奈良東大寺
そんな田谷には田谷山定泉寺があって、瑜伽洞(ゆがどう)という真言密教の修行窟である田谷窟がある。それは総延長が1kmにもなるという大洞窟伽藍である。
田谷窟については鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に、記述がある。
文治5年9月28日 (1189年)
、、、御路次の間、一青山を臨ましめ給う。その号を尋ねらるるの処、田谷の窟なりと。これ田村麿、利仁等の将軍、綸命を奉り征夷の時、賊主悪路王並びに赤頭等、寨を構えるの岩室なり。
参照:吾妻鏡
参照:鬼(大竹丸)と女神(瀬織律姫)2.悪路王
源頼朝が平泉から帰路についた時に、その山を見て名前を聞いたのだそうだ。坂上田村麻呂(758-811年)や藤原利仁(915年ごろ)がアズマエミシを討伐した時代の、悪路王(アテルイ)達の要塞であった岩窟だと説明した、という。
ところがこの後に
東は北上河を限り、南は岩井河を限り、西は象王(ざおう) 岩屋を限り、北は牛木長峰を限る、、
と続いて、この田谷窟が岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗達谷西光寺の達谷窟(たっこくのいわや)のことであるとわかるのだ。
東に北上川があるのだ。南の磐井川は今も流れ、西の山王山の麓には山王窟がある。
岩手県一関市の骨寺村荘園遺跡が、鎌倉時代を蘇らせたのだ。
参照:一関市博物館 骨寺村の歴史的景観
この山王窟には、景行天皇の時代に日本武尊がエミシの首領の某を討った地という伝承があるそうだ。そこに三美女神を祀って、麗美宮(いつくしのみや)ができた。それで厳美渓という名前が今も在る。厳美渓と松島は伊達政宗のお気に入りの景勝だったそうだ。
参照:やさしい歌を歌いたい 岩手宮城内陸地震
栄区の田谷も東に柏尾川が流れていて、北を上(かみ)にした川ではある。東に河、西に岩窟。似ている。さらに鎌倉市台の台地も先住民エミシの地であったそうだ。ここも東に小袋谷川が流れている。そして西に岩窟があるのかと言えば、私はその候補をいくつでも上げることが出来る。
参照:96.海軍さん通りの夕日
鎌倉市の葛原ヶ岡には坂上田村麻呂の伝承があって、そのことが佐助の巽神社の由来に書かれている。鎌倉もまたアズマエミシとの激戦地であったのだろうと想像される。
地形に繰り返し刻印されて伝承を残すエミシの文化、だとすると、おもしろいなあと思う。
とりあえず、鎌倉と平泉にはふたつの「田谷・達谷」の窟があって、両方とも「エミシの東国」を代表する地だ。とすると、どちらが古い遺跡なのか、想像ができると思う。
より南にある栄区の田谷の方が古い要塞で、アテルイの時代の要塞が平泉の達谷窟なのだ。と、思う。「どちらが本物か」ということではなく、北に撤退をしていく数百年の間に、エミシの要塞は繰り返し各地に作られていったのだろう。と、思った。
参照:随想 アイヌ語地名考No.62
平泉町のアィヌ語地名…達谷窟(たっこくのいわや)…
だからあの万葉集を編纂した大伴家持(718?-785年)が東国に来た時に、栄区の田谷窟はすでにエミシの廃墟として有名だったと思うのだ。家持は栄区の田谷窟を歌わなかったけれど、彼は武人で、軍人は使用中の軍事施設を公言したりはしないのだ。
そう、「鶏が鳴くアヅマの国」でホトトギスを歌った家持は、栄区のあたりに居た、と私は思っているのだ。
郡衙のあった港南区ではなくて。
参照:49.万葉集の大船幻影(休憩)
参照:84.長屋王 天平の大船幻想3
参照:85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4
平泉の達谷窟の最古の記録は、上記の吾妻鏡にある記事だそうだ。読み返すとそれは鎌倉幕府が達谷窟の宣伝をしていると感じられる。
それは栄華を誇った黄金の平泉を「先住民の文化が色濃い辺境」と語ることだ。
それは実は、栄区の田谷窟や激戦地の葛原ガ岡がある鎌倉こそ「先住民の文化が色濃い辺境」であった自覚の裏返しだと思う。
鎌倉幕府のすぐ側にアテルイの先祖の遺跡がある、とは、語られないのだ。と、思う。
鎌倉の地を開拓したのはアズマエミシであり、侵略したのは藤原氏の朝廷であるという証拠を、語らないのだ。それは「平泉の地で伝承されるべき事柄」とされたのだろう。
平泉は頼朝の命令で攻め落とされた。そのことの価値を高める為に、達谷窟の故事はこの時に声高に語られたのだろう。と、思う。
鎌倉は頼朝が入城した時に「人の居ない寂れた町」であったと、吾妻鏡は語る。前政権に従事した主人達が逃げ出して、略奪にあい荒廃した屋敷跡に立ってこそ、「なんと寂れた町」というウソブキが似合うのだろう。
あいかわらず、根拠のない妄想を展開しているのだけれど。
現在の瑜伽洞、田谷の洞窟には、鎌倉時代からの修行窟としての歴史がある。
1213年5月2日の和田合戦で、北条氏を倒そうとした有力御家人の和田義盛は、翌日息子の死とともに敗北し、一族は滅亡。
この時めざましく奮戦した3男の朝比奈三郎義秀は、この田谷窟の通路を通って落ち延び、行方知れずになったという。
残兵500騎とともに船で安房国へ脱出した、あるいは高麗へ逃れたとも言うのだそうだ。
宮城県大和町にはアサヒナサブロー伝説があって、松島湾を掘って船形山を作り、土を運んだ跡が吉田川、こぼれた土が七ツ森という山になったという。
英雄伝説がついに神話になったという感がある。
和田合戦は北条義時の謀略であった、らしい。直情な鎌倉武士の和田義盛が挑発されて、北条氏に都合良く滅亡に至る。だから悲劇のアサイナサブローは伝説になり、神話にもなったのだと思う。
後に鎌倉幕府が滅亡した時にも、この洞窟から逃れた武者がいたとも言い、秘密の通路の様に語られている。どこかに出口があったとしても、北東に行けば金井で、北西に行けば小雀、町内を横切る通路でしかない。小さな岡にある洞窟が、まるで異次元につながる異界の様に語られる。それはこの洞窟に入ってみれば誰でも理解できる。宗教施設として、本当に魅力的な洞窟なのだ。
田谷の洞窟は時代とともに拡大されていった。鶴岡八幡宮寺の二十五坊の管理となって、洞窟は掘り進められていく。江戸時代には閉鎖になり、天保年間(1830-1843年)に「灌漑用水を得る」という目的で再び掘り進められている。洞窟内には美しい泉がいくつもあるからだ。
西国三十三箇所観音巡礼や坂東三十三箇所巡礼、秩父三十四箇所や四国八十八箇所霊場を描いた壁画が田谷窟の壁に彫られている。それが近郊の人々を呼び、信仰の拠点になっただろう。足柄山の山姥と金太郎の「母子像」が大きくレリーフになって彫られてある。そして縦横に掘られた通路は、鋭角の天井を持つキリスト教岩窟教会の廊下に酷似していると、思う。
人々の信仰の場になった田谷の洞窟も、明治初期には閉鎖されたりもしている。
歴史遺産は使われて利用されて次世代につながれていく。そういう実例をこの田谷窟に見ることが出来ると思う。宗教施設として、僧侶達から庶民へと変転して来ただろう田谷窟。その内部にも、彫られたり、削られたりした様々な時代の神像があったのだと思う。
田谷は魅力的な場所である。田谷窟が歴史を重ね持って存続している事を、幸運な事だと思う。
参照:洞窟の国へようこそ
追記:スペイン語辞典を繰って、田谷に似ている発音の単語を探してみた。本当はラテン語辞典で調べたいのだけれど、手元にないから仕方がない。なぜそんな酔狂な事をするのかと言えば、横浜市港南区に野庭(のば)という町があるからだ。Novaというのは英語のNewに当って、新しいという意味を持つ。ノバスコシアというラテン語はニュー スコットランドという意味で、カナダにある州の名前になっている。ノバがあるならタヤも有りそうだと決め込んだ。辞典にはtallaがあった。
スペインのカタルーニャの郷土料理にパエリアというのがある。サフランで風味付けした炊き込みご飯だ。
カタルーニャ語で平鍋という意味のパエリアはPaellaと書き、パエーリャとかパエジャ、パエーヤとも発音されるそうだ。Lが2つ重なった発音は地方によって様々なのだ。
だからtallaはタジャとかタリャ、タヤとも読む。女性名詞でその意味は「彫る(切る)こと、彫刻」だそうだ。例文にmedia tallaというのがあった。意味は「半浮き彫り」だ。
これが他動詞になるとtallarで、意味は「切る、彫る」。例文に「tallar en una roca la imagen de la Virgen 岩を刻んで聖母マリア像を作る」とあった。
聖書には「教会を岩の上に建てる」と書いてある。教会は石造りが本式であるらしい。洞窟教会が多いのには理由があったのだ。
江戸時代のある時期に、田谷の洞窟にはマリア像が彫られたドームもあって、そのために洞窟は閉鎖された、と、想像してみた。天保年間に灌漑用水をとるために、それらは彫り直されて、装いも新たに田谷窟は発展した、そんな空想をしながら田谷の洞窟を眺めてみた。
タヤには深い洞窟があると聞いて、ここにやってきて聖堂を増設した、そんな地中海育ちの神父さんが居たのではないか。鎌倉と旧鎌倉郡には、おびただしいキリシタン遺跡が眠っているのではないか。そう思う。
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