「城と隠物の戦国誌 」藤木久志 著(朝日選書) を読んだ。2009年12月に出版された新刊だ。藤木教授の本を読み始めて3冊目になる。「戦国の村を行く」「土一揆と城の戦国を行く」「新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」。どれもよくある「武将の戦国時代」ではなく、住んでいる村が戦場になった農民達を描いている。
戦国時代とは内戦の時代だと教授は語る。おもしろかった。
戦争が始まるとあらゆるものが略奪される。畑の芋や野菜は取られてしまう。種芋や種籾が無くなれば、翌年の作付けはできなくなる。飢餓が待っているのだ。子供や女や老人は捕まって売られてしまう。わずかな家財道具も持ち去られる。敵兵も農民なのだ。家族を養うために略奪するのだ。
だから、穴を掘って隠す。寺や神社に私財を守ってもらう。家族は山城に避難する。あるいは山中に逃げる。山の中腹には尾根道からも麓からも見えない場所に、夜露をしのぐ小屋や穴があるのだろう。家族の命を守るシェルターが、戦乱の時代にあったのだ。
藤木先生の本は、ベトナムやコソボ、ルワンダの恐怖を思い起こさせる。
鎌倉は1333年に戦場になった。鎌倉幕府が滅亡したのだ。その後に鎌倉府ができた。東国の都市であり続けた。だから戦国時代の鎌倉の住民は、ここが戦場になるだろうと常に怯えただろう。
後に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼしにきた時に、鎌倉の妙本寺の高僧は小田原城に避難したのだそうだ。不受不施派の妙本寺は秀吉に弾圧されていたのだ。鎌倉の住民は小田原城までは行けない。彼らはシェルターを作って、その日に備えたと思う。
鎌倉時代に、墓地は山の端に作る様にと決められた。山の岩壁を掘って作った墓地、「やぐら」が急増したのだそうだ。そのやぐらは後に、戦乱を逃れるシェルターになっていっただろうと想像される。
だから鎌倉市に数千個あるといわれているやぐらは「鎌倉時代に作られた墓地」という解説だけでは足りないだろう。
やぐらが空っぽなのは使われていたからであり、やぐらに五輪塔が残るのは、墓地だという事を見せるためなのだ、と思う。鎌倉時代から数百年間手つかずで残ったやぐらなど、この狭い鎌倉にそうそう有るものではない、と思う。山深い所のやぐらも、山深いと言う理由で利用し尽くされただろう、とも思う。
北鎌倉にある雪堂美術館には天女像が彫られた大きなやぐらがある。そのやぐらの壁には更に穴があけられて、奥にもう一部屋が作られている。
あるいは妙法寺の洞窟には、人一人が入れるくらいの穴が横壁に掘られている
それらは鎌倉が戦場であった時代を語る史跡なのではないか。生き延びようとする人々の苦労の跡ではないかと思うのだ。
そして洞窟は第二次大戦の時に、防空壕として掘り直された、そう想像する事もまた自然だと思う。
北鎌倉のJRの線路に沿った洞門山が開発される。その計画の設計図が現地に掲示されている。
2年間にわたる開発反対の交渉も無駄になった、と、通りがかった住民の方が語っていた。ついにここが壊される日が来るのだ。
好好洞と書かれた赤い中国風の門を入ると、素彫りのトンネルが続いている。
好々亭トンネル西側
その中央の両側に、防空壕が貫通していて今はブロックで閉鎖されてある。
トンネル内の防空壕貫通部分 西側から見るG
この防空壕が洞門山を縦走していてEG、南西に向かう銃眼Cに通じている、その様子が設計図に描かれていた。
あの美しい階段のある洞窟Aも描かれていて、そのトンネルは大きく円を描いていた。開発のために図らずも地下構造が公開されてしまったような、この設計図は必見だ。
上図はトンネルを中心に設計図を書きおこしてみた図だ。中央の下にある四角い場所は、ゴエモンの木のある稲荷社だ。
参照:161.ゴエモンの木
階段のある洞窟Aと銃眼C 住宅内の個人所有
この防空壕は、横須賀の女学校の生徒達まで動員されて掘られたのだそうだ。その貴重な勤労奉仕の体験談は図書館で読むことができる。
だけど、図を見る限りでは、防空壕としては不思議な点がある。
(ふしぎ1)
防空壕は入り口からすぐに直角に、左右に分かれる通路を持つ。爆風を避ける几帳面な構造なのだ。
深沢の防空壕入り口付近 T字型に左右に分かれる
しかしこの通路はゆるやかな曲線のある一本道だ。これでは爆風が通り抜けるような設計だ。
(ふしぎ2)
好々亭という料亭ができたのは戦後の昭和24年ごろだそうだ。好好洞と書かれた中華門が建てられたのもその頃なのだろう。だけどトンネルは昭和12年ごろ、好々亭の建物が別荘として建築された頃に掘られたのだそうだ。トンネルができたのは戦前なのだ。
参照:「湘南スタイル第23号」連載 湘南ホテル物語 第11回好々亭
するとトンネルを貫通する防空壕は戦争中に掘ったのだからトンネルができた後に掘られていることになる。もしそうなら、左右に有る防空壕の高さは同じになっているだろう。床面も同じ高さで、トンネル内部から左右に防空壕が掘られただろう。しかし、Gの写真の左、北側の開口部は高く、写真の右の南側の防空壕は低く小さくなっている。右の方がトンネルの地面よりも低くなっている様に見える。そして左側の先にある防空壕の開口部は高さ19mという高い所にある。傾斜しているのだ。左に登って行く防空壕が先に作られていて、後で好々亭のトンネルが横断した様に見えるのだ。
つまり、防空壕と呼ばれる横穴EGの、もとになった古い横穴が、戦前にすでにあったのではないか。
(ふしぎ3)
Cは機関銃を据える台なのだと聞いたことがある。久里浜に上陸した連合軍が横須賀線に沿ってやってくるのを、ここで撃退するのだと。機関銃があるのなら銃弾の補充をするだろう。その通路はどこか。Eから、あるいはGから、延々と運ぶのだろうか。まさか。不自然な設計だと思う。
断面図を見るとDは深い所にある。Cは18mくらいの高い所だ。だからDCは上り坂になる。西南西に登って行くこの通路に、夕方4時の太陽光が差し込むだろう。冬ならば天井を照らし、夏ならば床面を少し照らす。そしてある季節には、その光はD点まで届くだろう。長いトンネルの中央部分で、一瞬太陽が直射する。それは美しい瞬間であっただろうと思う。
DCの上向きに傾斜した通路は、長い長い通路EGの中央を照らす明かり窓、天窓ではないか。と思った。つまりこれは設計のしっかりした文化的な構造物だと思う。
(ふしぎ4)
DCの線を地図上に延長して引いてみる。光照寺の上を通って台の海軍さん通りの起点にあたった。光照寺の坂を登りきった台地である。峠の辻にあたるのだ。その先は中央公園の方にも山崎の方にも降りることができる。鎌倉時代の中つ道、古道なのだ。そこに通じる坂道を見つめている。
一方Eの真上は毘沙門堂跡地Fである。八雲神社の境内だ。今は杉木立が育っている神域は瓜が谷を見つめている。
瓜が谷の谷の奥深く、梶原分譲地を抜けてくる道を北鎌倉に向かうと、真っ正面にここ、八雲神社の神輿庫が見える。その後ろが毘沙門堂跡地。
つまりここは葛原ガ岡や梶原から降りてくる道を見つめている場所だ。そしてGのトンネルの先は、ほぼ真北を向いている。そこにあるのはあの亀井砦跡の山頂だ。
参照:127.キリシタン洞窟礼拝堂
(ふしぎ5)
Aの、階段がある洞窟の先は半円形に大きくカーブして、22mの高さに有る平らな場所Bに出ている。コンクリートの崖が無かった時代には、この高台はもっと広い敷地であっただろうと思う。いつの時代か、ここに寺院か屋敷があって、その抜け道がこのトンネルではないかと思う。
湾曲したトンネルは入り口の明かりも出口の在処も見えない真の闇になる。入るのを拒むトンネルになるのだ。知っている人しか通ることができない。そういう抜け道は扇ガ谷の英勝寺にもある。短いトンネルだけれど、隣家に逃げ込むことができる隠し道だ、と思う。やはり微妙なカーブがあって、先が見えないので入りにくくなっている。
この階段のある洞窟はとても古い遺構なのではないか。少なくとも防空壕とは関係の無い、古いトンネルに思える。屋敷の隠し道なら江戸時代、あるいはもっと古くからあったのではないか。
洞門山の開発設計図に描かれた防空壕と呼ばれるトンネルは、確かに戦争中に掘られたトンネルだ。だけどそれは拡張工事だったのではないか。そこにはすでに地下道があったのではないか。その設計はいつの時代のものなのだろう。
ここの防空壕と呼ばれるトンネルは米軍の上陸に備えるというよりも、四方から来る敵を見張るのに適していると思う。それはいつ頃の遺構なのだろう。
今も六国見山への登山口があり、大船高校の学生達はこの前を通っていく。JRの線路がなければ小坂郵便局やK泉邸跡と同じ敷地内であっただろう。古くからの中心地なのだ。
一遍上人が鎌倉入りを阻まれた関があったのも、光照寺の前の、このあたりではないか。
2010年の5月、あと数週間先には開発が始まってこの地下通路は無くなるらしい。すでに長い間、閉鎖され保存されて来たトンネルだったのだ。
今、掲示されている設計図の上に存在しているトンネル。長い時代を経て、様々に使われ拡張されて来ただろうトンネル。それは生きようとした人達の遺構なのだ。それは先人の貴重な生き様を彫り付けたものだ、と思う。
それを見ながら、また失われて行く鎌倉の財産を惜しむ。悲しくて悔しくて残念で、寂しい。
追記:
洞門山を縦断するトンネルに良く似た構造が他にも有る。やはり岬の様に細長く突き出た山を縦走している。そういうトンネルが近くにある。
多門院の北にある熊野神社のトンネルも、岩肌の見える素彫りのトンネルだ。この美しいトンネルの壁にも、横穴が貫通している。それも片方はトンネルの突き当たり、先端だ。横浜市栄区田谷町の瑜伽洞(ゆがどう)や藤沢市江ノ島の洞窟なら、宇賀神の祭壇があっただろうと想像される場所だ。突き当たりの壁面が見える。
このトンネルは大正時代に通学路として掘削されたのだそうだ。だからこの横穴は、大正時代よりも前にあったのではないか、と思う。トンネルによって目に触れる様になったのだ。しかしこれも防空壕だろうか。私には熊野神社から入るトンネル、シェルターの様に見える。
このトンネルの上には馬道と呼ばれる美しい切通しがある。騎乗の武人が2騎並んで進めるように掘削された古道だ。そしてここは切通しの四つ辻なのだ。美しくめづらしい景観がここにある。鎌倉時代に北条の屋敷があったという「谷戸の前」の玄関口だ。
さらに、その先のトンネル内部にも横穴の跡がある。
こちらはトンネルよりも低くて、天井部分が片側に、わずかに見えるだけだ。好好洞の北面の穴と同じ形の、屋根型の穴だ。これが縦断するトンネルの天井部分だとは気づきにくい。
しかしトンネルの100mほど手前の「天が谷戸」に、緑地保全の地図が掲示してあって、この横穴がそこに描かれていたのだ。
岩瀬中学校の南側に、トンネルで行き止まりになった横穴が見える。入り口は恐らく中学校建設の時に埋められたのではないか。あるいは今もあるのだろうか。こちらも防空壕と言われているのだろうか。
トンネルとは、上を通る山道を壊さない立体交差のことだ。切通しにしてしまったら、修験の道は断ち切られてしまう。その山道に沿って、地下に横穴がある。
好々亭のトンネル、多門院の北のトンネル、岩瀬中学校の西のトンネル。3つのトンネルを貫通している横穴は、戦前からあったのではないか。それは大正時代よりも前から、すでにあったのではないか。それは遠い昔に、家族を守るために作られたシェルターであったのかもしれない、と、思う。