松尾芭蕉には十哲と言われる弟子が居た。その一人の森川 許六(もりかわ きょりく)(1656-1715)に、菜の花の句がある。
菜の花の中に城あり郡山
春爛漫の菜の花畑と水色の空に映える郡山城の風景だ。見たままをうたった句だろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。 菜の花はアブラナ科の植物で菜種油をとるための農作物だった。4枚の花びらが花クルスのように開くので、十字花科(Cruciferae)と以前は言われていたのだそうだ。ヨーロッパの人達には十字架を思わせる花だそうだ。
千利休はこの花を愛して、それ以来、利休忌が明ける3月から飾る花という慣習が生まれたのだそうだ。特別な花なのだ。
芭蕉はなんと詠んだだろうか。天和元年(1681)芭蕉38歳の作をHPの「芭蕉DB」から探し出した。
参照:芭蕉DB
やまぶきの露 菜の花のかこち顔なるや
この句の前に
刈葱(かりぎ)はトクサに萎れ、芋の葉は蓮に破らる
が詠まれている。つまり「ネギはトクサに風流の様で負けていて、芋の葉だったら蓮の葉の方が風情がある。」という前詞に、芭蕉が応えたのだ。
「黄色い花の山吹は実が成らないことから『蓑が無い』と歌に詠まれて、雨具が無いから露にぬれて美しい風情だ。同じ黄色い花でも菜の花は露が宿るとは詠んでもらえないので不満でしょうね」
「かこち顔」と言えば百人一首の歌だ。
嘆けとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな
西行法師(86番)『千載集』恋・926
月は私に嘆けとばかりに語りかける。私の涙は月のせいではないのに。
芭蕉のすごいところは、菜の花にまったく関係の無いこの和歌を、こんな場面にも持って来る事だ。これで、泣いているのは菜の花になった。
十字架の花、菜の花は、月の下で泣いている。その理由は語られていないけれど、芭蕉はいっしょに泣く事にしたのだ。芭蕉には山吹と同じくらいに、菜の花は趣の在る花なのだ。「芋の葉は蓮に破らる」なんていう軽々しくランクぎめする見かたをたしなめている様に思える。
菜の花に西行の和歌を引き合いに出してくる。それは菜の花がヨーロッパでは十字架花と呼ばれていることを、知っているからだ。
葉物でそろえた前詞に対して、花で綴った芭蕉の本心は西行法師に語らせる。西の国へ行った国外退去になった人。はかなく露と消えた命。黄色い月。十字架花。偽りの顔。
そして私の涙。
キリシタンというキーワードを落とすことで、芭蕉の句はどんどんと広がっていく。
参照:122.大淀三千風の続き
では、最初にあげた句について。芭蕉の弟子の許六の読んだ菜の花の句には、どんな謂れが潜んでいるのだろう。
菜の花の 中に城あり 郡山
奈良県の大和郡山市には郡山(こおりやま)城がある。城主の筒井定次(つついさだつぐ)(1562-1615)は豊臣秀吉に仕えていた。1592年にヴァリニャーノ神父から洗礼を受けキリシタンになった。その後讒言によって改易され、大坂冬の陣の後に死罪になる。息子と孫もいっしょに殺されているそうだ。墓の場所はわかっていない。
参照:「東京周辺キリシタン遺跡めぐり」聖母の騎士社 高木一雄 著
この句には穏やかな春の明るい日差しがあふれている。キリシタンが弾圧される前の、幸福な城下町が見えるようだ。
たくさんの菜の花が城を囲んでいて、黄色い花が太陽に輝いている、どこにでもありそうな春の風景を郡山城と指定して許六は詠ったのだ。
この郡山城の石垣には、「さかさ地蔵」という観光名所があるそうだ。石垣をつくる時に、このあたりの庭石や石のお地蔵様を運んできて、石材として石垣に埋め込んだのだ。さすがにお顔が見える様にはしていなくて、背中の光背を外側に向けて組み込まれているらしい。地域の人達がお地蔵様の背面を見つけて、前掛けをつけて奉っている。その布が城壁にいくつか見えている。
地蔵信仰を持たなかった人がこの石垣を作らせたのだろう、と思う。
菜の花を好んで題材にしたのは与謝蕪村(1716-1783)だ。
菜の花や月は東に日は西に
満月が赤い夕日とともに春の空にある、美しい句だ。彼は京都の金福寺(こんぷくじ)にあった芭蕉庵を再建して、松尾芭蕉を讃えた人だそうだ。その彼の句。
菜の花を 墓に手向けん 金福寺
芭蕉の墓は大津の義仲寺にあるそうだけれど、芭蕉の墓に菜の花は似合うだろうか。
追記:大阪府藤井寺市にある道明寺天満宮には菜種御供大祭という春のお祭りがあるそうだ。「道真公の御命日は旧暦2月25日ですが、新暦に合わせ、3月25日に行っているお祭りです。」とHPに書いてあった。菅原道真を偲んで菜の花を捧げる写真が載っている。
3月25日はカトリック教会の「お告げの祭日」だそうだ。天使ガブリエルが聖母マリアに「あなたは身籠った」と告げ、マリアがそれを受け入れた日なのだ。受胎告知という題の美しい絵がたくさん描かれた有名なシーンだ。
鎌倉にもすばらしい天神様がある。山崎の北野天神だ。菅原道真公の亡くなった年が平将門の生まれた年、そして3月25日は将門の亡くなった日というお話を61.洲崎神社に載せてみた。それは上町屋天満宮の石の天神像を平将門像であると読み替え、F士塚小学校の西を将門の弟の将武の居城と夢見たからだ。村岡城と宮前御霊神社の位置、上町屋の地形からの夢だ。天満宮の設計が北極星に向いているのも一因だ。それは鎌倉幕府の、東国平氏の拠り所でもあっただろうと思うのだ。そして江戸時代には、天神様は天主教(キリシタン)の人達に好まれただろうとも思う。
マリアと道真と将門では、あまりに似合わなすぎるけれど。
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