神奈川県平塚市に4手の庚申塔があると聞いて、見に行った。
庚申塔に彫られている青面金剛像は普通3対の腕があって、4つの手には法輪、ロープや数珠、弓、矢を持っている。それで一番前に在る一対の腕は、胸の前で合掌していることが多い。
鎌倉市にはたくさんの庚申塔があって、その中に2対4手の庚申塔が2つある。それは合掌する1対の腕が無くて、一番前の腕が左右に高く上がっている。まるで十字架の無いキリストの磔刑図の様に見える。
参照:140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
平塚市の4手の青面金剛像は、それとは別のデザインだった。一番前の腕は下がっていて、法輪とロープ、そしてショケラを掴んでいる。裸の鬼女を持っているのだ。
左の腕に十字の鉾を持っていた。三叉の剣かもしれない。それを腕ごと削ってあって、輪郭だけが見えている。膝から下は割られていて、踏まれた鬼は無くなっている。3猿はどれも正面を向いて並んでいて、腕と足が七宝紋の様に見える。大きなXの模様に見えるのだ。
天という文字の下に壬戌とあるから、天和2年(1682年)と彫られていたのだろう。北鎌倉に豊後岡藩の東渓院ができて2年目。俳人の大淀三千風が日本行脚に出立する前年。徳川家光のキリシタン大弾圧時代が過ぎて30数年、徳川綱吉の時代になったばかりの頃だ。天和の治と讃えられた安全な時代で、キリシタンは見えなくなっていた頃だ。
参照:114.キリシタン受難像
参照:141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
参照:
甲斐素直先生の 「江戸幕府財政改革史」 第2章 綱吉と天和・貞享の治に、徳川綱吉の時代がどのようなものであったかが、詳しく解説されていた。徳川光圀の時代、近松門左衛門の時代。三千風の鴫立庵の時代にTVニュースがあったなら、どんな事が語られていたか想像できる様な歴史講座です。
平塚市のHPには「ひらつか図鑑」があって、そこに「ひらつかの石仏散歩」という興味深いサイトがあった。ここに掲載された青面金剛像も両腕を下げた4手の像に見える。
参照:晴雲寺の庚申塔
平塚には中原街道と八王子街道が通っていて、東海道の平塚宿があった。中原街道は江戸と平塚を結ぶ古道で、大名行列が通る東海道の煩わしさを避けてほぼ直線の最速ルートとして庶民や商人が使ったのだそうだ。
参照:ウィキペディア
大勢の旅人が通る街道の辻に、4手の青面金剛像は立っていたのだろう。今は神社の境内に石碑や石塔と一緒に、陰になる様に置かれているのだけれど、かつてはたくさんの人がこの像の前で祈ったに違いないのだ。
平塚には徳川家康の別荘であった中原御殿があった。その御膝元で、Xの印の在る塔が辻々に立っている。これから江戸に入る商人達はそれを見て心強く思っただろう、と思う。江戸には関東近隣からやってきたキリシタンの末裔達がたくさん働いていたのだ。
庚申塔は村の庚申講によって建てられた石碑だ。村の入り口にあって、病魔が村に入り込むのを防ぐ。
それはそうだけれど、辻にある石塔は旅人の道案内でもあっただろう。その村の内情を知ることが、あるいはできたかもしれない。
古郷にある庚申塔と同じ石工が作った塔があれば、故郷と同じ好みを持った村だなあと、思うだろう。石工が立ち寄った様に、古郷との連絡ができる村であったかもしれない。
電話の無い時代にも、庶民は様々に工夫をしていただろう。それは「工夫」であるから、歴史としては残らないのかもしれない。
平塚の4手の青面金剛像を見て、歴史に残らなかった人達の生活を妄想してみた。
この庚申塔も例外無く、舟形の先端が折られていた。顔面が破壊されていた。十字架に見える鉾が削られていた。
壊したという事を見せることが、この庚申塔の役目になっていた。
そういう時代の変転も、この石塔は語っているのだと思った。
この庚申塔の側に、美しい観音像があった。
腕に巻いた天衣が浮き彫りになってふんわりと垂れている。軽やかで華奢な石像だ。お顔は若い娘さんのようで、小さな両胸が見えている。
女性であることを表現しているこの石像は、「観音像」から少し逸脱している、と思う。そんな目で眺めてみると、お腹が少し大きいかもしれない。気のせいかもしれない。
不思議な冠をつけたこの像は、ただひたすらに美しい。
こんな傑作を日々眺めながら育つ子供達がいる。威圧的ではないこの観音像を大切にする大人達がいる。いいなあと思う。静かに美しく微笑む観音。そういう心情があるということを、殺伐とした世の中で思い出すこともできるのだ。
鎌倉から足を伸ばして近隣のどの街に行っても、道端や神社の片隅に地域の誇らしい文化財があって、その時代に生きた人達の影に出会う。歴史を学ぶ事は過去に生きた人の人生を思う事、それは他者の心に寄り添う事でもあり、何より自分を捨てないことに繋がると、静かな観音の微笑みを見ながら思った。