鎌倉、まぼろしの風景。63 
鎌倉、まぼろしの風景。

     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


クルス門

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


 吾妻社          

 鎌倉市小袋谷にある厳島神社は、八幡様とも呼ば
れている。厳島神社という名前になったのは、最近
の事らしい。明治の頃に、軍港横須賀と東京を結ぶ
横須賀線ができて、そこにあった弁天社が無くなっ
た。同じく廃絶した吾妻社と三社を合わせて、厳島
神社となったのだそうだ。
 弁天社は実はまだあって、JRの踏切の西側に、古
い石のほこらにお祀りされている。フィギュアの弁天
様がちゃんと中に入っていて、いつもきれいなお水が
供えられてある。豪華なお社や由緒在る宝物だけが
文化ではないことを思い出させてくれる。
吾妻社のあった所は今は公会堂になっていて、地域の
集会所としてフルに活用されているらしい。
 ヤマトタケルの東征の物語で、横須賀市の走水(はし
りみず)から船に乗った一行は、厳しい嵐に遭う。妻の
弟橘姫が入水する事で、難を逃れた。都へ帰るタケル
は、箱根の峠の上から神奈川県を振り返って、犠牲と
なった妻を偲んだ。「吾妻はや。(ああ、我が妻よ)」と
悲しんだのだそうだ。
 これから東国をあづまといい、東という字もあづまと読
む。鎌倉幕府の記録も「吾妻鏡」と書かれている。みな
弟橘姫*1を哀れんだのだ。

 その吾妻社は関東にいくつかあるらしく、もちろん弟橘
姫を祀る。公会堂になった吾妻社のことも、鎌倉市が出
した「としよりのはなし」に出てくる。ここは日露戦争の
時に、兵役回避のご利益で有名で、遠くからもお参り
に来る人が絶えなかったのだそうだ。
 その記憶は第二次世界大戦の時にも、残っていたと思う。
 夫や息子の所に、招集状の赤紙が来ない様に祈る。
 戦中を生き延びた父は、この話を聞いて笑った。そんな
神社は日本中のどこにも無いよ。と。「死にに行け」と、言
われたのだと。確かに兵役回避を看板に出していたわけ
ではないだろう。例えば、タカやウナギやムカデの伝説の
様に、分かる人にだけ伝わる、奇妙なお話を流布させて、
密かに人々は集まったのだろう。他県に在る吾妻社がどう
なっているのかは知らないけれど。

ところで、旧吾妻社から1,100mほど南東にある東慶寺は、
駆け込み寺として有名だ。
 寺に駆け込んだ女は、将軍様でもとり戻すことはできない。
 ぞうりを脱いで、寺の階段に投げ込むだけでも、追っ手から
守られるのだ。
 そういう、ぎりぎりで救いの手を求める女たちに、東慶寺は
頼もしく応えたのだ。

 そして、旧吾妻社から500mほど南東に在る光照寺は、
クルス門があることで有名だ。
 隠れキリシタンの十字が山門についているのだ。
 キリスト教が江戸にやって来たときに、郭の遊女たちも、
たくさん信者になったのだそうだ。人が死ぬとお寺は戒名
をつけるけれど、その人の生前(財力とか)が、偲ばれる名
が付いたりする。遊女たちは投げ込み寺に放られて、死後
もきびしい差別があったのだ。
 そこへ差し伸べられたキリスト教の布教の手に、理不尽な
生を押し付けられた人々は、救いを見いだしたのだろう。
 弾圧が厳しくなると、江戸から逃げて来た人たちが、この
あたりに教会を作ったのだそうだ。浦賀道に面していて、
ここで一泊してから宣教師たちを船で逃がす。そういう要地
でもあったのだろう。
 弾圧はさらに厳しくなり、改宗した人たちはキリシタンに戻ら
ない様に監視されるようになった。一番身近にいて、親身に
なって相談に乗り、そしてキリシタンに戻る事を防ぐ。
 そういう寺がかつてはあったのだ。
参照:鎌倉・カトリック雪ノ下教会

 だから北鎌倉から小袋谷のあたりの人たちの心の底には、
救いを求める人が居たのなら、手を差し伸べようという不文
律があったのではないか。そういう歴史の流れの上に、昭和
の吾妻社があるように思えてならない。
 夫を、息子を、兵隊にとられたくない。切羽詰まった人たち
に、私もそう思う。と、応えてくれる。そういう吾妻社だったの
だ。平和都市宣言をした鎌倉市にふさわしい、誇らしい「民の
やしろ」だと思う。

 それで、弟橘姫と弁天様と、八幡様が合祀されて、厳島神社
になった。八幡宮には「姫神」とか「神功皇后」とか、桓武天皇
のお母さんの「高野新笠」さんとかが祀られているから、美女
3人がそろうのだ。だから厳島神社、宗像三女神になったのだ
と、ずっとそう思っていた。ところが先日、かめの子山から南北
線をひいてみて、その南に甘縄明神社と三宅島がぴたりと乗っ
た時に、思ったのだ。これは北にも何かあるぞ。と。

 厳島神社の真上を通る東経 139度32分の線を北に延ばして
行くと、山形県鶴岡市の鼠ヶ崎(ねずがさき)にあたるのだ。北
には子(ね)が居るのだった。そして、大きな地図から小さい地
図へ、東経 139度32分の場所を拡大してみると、やっぱり、そ
こには厳島神社があったのだ。
 船で逃げた源義経一行が、ここに上陸して、安堵したという。
ここからが、今泉の藤原氏の領地だったのだそうだ。
戦後に改名したかめの子山の厳島神社は、きっとここの姉妹な
のだと、思った。


     

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  ***亀子***( 4 Jan.2008-23 May 2012)
 
     

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