鎌倉市大町にある長興山妙本寺は鎌倉時代の比企一族屋敷跡に建つ古刹である。その山門の少し手前に、帝釈天王と彫られた石碑がある。大切にされてきた石碑が今に残されて、ぽつんとある、そんな印象を受ける。
帝釈天と書かれた石碑は庚申塔であるのだそうだ。青面金剛と書かれた文字碑も青面金剛の浮き彫りの碑も、三猿も、猿田彦大神と書かれた石碑も、みんな庚申塔なのだそうだ。
帝釈天と言えば東京の葛飾柴又の帝釈天が有名だ。日蓮宗経栄山題経寺(柴又帝釈天)は寛永年間(1629)に遡るお寺だそうだけれど、今のいわゆる「柴又帝釈天」になったのは、九代目の日敬(にちきょう)上人の時からだそうだ。
日敬上人の1779年(安永8)に、本堂の改修中に長さ二尺五寸、 幅一尺五寸、厚さ五分の板本尊が発見された。片面に南無妙法蓮華経と書かれていて、もう片面は帝釈天王の像が彫られていたそうだ。右手に剣を持ち、左の手のひらを開いた忿怒の相の板本尊だった。紛失していたこの板碑が見つかったのが、ちょうど庚申の日だったので、庚申の日が御縁日になったのだそうだ。
つまり帝釈天の庚申は、道教の庚申講とは無関係なのだ。あの、三尸(さんし)の虫が閻魔様に告げ口をするから寝ずに語り明かすという庚申講とは別ものなのだ。知らなかった。
翌年安永9年が天明になり、天明3年は厳しい飢饉の年になった。日敬上人はこの板碑を背負って江戸や下総を巡り、この時からたくさんの人達が柴又帝釈天に参詣するようになったのだそうだ。
参照:柴又帝釈天公式ホームページ
つまり板碑を見た江戸人はみな帝釈天に行ったのだ。それはどんな碑だったのだろう。
板本尊の写真をネット上では見つけることが出来なかった。うなぎ屋さんのHPに帝釈天の絵の護符があった。
参照:川千家柴又帝釈天案内
さらに柴又帝釈天の板本尊を写したという庚申塔がみつかった。烏天狗さんが作られた「三浦半島周辺の旧蹟」というすばらしいHPだ。そしてその写真を見て、ああ!と気づいた。
帝釈天像の左手、開かれた手の甲に、丸い模様がある。2つある帝釈天像の両方に、点がついているのだ。
それではと、もう一度うなぎ屋川千屋さんのHPを見直してみる。護符の像の左手に、そういえば、白い点がある?
帝釈天は右手に剣を持ち、左手を開いている。その帝釈天の手の甲に、キリストが磔刑になったときの釘の跡、スティグマータ、聖痕が、ある?
横須賀までその庚申塔を見に行って来た。
「高祖御真筆板本尊帝釋天王写 東葛飾領柴又村」「経栄山題経(寺) 常什」と彫られた石碑の像の手には、たしかに傷があった。
すごい。
そして写しのはずの、2つの帝釈天像は似ていなかった。天保14年の方は髪が逆立っているみたいで、文政11年の方はあご髭がある。なのに手の傷は両方にあったのだ。その傷を写して来る事こそが、大切だと言うかの様に。
私は柴又帝釈天の板本尊を見た事が無い。だから何とも言えないけれど、日敬上人が板碑を背負って江戸中を廻ったから、その碑をみんなに見せたから今の柴又帝釈天があるのだ。
上人はキリシタンではないし、板本尊はキリシタンの像ではない。手の傷は板本尊が紛失されていた間についた傷なのだと思う。でも、それを見たキリシタンの人達はびっくりしたのだろう。今の私みたいに。
「野崎観音の謎」というとても興味深い本がある。
参照:野崎観音の謎 神田 宏大著 文芸社
隠れキリシタン学入門に相応しい研究書と宣伝している通り、面白く楽しい本だ。そこに船を並べてパレードの様に野崎参りをする、それは復活祭の祭りだと書いてあった。野崎参りは 屋形船で行くのだ。一方葛飾柴又には、矢切の渡しがある。東京都葛飾区と千葉県松戸市の境を流れる江戸川岸で、松戸と柴又を結ぶ手漕ぎ舟が今もあるのだそうだ。庚申の日に千葉からもたくさんの信者がやってきて、お参りの後に御神水をいただいて帰るのだそうだ。
江戸時代にはたくさんのキリシタンがいて、禁教令のまっただなかで、声を出さずに暮らしていたと想像しよう。そこに帝釈天が現れる。その姿を見てきた人が鎌倉にもいて、妙本寺の門前に帝釈天碑を作ったのだと想像してみた。
柴又帝釈天も鎌倉の妙本寺も、千葉県の中山法華経寺系のお寺だ。かつて不受不施派を出してキリシタンと同時期に弾圧されたのだ。明治9年まで不遇を生き抜いた歴史を持つのだ。
参照:118.禁止された教え
九州ではキリシタンが法華宗へと強制的に改宗させられたこともあった。敵対関係だろうか。共存だろうか。いずれにしても、人々はたくましく生きる方法を探したのだと思う。
江戸時代のキリシタンは見えない。でも見ようとすれば、江戸の文化の中に、いくらでもあるんだと思う。
追記1:ここ長坂の庚申塔群は横須賀市の文化財として保護されています。江戸時代の最後の一揆が、ここで起こったそうです。幕末の混乱期で、藩主は一揆に対応することができず、結果として農民の主張が通ったのだそうです。その時のリーダーの名がこの庚申塔の一基に彫られています。それは村人が事件を顕彰しているからです。
庚申塔を作る、というのは、そんな意味もあるのだと思いました。一揆のリーダーの名を忘れないために。後世に伝える民衆の歴史として、庚申塔は大切にされて来たのだと思うのです。(27 Mar.2012)
追記2:横須賀の庚申塔はすばらしいものだった。そこに帝釈天と書いた文字碑もあって、印象的な三猿が彫られてあった。そこに十字架の影が見えていたので、ここに載せておきます。
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