鎌倉、まぼろしの風景。103 
鎌倉、まぼろしの風景。

          
     イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


由比若宮(元八幡)

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


由比若宮(元八幡)          


 鎌倉市材木座1丁目に、由比若宮はある。
元鶴岡八幡宮と石碑に書いてあって、康平6年
(1063)に源頼義(よりよし)が創建した神社だ。
頼義の長男が八幡太郎義家で、源頼朝や足利尊氏
の先祖なのだそうだ。
奥州の安倍氏を討伐(前九年の役)した後に、京都
の石清水八幡宮を源氏の守り神として、ここ由比郷
鶴岡に勧請したのだそうだ。
参照:鎌倉の神社 小事典 かまくら春秋社
後に源頼朝がこの神社を鎌倉の中心軸上に移転さ
せて、今の鶴岡八幡宮になった。だからこのあたりの
人たちはこの神社を元八幡と呼んで親しんでいる。
鶴岡という様に、確かにこの辺は土地が少し高くなっ
ている。そして神社の短い参道は、若宮大路と平行に
作られていた。

地図上で見ると、ずいぶん海に近いなあと思う。
砂丘が重なっていたという前浜よりは東にあって、大町
の山すそにある岡である。津波や高潮には案外強かっ
たのかもしれない。それでも、なぜ此処に?という疑問
が残る。それで、地図に線を引いてみる。

 その由比若宮の真西が、長谷観音だった。
浄土宗鎌倉海光山慈照院長谷寺である。
養老5年(721)奈良の長谷の山中で見つかった楠で
徳道上人が2体の十一面観音を作った。一体を海に流
すと16年かけて三浦半島の長井の浜に漂着した。
その像を鎌倉に持って来て、天平8年(736)に海光山
新長谷寺が出来たのだと言う。スポンサーは藤原房前
(ふささき)である。
参照:36.長谷観音レイライン

 続日本紀を読む。養老5年(721)10月、元明天皇は
右大臣従二位の長屋王と参議従三位の藤原朝臣房前
を召して、自分の死後の事を遺言した。天変地異の多
かったこの年の5月から、女帝は病気になっていたのだ。
この前年、養老4年8月に右大臣正二位の藤原朝臣不
比等が61歳で亡くなっている。鎌足の息子である。
元明天皇の悲しみは大きく、長屋王と大伴旅人を遣し
て、亡くなった不比等に太政大臣と正一位を贈っている。
その翌年の元明天皇の遺言である。
「汝(藤原)房前はまさに内臣となって、内外に渉って
よく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて
永く国家を安寧にするように」
参照:
続日本紀(上)全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫
そう言い残した元明天皇は、12月7日、61歳で崩御。
翌日、長屋王と藤原朝臣武智麻呂らが埋葬の準備をし、
大伴宿禰旅人がお墓の担当者になった。天皇に信頼
され後を任された房前の名は無い。

房前は藤原不比等の4兄弟のうち、随一の政治能力を持
った次男なのだそうだ。若くして東海道の行政監察に赴き
(703)、兄の武智麻呂に先んじて参議になった。不比等と
一緒に参議になった事は、一族で一人という慣例を破るもの
で、不比等の力の強さがわかる。
 だから続日本紀の「汝 房前は、、」という元明天皇の言葉
は、ちょっとアヤシイ。聞いたのは長屋王と房前2人だけで
あったらしい。そして長屋王は藤原一族に追いつめられて
729年に自殺する。
参照:84.長屋王(天平の大船幻想3)
続日本紀には房前の活躍はほとんど書かれていない。
長屋王を追いつめたのは舎人親王と藤原武智麻呂らで、
彼の名は出てこない。この続日本紀での彼の不在は、恐ろ
しいと思う。

 長谷寺ができる4年前、天平4年(732)に、房前は東海道
節度使に任じられている。関東地方の行政監察だ。4男の
藤原朝臣麻呂が737年に陸奥に赴任した時には、事細かな
報告が為されている。多賀の柵(宮城県多賀城市)で蝦夷の
ケアルイ達と働いている姿が眼に見える様なのだ。でも、房前
の報告は無い。彼は鎌倉の長谷寺建立に専念していたのだろ
うか。長屋王の死から4年目。その衝撃が伝わって、彼は鎌倉
に居る必要があったのだろうか。
そう、不比等亡き後、長屋王政権の後、最強の権力を握った
藤原房前は、一時鎌倉に居たのだと私は思う。

天平8年(736)黄金の長谷観音が真新しい伽藍に据えられる。
夕日がきらめく西方浄土に甍が輝き、御堂のひさしに風鐸が
揺れている。それをどこから彼は見たのだろうか。
鎌倉にあった邸宅から、彼は寺の完成を見守っていただろう。
材木座1丁目に、長谷寺の真東に、彼は居たと私は思う。
むしろ彼以外の誰が、この位置に住む事ができるだろうか。
長谷寺の施工主こそ、ここに座る事ができるのだろう。
新長谷寺が浄土の夕日に逆光で輝く、それを庭の借景にする
そういう位置である。

やがて天慶3年(940)平将門が承平・天慶の乱で討たれ、
東国は独立の夢を抱えたまま鎌倉時代へと向かっていく。
由比若宮(元八幡)の創建の時、康平6年(1063)に源頼義
が鎌倉の地で、夢見た事は何か。
今わかる事は、彼が此処に源氏の氏神である石清水八幡宮
を勧請したという事だけだ。この場所を「わがもの」にした
のだ。
平安時代の権力構造のトップ、その跡地に自分の名を記した
のだ。と、私は思っている。

追記:藤原一族の場所は甘縄と比企ガ谷に分かれて引き継
がれていく。それで、比企ガ谷の妙本寺の真西に、長谷大仏
がある事をどう考えたら良いだろう。
鎌倉文学館の北の 56mの山の上から、山越阿弥陀の実写
版さながら、本当に黄金の阿弥陀如来を出現させたいと願っ
たのだろうか。そうかもしれない。
奈良の東大寺の大仏は盧舎那仏(るしゃなぶつ)だ。
鎌倉の大仏が阿弥陀如来である理由は、山の上からお顔を
出して妙本寺を見つめてくれる事を願ったからなのだ。
それが一番初めの大仏のデザインだったのだと、思う。

:::Top 最新の目次に戻る:::


  ***亀子***( 13 Sep. 2008)
 
     

//////無断複製を禁止します。All Rights Reserved. (C)亀子
検索にご利用下さい
inserted by FC2 system