鎌倉、まぼろしの風景。179 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

   


179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4)


 このページは 178.御霊神社と鎌倉(南西214度の縄文風景3)の続きです。

 神奈川県二宮町の明星(あけぼし)神社は、古色蒼然とした神社だ。古木が境内を覆っていて、長く守られて来た神社であることがわかる。祭神は 甕星香々背男命(みかぼしのかがせおのみこと)。茨城県日立市大みか町の大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)の神である。
参照: 176.おんめさまとカガセオ
 
明星神社  打越川を背にして仰ぐ

 ここから二の宮の海岸に鎮座する守宮神社まで、まっすぐに平地が続き、川に沿って直線道が通る。両側の山裾はこの視線を遮らない様に削られている様に見える。
 JR二宮駅から明星神社を目指して北上すると、神社の岡を大きく西へ迂回して、道はそのまま山地へ向かう。その先は秦野市である。

 神社へ向かう道が、その先で鎮守の杜があるために大きく迂回している。そのことが、頭の中でずっと引っかかっていた。

 その引っかかりの原因は、吾妻鏡の文章にあった。
 「現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵」吉川弘文館 2007年 の、寿永元年(1182)3月15日の文章を引用する。頼朝が妻の政子の安産を祈願して段葛をつくったという、有名な記述である。
 段葛とは若宮大路の中央につくられた八幡宮参拝のための歩道である。

 鶴岡八幡宮の社頭から由比浦まで、曲がっている道を直して参詣の道を造った。これは、日ごろからの(頼朝の)願いとして考えていたが、自然と日が過ぎてきたものであった。しかし、御台所(政子)の御懐妊の御祈によって、特にこのことをお始めになった。武衞(頼朝)は手ずからこのことを執り行われた。そこで北条殿(時政)以下もそれぞれ土石をお運びになったという。

 神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮の参道、若宮大路は、海まで延びる直線道だ。ところが頼朝が造った当初は、その若宮大路はまっすぐではなかったのだ。
 そこには何かがあり、それを迂回して道は延びていた。そう仮定してみる。
 今の直線道である若宮大路の真ん中に、何かがあった。その場所は、おんめさま大巧寺のあたりであっただろうと思う。
参照: 176.おんめさまとカガセオ

 頼朝がどんな意図で段葛を造ったか。それを考えるために、この日までの彼の足跡を辿ってみた。鎌倉幕府が成立していく数年間である。日本史が苦手だった私には一からの学び直しだ。

1180年
10月6日 頼朝は数千万の軍勢を率いて鎌倉に入った。
      7日 鶴岡八幡宮を遥拝する。(鎌倉市材木座の元八幡社)
      12日 鶴岡八幡宮を雪ノ下に移す。
      16日 駿河へ向けて軍を進める。
      18日 20万騎で足柄を越え富士川へ向かう。
      20日 藤原忠清や平維盛ら(敵軍)は富士川から京へ戻る。
      21日 源義経に会う。
      23日 相模国府で勲功に対する恩賞を行なう。
11月17日 鎌倉へ帰る。
1181年
2月27日 平通盛、平維盛、平忠度ら(敵軍)が数千騎で尾張国へ。
閏2月4日 平清盛が亡くなる。
      10日 藤原景高以下(敵軍)千余騎が東国へ。
      15日 平重衛(敵軍)が千余騎で東国へ。
      17日 頼朝軍は浜松の橋本で待ち構える。
      20日 頼朝の伯父、源義広が鎌倉を落とすために出陣(敵軍)。数万騎が下野にとどく。
      21日 頼朝は東と西から来る蜂起を鎮めるため、鶴岡八幡宮へ7日間の参拝をする。
      23日 源義広(敵軍)は小山朝政(頼朝軍)に破れる。
3月7日 頼朝追討の命令が後白河院から出されると言う噂が入る。
5月13日 鶴岡若宮の新設計画が動き出す。
      20日 若宮の上棟式。頼朝暗殺未遂事件。犯人が頼朝の目前に来るまで誰も止めなかった。
      21日 暗殺犯の常澄を処刑。頼朝は「常澄は前世の仇敵だと夢で告げられた。造営の上棟式の日に発覚したのは八幡大菩薩の力である」と力説。不吉だと言う勢力を黙らせる。
8月13日 藤原秀衛に頼朝追討の命令が下る。
      15日 鶴岡八幡宮若宮の遷宮。
      29日 相模の各地の寺社で頼朝の戦勝祈願をする。
10月3日 平維盛(敵軍)が東国へ出陣。
      8日 八幡宮の領地を増やす。
      12日 鹿嶋社の領地を増やす。
      20日 伊勢神宮の神官が鎌倉に来る。頼朝が勝利したら寄進をすると約束。
1182年
1月8日 伊勢太神宮に神馬を10頭寄進する。
「頼朝は以仁王(もちひとおう)の命令で東国を平定している。東国の御領はそのまま守られている。『頼朝が謀反を起こした』というのは平清盛の虚言だ。政務は後白河院にお任せする。」という御願書を伊勢神宮に出す。

参照:「現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵」吉川弘文館 2007年

 ここで、あの段葛を造ったと言う1182年3月15日が来る。吾妻鏡の引用文をもう一度読んでみる。以下の文は意訳である。

 八幡宮の社頭から由比ガ浜まで、曲がっていた道を直して、政子が参拝する道を造った。本来直線道であるべき参道が、この時まで一カ所、迂回して曲がっていた所があったのだ。この迂回路を直線道に直したいと、頼朝は日ごろから語っていた。しかし皆はそれを聞かない振りをしてやり過ごしていた。源氏の氏神よりも、鎌倉に古くから鎮座する神の方を大切にしていたのだ。その神座を壊さない様に八幡宮の参道は迂回していたのだ。

 それでは示しがつかない。源氏のために、頼朝のために、働いてもらう。その姿勢が皆に見えるように、頼朝は図った。

 妻政子の安産を祈願して、頼朝は道を直すことを決意する。道の中央に鎮座しているものを撤去して、直線道を造るのだ。
 言葉だけでは誰も動かないので、まず自分でその神座の石を持ちあげ、八幡宮に向かって置き直した。次の石も拾い上げて、置いた石の向こうに並べた。
 古い神を表していた石群は、段葛の縁石になっていく。
 そこで北条時政も手伝い始める。北条政子の父親だ。「婿殿は本気でこの神を取り除こうとしている。」彼は少し感動もしただろう、と思う。
 彼が折れたので、平氏諸家は賛同するしかない。鎌倉に集まった武家は、この時全員で源氏の氏神である八幡宮の建設に協力したのだ。

 この日まで八幡宮は、たくさんある氏神の一つにすぎなかった。しかし今日からは東国の古い神を片付けて、全員が八幡宮に顔を向ける様にするのだ。平氏は源氏の下に従うと言う古い約束を思い出させた。

 今の私達は、この十年後に征夷大将軍になる頼朝を知っている。でも、この時期の吾妻鏡は恐ろしいほどの危機を記録している。
 東国のスターであった頼朝が指名手配になったのだ。
 戦わずに途中で引き返してしまう東国の軍勢よりも、身内の離反が何よりも恐ろしい。敵軍の進行は、いわばデモ行進だ。その人数を見て、頼朝に集まった武家達が内部から崩壊するのを誘うのだ。

 頼朝がどれだけの武将であるのかを、身内の御家人たちが見据えている。組織に組み込まれた江戸時代の武士なら忠誠を誓っただろうけれど、鎌倉時代の武家は「剛の者」。つわものはしたたかで、一人一人が自主自律なのだ。
 そんな武家を束ねる頼朝は、鎌倉の方針は正しいという強い自信を、わかりやすく見せる必要があったのだ。裏切りを許さないという意志も。

 皆は頼朝に従う。朝廷から頼朝追討の命令が出された後でも北条時政は離反しない。だいじょうぶ、勝運はこちらにある。

 若宮大路の中央にあっただろうと思われる神は、いわば坂東平氏の母方の神だ、と思う。東国の石の神、星の神である。
参照: 178.御霊神社と鎌倉(南西214度の縄文風景3)

 段葛の中央に、多分、今の警察署の前からおんめさまの西門のあたりまで。そこにはたくさんの石が並んでいたと想像する。それは大甕町久慈漁港の神磯である おんねさま と同じ石のモニュメントだったと思う。
 それは崩れたストーンサークル、環状列石であっただろう。
 真南から204度へ星が動くのを観測した天文台だ。
 真南180度から204度へ星が動くのは、一日360度の15分の1だ。縄文時代に一単位時間が1時間36分だったとしたら、15単位で1日になる。5単位時間で8時間だ。夜、朝、昼の3分割15単位制は暮らしやすい時間割だと思う。その1単位時間を測ったのが おんねさま 鎌倉のストーンサークルだと、想像する。根拠はない。
 吾妻鏡の記述を読んだ感想からの想像だ。

 鎌倉は星を祀る星月夜の町。縄文時代から続く文化を引き継いだ町である、それは道や切り開かれた山裾に残っていて、東国の古都としてずっと存在していた、と、想像できる。

追記1:
 段葛の両側に並ぶ商店がつくる八幡宮前商店会は、以前は置石振興会と言った。置石(おきいし)とは段葛のことなのだ。石を置いたから、置石。置くためには持ち上げなくてはならない。その石はどこの石だったのか。置石と命名した鎌倉の人達の本心は、「石を置いた」ではなく、「石は動かされた」を言い伝えたかったのだろうと思う。石は頼朝によって動かされ、新たに置かれた。その事を伝える命名が 置石 ではなかったかと思う。
追記2:
 神奈川県葉山町は、「七瀬の払い」で有名な森戸神社のある古い伝承のある町だ。この町に住んでいる人が子供の頃の祖母の話を教えてくれた。「石は動かしてはいけない」と、祖母が何度も言っていた、と。道端や山頂には石があり、それは丸く置かれていたり積み上がっていたりする。そういう石を動かしてはいけないのだと。それがどういう意味を持つのか、私は聞き逃してしまったけれど。
追記3:
 頼朝が段葛をつくってから6ヶ月後のこと。越後国の城四郎永用が、頼朝を呪詛しているという噂が入る。妙見大菩薩を祀って源家を呪ったと。
参照:「現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵」吉川弘文館 2007年
 妙見菩薩とは北斗七星を祀る神だ。葛原親王とその母が信仰していたと言われている。坂東平氏に受け継がれて、千葉市に鎮座する千葉神社も星を祀る。
 頼朝はおんねさまの磐座を崩すことで、東国の諸家を源氏へ結束させる事を図った、と思う。けれどそこには大きなリスクもあったのだと思った。

      


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  ***亀子***(9 Sep. 2010-5 Mar.2012)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

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:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


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