神奈川県鎌倉市にあるJR横須賀線北鎌倉駅で
下車して、北側の改札口を出る。右手に円覚寺が
見える。鎌倉五山のひとつ、建長寺に次ぐ古刹で
ある。そちらへは行かずに左手の方、北西に向かっ
て歩いていく。
この道に沿ってお屋敷が続き、桜の古木が何本も
あって、誰もが愛する北鎌倉の小道である。
崩れ易い白い凝灰岩質砂岩の崖が、道を塞ぐ様に
突き出ている。その壁を壊さずに、(ちょっと通して
下しゃんせ)という風に、トンネルが掘られている。
まだ横須賀線が敷かれる前の明治の地図にも、この
突き出した崖は載っている。鎌倉時代の関であった
という説もあるらしい。なんだかわくわくしながら、この
ちっちゃなトンネルをくぐる。
その先は道が細くなっていて、バイクで通る人も自転車
で通る人も、みんな上手にかわし合って通り抜ける。
幼稚園へ行く子達も散歩中の犬も、杖をつく人も。
この細道を声を掛け合いながら上手に歩く。北鎌倉の
町とそこに住む人を誇りに思う瞬間だ。みんなこの小道
が好きで、気持ちよく通るのである。
右手の山頂に、八雲神社が鎮座している。ここから先の
道が、「八雲神社の山頂」と題して、ここで語りたい山の
裾にあたる道だ。
駅のホームが途切れるあたりに、右手の崖の高い所に
四角い穴が開いている。第二次大戦中に作られた穴だ。
横須賀から上陸した米軍をここで撃退する、機関銃を
据える穴なのだ。幸運にも使われる事は無かった。
それを道から見える様に、コンクリートで埋めないで残し
てある。それはすばらしい配慮だと思う。
そういう戦争遺跡は、ここから大船にかけてひっそりと
いくつか残っている。
その穴に登って行くのであろう石段が、左手の岩壁に
穿ってある。でもその石段は、戦時中に作られたと考え
るにはあまりに優美な形をしている。人一人がやっと登
れるくらいの細い石段が弧を描いて洞窟の中に続いて
いるのだ。機関銃の銃弾を運ぶには向かない。むしろ、
若い僧侶が灯心をともして、一人岩窟に隠る、そんな
場面を思い浮かべる。美しく風化した螺旋の石段であ
る。
その左隣には小さな矢倉があって、正一位稲荷が祭ら
れている。地図には載っていない小さなお稲荷様だけれ
ど、その風情は天下一品だ。地域の人たちに大切にされ
ている稲荷だと見てわかる。
ここに剣を胸に抱えた神像がある。私はこの像が好きだ。
北鎌倉にお住まいのアーチストさん達のどなたかが納め
られたのだろうか。現代的でもあり普遍的でもある、この
岩壁にぴったりの神像であると思う。剣を持って玄武(亀)
に立つ姿であるから、これは妙見菩薩像であると思う。
北極星の、あるいは北斗七星の神である。
重要文化財の妙見菩薩像は、よみうりランドの聖地公園
にある像ただ一つなのだそうだ。このよみうりランドという
場所も、戸塚の旧ドリームランドと同じに、地図上に引い
た線が通過する不思議な場所の一つである。いったい何
の跡地なのだろう。私にはわからない事ばかりだ。
妙見菩薩については飯能市の円泉寺のHPが詳しい。
参照:真言宗智山派梅松山円泉寺
さて、稲荷を過ぎると好々亭の赤い門に出会う。中国風の
赤い門は白い岩壁に似合っていて、昭和の鎌倉文士を偲
ぶ文化財の一つだと思う。
ここの岩壁には四角く掘られた跡があって、磨崖仏がか
つては在ったのかもしれない。何より不思議なのは、ここ
の道路が線路より高くなっていることだ。横須賀線を作る
時に、線路の高さを円覚寺の境内の高さに揃えたとしよう。
それは小袋谷や台の家々よりも、かなり高い位置になる。
だから大船駅から北鎌倉駅まで、電車は延々と盛土の
土手の上を走っている。
なのに、ここに来て、線路より道の方が高いのだ。
そして岩に掘られた四角い矢倉跡の一つは、道路の下に
沈んでいる。
つまり、線路の高さを揃えるために掘られた土で、崖の下
部を埋めてしまったのだ。と、思う。その上を、今ある道が
通っているのではないか。だからこの道を掘り下げたら、こ
の崖の下部が、磨崖仏の祭壇部分が、壊されずにそのまま
埋まっているのではないか。これは私の夢想である。
明治の地図で横須賀線が敷かれる以前に、今と同じくこの
崖があったことがわかる。
たとえば鎌倉時代に、中央公園に在った寺院から台山を越
えてやってきた人には、真正面の白い崖とその灯明が、良い
目印になっただろう。右は円覚寺。左の谷を入れば、六国見
山から今泉へ通る尾根道になる。ここは辻なのだ。
さて、この美しい白い崖にプチ開発の表示が立てられた。
八雲神社の北側に、宅地造成がされるのだ。鎌倉は今各地
で、開発が進んでいる。21世紀の今の今まで残った山は、
かつての最重要地点であったポイントだと、私は思う。
その記憶が土地に住む人たちにはあるのだと、私は思って
いる。だから残されてきたのだ。この場所の文化的な意味を
みんなで共有できないうちに、開発によって消されてしまうの
は本当に惜しいことだ。
だから急いで、この八雲神社のある山の意味を、考えてみる。
八雲神社から北西に延びる細長い山は、両側を削られて
人工的に加工された土地である。八雲神社に立ってみると、
北西に一段高く山頂が在って、そこに国常立尊、つまり地軸
の神が祭られている。
参照:66.國常立尊(星の都2)
安倍清明の石が県道から掘り出されてここに祭られているのも、
この場所が天体観測をする所だと語っている。と、思う。
この山頂の裏側には、鎌倉で一番古い庚申塔がある。もともと
ここに並んでいたのか、集められたものなのかは知らない。
一見したところ、まるで自然石の様に見える石灯籠の巨石が、
私には一番重要である様に見える。多分、宗教弾圧があって、
灯籠にされてしまっているけれども、この石こそ、この小さな
古墳の様に見える山の主(ぬし)だったのではないか、とも思う。
庚申塔を背にして、この山の向きを見る。
国土地理院1万分の1地形図「大船」を開く。八雲神社の鳥居
のマークと國常立尊の石碑のマークを結んで線を引くと、
北西に延びる細い山を貫く線が引ける。それをそのまま延ばす
と、S泉女学院の北、74mの山頂にあたる。玉縄城址である。
私はスバル城と勝手に呼んでいるが。
参照:74.関谷の縄文とスバル(五芒星3)
このラインは真西から約30度北に向いている。つまり、台の
海軍さん通りに平行なラインだ。夏至の日没の方向を示す
ラインである。
参照:96.海軍さん通りの夕日
つまり八雲神社の山頂に立って玉縄城に沈む太陽を見ると、
その日が夏至なのだ。ここはカレンダーなのだ。
それで、このカレンダーはいつの時代のものか。
この山が海軍通りの、つまり先史時代の遺跡の真東に在ること。
台の海軍通りは笠間公園、つまり弥生時代の集落遺跡の真南
であること。ここが示す玉縄には、縄文遺跡があること。
そんな事を考えると、ここに立って天体観測をした人は、とても
とても古い時代の人ではないかと思ってしまう。
今日は秋分の日。太陽が真西に沈む日だ。
八雲神社から日没を見た。富士山の左の裾野に太陽は沈んで
いった。春分の日なら、日々夏至に向かって、落日は富士山を
登って行くだろう。
富士山そのものが、ここでは日没の位置の目盛りの役目をする。
ここは環状列石を作らなくなった人々の、カレンダーなのだ。
と、思った。
日光のあたる南面の白い崖は、北側の樹木の保水力で保た
れている、と、思う。その木々が無くなり雨水の入らない道と
宅地になったら、山は乾燥するだろう。南面の崖は崩落をい
っそう早めるだろう。と、思う。この北鎌倉の美しい白い崖も、
変わって行くのかもしれない。
「磨崖仏もどき」も、「妙見の稲荷」も、「謎の石段」も。
だから今、ここの風景をおもいっきり楽しんでおきたい。眼に、
記憶に、止めておきたい。それでも今まで残って来た地形を、
私達の時代に失うのは、やはりとても悔しいことだと思う。
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北鎌倉の住民と北鎌倉を愛する人達が、この山を洞門山と名付
けて保存の運動を始めた。沿線の個人宅の庭に運動の広報が張
られて、散歩のたびに読むことが出来た。山ノ内公会堂の集会
に行ったこともあった。それでついに、鎌倉市がこの場所を
保全することになったのだ。緑の景観が損なわれるのも嫌だ
ったけれど、私にはここの地下トンネルがコンクリート注入
で破壊される事が耐えられなかった。だからここのトンネル
について、166防空壕と遺跡(洞門山の開発)と題して、
もう一度書いてみた。鎌倉は全域が古代からの複合遺跡だ。
2012年の4月になって、この山が開発から守られることに
なったと、張り出された。本当に嬉しい。
あの稲荷社は無くなったけれど、ゴエモンの木が今後も残る
ことを願っている。石川五右衛門と木に彫った人は誰なのか
その人はまだ存命なのか、私にはわからないけれど、ここを
守るために働いた人たちの憲章として、ゴエモンの木は残っ
ほしいと思っている。
161.ゴエモンの木
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