玉の輪荘というのは、横浜市戸塚区俣野町から
藤沢市影取町のあたり、鎌倉市関谷にも広がって
いたであろう平安時代の荘園を言うのだそうだ。
大庭御厨(おおばみくりや)の隣である。
鎌倉権五郎景正が永久5年(1117)に伊勢神宮
に寄進した大庭御厨は、相模国最大の規模を誇り
藤沢市を流れる境川が東の端だった。その東は
玉の輪荘であると、倭名類聚抄に載っているのだ
そうだ。
個人所有の地なので、鎌倉郡鎌倉郷とか、荏草郷
とかいう郷里制に入らず、相模国玉の輪荘と呼ぶ
らしい。
それで、その所有者が誰だったのか、わかってい
ない。千年の間に、この地を巡る出来事の中で、消
えてしまった。それはどういう事情なのか、興味は
尽きないのだ。
玉の輪荘という名は、玉の輪という名を持つ玉縄
城址に関連するのだろう。今の玉縄城址はS泉女子
学園のある山頂を言うが、かつては柏尾川北岸に
広がる山脈を広範囲にさしていたと考えられる。
縄文時代からの生活の跡があり、勾玉が出土した
ので玉の輪と言うのだそうだ。私はこの地が北から
見て、すばる星の南中する山であることから、御統
(みすまる)の地、勾玉のネックレスと同じ名の、国の
統治者を表す、すばるの地であると思っている。
玉縄城は玉の輪城でありスバル城でもあると。
参照:35.すばる遠望(小休)(4)
そうすると玉の輪荘は天皇の領地あるいは親王の
領地だ。でも「御」が付かないから、違うのだろう。
あるいは大庭御厨のように、神社仏閣の領地という
ことだろうか。神仏なら「御統」を名乗ってもトラブル
は少ないだろう。
玉の輪荘の中心をどこに仮定したらいいだろうか。
このあたりには謎を秘めた場所がたくさんあって、
迷ってしまうけれど、とりあえずウイトリヒの森にし
てみよう。スイス人のアーノルド・ウイトリッヒさん
(昭和58年没)の森を、その遺志を継いだ奥さんの
津田ひ亭さん(昭和61年没)が横浜市に寄附した
公園なのだそうだ。ウイトリッヒさんが住む前は、何
であったのか、私は知りたいのだけれど、わからない。
この森は北緯35度22分22秒にあって、ここから
まっすぐ東に線を引くと、上総一ノ宮。玉前神社に
あたる。玉前神社(たまさきじんじゃ)の神紋は、鏡
に勾玉のネックレスが重なっている模様だ。
海から12個の明る玉(あかるたま)が現れたので、
その玉を祀ったと言う伝承があるそうだ。
とても玉の輪荘に似合うお話だと思うのだ。
玉前神社には「十二社祭り」がある。鎌倉にも十二所
神社があり、 ここは明治以後、天神七柱、地神五柱
で12の神様であるとして、名前も祭神もかえられた。
たとえば、天神七代は、
1)国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2)豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3)宇比邇神(ういじのかみ)・須比智邇神(すいじのかみ)
4)角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5)意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6)淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7)伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
であって、地神五代は
1)天照大神(あまてらすおおみかみ)
2)天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
3)瓊々杵尊(ににぎのみこと)
4)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
5)盧鳥茲鳥草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
である。
だけど玉前神社の十二社は違う。
1)愛宕神社(軻遇突智命)
2)八幡神社(誉田別命)
3)三鳥神社(事代主命)
4)白山神社(白山比売命)
5)日枝神社(大山咋命)
6)山神社 (大山祇命)
7)浅間神社(木花開耶姫命)
8)塞神社(八衢比古命 八衢比売命 久那斗命)
9)蔵王神社(大物主命)
10)粟島神社(少彦名命)
11)熊野神社(櫛御毛野命)
12)水神社 (罔象女命)
なのだ。そして鎌倉の山をよく歩く人は、どちらが
鎌倉らしい神様たちか、すぐに気がつくだろう。
少彦名命や大山祇命と書かれた石碑が、鎌倉の
山のあちらこちらにある。玉前神社の十二社は、
鎌倉で祀られている神様と同じメンバーなのだ。
玉の輪荘は、玉前神社の荘園だったのだろうか。
さて、ウイトリッヒの森の北には、俣野公園がある。
旧ドリームランド跡地だ。
ここに相州春日神社がある。ドリームランドが出来
たときに、いっしょに建てられた神社だ。
「創業者松尾國三は、横浜ドリームランドの建設に
際してその発展と繁盛を願い、敷地内に奈良県の
春日大社から分霊を受けて「ドリームランド春日神
社」を建立した。その後、神社とドリームランドとは
敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名
した。」とウィキペディアには書いてある。
なぜ春日神社なのか。
春日大社は藤原氏の神社だ。神護景雲2年(768)
に藤原氏の血を引く女帝称徳天皇の勅命によって
左大臣藤原永手が奈良の春日野に創設したのだ
そうだ。
その1年前に、茨城県の鹿島神宮からたくさんの
鹿が神様を乗せて奈良を目指して出発したのだ
そうだ。途中で死んでしまった鹿を憐れんで、鹿
の名が付いた地名が経路に点々と残っているらしい。
続日本紀の神護景雲元年4月21日の項に、
鹿島神宮に所属する神賤、男80人、女75人を解放し
良民にした。
という記述がある。この日、155人の行列が鹿の
群れを囲んで、賑やかに出発したのかもしれない。
奈良にだって鹿はいるのだ。わざわざ鹿島神宮の
鹿を運ぶのはなぜだろう。それは155人の忠実な
良民を奈良の春日大社に配備する為ではないだ
ろうか。鹿ではなくヒトを移動させたのだろう。鹿が
いなかったら、不穏な軍隊が上京することになるが
鹿の警護なら、賑々しい神事になるだろう。穏便だ。
ではなぜ、155人もの人が都に必要だったのか。
天平9年(737)の恐怖を思い出すといいのだ。藤原
の4兄弟が天然痘で全員死んでしまったのだ。偶然
かもしれない。しかし、病原体の知識がなかった彼ら
にも「けがれ」という概念はあったのだ。紙のヒトガタに
体のケガレを移して流すという呪術がある。その逆が
為されたとしたら。天然痘のウィルスが手紙や衣服に
忍び込んでいたとしたら。
なぜなら天平7年の5月に、夜、天の多くの星が入り乱
れて運行し、通常の位置になかった。と続日本紀に書
かれているではないか。
星が入り乱れるなどということは起きない。不穏な火が
山頂に多くあったということだ。天文博士はその危機を
奏上したのだ。その4ヶ月後に新田部親王が亡くなり、
6ヶ月後に舎人親王が亡くなっている。
そして天平9年の惨事だ。藤原一族は大打撃を受ける。
31年前の危機を、左大臣になった藤原永手は回避した
のだと思う。155人の神人は、強力なボディーガードだ。
ウイルスの入った呪詛の品を避ける事ができたのだろう。
御霊信仰とは、怨霊が恐かったのではない。主人が殺さ
れた事で、仕事を奪われた沢山の人たちの救済事業だ。
恨みを持つのは、失職した生きている人間なのだ。御霊
を祀る事が出来るのは遺族しかいない。遺族にお祭りの
為の資金を渡す事で、彼らの生活が保障され、恨みは
薄れるのだろう。
鹿島神宮から春日大社へ向かった鹿たちは、横浜ドリーム
ランドを通過しなかっただろうか。後に相州春日神社に
なる台地の頂上で、一夜のお祭りをしなかっただろうか。
大庭城趾公園にも匹敵するこの巨大な台地に、藤原氏の
祀りたい何かが埋まっていないだろうか。ここを「通過」
したのではなく、鹿はここを目指して来たかもしれないと、
規模が縮小されてしまった相州春日神社に立って、思う。
東海道とかまくら道は、原宿交差点で交わっている。
ウィトリヒの森の目の前だ。その1km北に、旧ドリームランド
がある。私はここが玉の輪荘の中心ではないのかと、勝手に
思っているのだ。根拠はない。
そしてその荘園の持ち主は、わからないままだ。
その後。藤原氏の築いた宮廷から、東国の武家へと時代は
変わって、鎌倉から逃げ出した貴族の領地は鎌倉幕府の
ものになったのだろう。隣接する横浜市戸塚区の小雀町の
あたりは、鎌倉時代からずっと明治維新になるまで、鶴岡
八幡宮の領地であったという。長尾郷のことだ。
鶴岡八幡宮の宮司は代々大伴氏が受け継いでいて、彼らの
墓碑を鎌倉市扇ガ谷の浄光明寺の奥庭で見る事ができる。
つまり、大伴氏がこの柏尾川と境川に挟まれた台地に、長く
支配の根を下ろしていた、ということだ。
金井、田谷、長尾、小雀のあたり、長尾郷は、大正時代に
大正村と名前を変えた。原宿には今でも大正と言う名前が
残っている。なぜ大正なのか。私には分からない事ばかりだ。
藤原不比等の次男、4兄弟の一人の藤原房前の興した藤原
北家は、房前の亡くなった天平9年からずっと、明治、大正、
昭和、と繁栄していたのだ。第12・14代内閣総理大臣の
西園寺 公望など、日本のハイソサエティであり続けた。
鎌倉は別荘地として、彼らの住居、衣服、食事を提供すること
で、徳川幕府滅亡後の危機を乗り越えたのだ。魚屋さんや
米屋さん。クリーニング店や靴屋さん。大工さん、庭師、鍛冶
屋さん。鎌倉の住民が鎌倉の歴史を作っているのだから。
上得意様の藤原氏の歴史を、語る事は無かったのだ、と、
私は思っている。戦前の貴族達は迷信に惑わされない現代
的な人たちだったかもしれない。でも、身近で暮らす人達が
「誰の領地を誰が奪った」という様な遺恨の残る歴史を語る
ことを、好まなかったのではなかろうか。
鎌倉が武家の鎌倉で立ち止まっているのは、そういう事情だっ
たのかもしれないと、思っている。でも、21世紀になったのだ
から、そろそろ別の鎌倉も、妄想してみたい。
:::Top 最新の目次に戻る:::
***亀子***( 5 May 2008)