134.ここにあるとは 誰か知るらん 鎌倉市の西にある駒形神社に、富士講の石碑がたっている。富士岱神社と書かれたその石碑の側面には、読めない歌が彫られている。図書館で「庚申塔の里 深沢の散歩道」という本に出会って、この歌をやっと読むことが出来た。 鎌倉市の町名から消えてしまった深沢という地名は、歴史の深い地名である。 著者の尾関勇さんは愛情厚く深沢を語る。 露地の庚申塔は、何度も場所を移され、その度に数は減っていった。横穴古墳もやぐらもつぶされて姿を消し、史跡も変形した姿となって、ただ想像せねばならなかった。 そうなのだ。これが古都鎌倉の現実の姿なのだ。地域の人達に愛されていた風景が、ある時に跡形も無く消えてしまうのだ。 尾関さんの本に出会えたことを、感謝しながら読み進む。富士岱神社と書かれた石碑の歌が26ページにあった。
拓本写真とともに、親切にも読みやすく書き直してあった。 かきわけて したにあるとは 底の月 ここにあるとは たれか知るらん 「書き分けて」とは、岱という字を代と山に分けて、富士に代わる山、つまり富士塚を表している、そうだ。 この歌の謎に魅せられて、昨年の春に 134.ここにあるとは 誰か知るらん という題をたてた。それから1年近く、謎は解決しないままだ。むしろいっそう深くなった謎を、ここに書いてみる。謎は謎のまま、楽しんで、深めたい。
☆ ☆ ☆ かきわけて したにあるとは 底の月 ここにあるとは たれか知るらん 「書き分けて下にある」と言えば、歌舞伎の題名の「仮名手本忠臣蔵」を思い出す。 仮名手本とは寺子屋で使われた習字の手本で、「いろはにほへと」という歌のことだ。 47文字のこの歌を7字づつに書き分けると、一番下にある字列に、言葉が浮き上がる。 「とかなくてしす」「とが無くて死す」。 忠臣蔵の四十七士は、罪が無いのに死罪になった。と、いろは歌を持ち出して語っているのだ。 参照:122.大淀三千風の鴫立庵 参照:「いろは歌の謎」篠原央憲 著 だから碑文の「書き分けて下にある」とは、7文字づつに歌を書き分けて、下に現れた文字列を読めという事だ。 するとその言葉は何になるか。それは、、 た こ あ し これは、偶然か? まさか、、。 たこあし に呆れてしまって、謎を1年間放置してしまった。 さて。この碑は明治24年3月造立だ。 その頃、蛸足と呼ばれた男が居たという。 西郷四郎。姿三四郎のモデルだそうだ。 今年2010年の新年企画と題して、朝日新聞 福島 は「姿三四郎を追って」という連載を掲載した。そのインターネット版をasahi.com記事一覧マイタウン福島で読むことができる。 その朝日新聞のHPから学んだ事を織り交ぜて語ってみる。 西郷四郎は身長151cmの小柄ながら圧倒的な強さを誇り、彼の所属した講道館の柔道は警察の正課科目に採用される武道になった。 明治22年(1889年)に講道館の師範代理になり、師匠の留守を守っていた翌年、彼は突然失踪する。彼が公式に記録に現れるのは12年後の明治35年である、長崎の東洋日の出新聞の編集長になっていた。 たこあしと呼ばれた男が出奔した翌年、この碑は建てられている。ここに在るとは誰か知るらん。 西郷四郎は志田四郎という。会津若松で生まれた。父親は会津藩士だったが四郎が3歳の時(1869)に一家は新潟県阿賀町(旧会津藩津川)に移住して船大工になった。会津藩は戊辰戦争(1868-1869)に負けて直轄地になっていた。 会津藩の家老であった西郷頼母(さいごうたのも)はこの戦いで妻子ら一族21人を亡くす。彼は函館戦線まで戦い降伏。1872年(明治5年)に赦免されて、伊豆の謹申学舎塾の塾長となった。 その後、自由民権運動の各派が帝国議会開設を目前にして大同団結運動をおこし(1887-1889)、頼母はこれに参加、代議士になる準備をする。しかし運動は分裂してしまう。政府は保安条例を制定して(1887)民権派を弾圧しはじめる。 そんな時期に、中国革命の父と呼ばれる孫文が会津坂下町(ああいづばんげまち)に1年間亡命していたと言う話があるのだそうだ(1889)。そこは会津若松から西に向かう越後街道の宿場町で若松街道に続き、西郷四郎の故郷の津川を通り、新潟の港に届く。新潟港は明治元年(1869)に開港した国際港だ。 志田四郎は西郷頼母の養子になって16歳で上京し柔道の講道館に入った。翌年には初段になり明治19年(1886)警視庁武術大会で有名になる。得意技の「山嵐」と足の指が吸い付く様な「タコ足」だ。 四郎が有名になるのと同時に、四郎のおかげで警察に伝えられた柔道は、自由民権派を弾圧する技になって行った。 会津の旧藩士が参加していた運動を潰すために、四郎は日々働くことになったのだ。 1889年(明治22)四郎は23歳で講道館師範代理になった。この年に大日本帝国憲法の発布。翌年、四郎は「支那渡航意見書」を残して失踪する。孫文が会津坂下町を去ったという年でもある。 ここに在るとは誰か知るらん。 西郷頼母の妹の八代子を母に持つ井深彦三郎は、西郷四郎の2歳下のいとこだ。四郎に遅れて上京し1886年(明治19)には中国に渡っていた。後に清政府の顧問になり満州開発に関係した人だそうだ。 会津藩士の子供達は明治政府に登用されなかった。彼らは長崎に集まり、ここから中国へ、新しい世界を求めて行った。 1886年(明治19)の初代長崎県知事は会津藩侍医の息子であり、1889(明治22)の長崎市長は会津藩家老の息子なのだそうだ。四郎も中国へ渡る夢を持つ。彼の背中を押したのが、宮崎滔天という5才下の革命家だ。 宮崎虎蔵(滔天)は荒尾村(熊本県荒尾市)に生まれた(1871)。兄弟に自由民権運動家の八郎、社会運動家の民蔵、アジア主義者の彌蔵がいる。西南戦争で死んだ八郎を除く、年の近い民蔵、彌蔵、虎蔵を「民権兄弟」とも「宮崎三兄弟」とも言うのだそうだ。 1891年に兄の彌蔵は日本国籍を捨て中国に入る計画を、虎蔵に語る。中国を人民主権の国に変える事で、日本も変えようと考えたのだ。 病弱だった彌蔵は長崎で中国語を学び、横浜の清国商館で働いた(1895)。翌年に29歳で亡くなる。 兄の民蔵と弟の虎蔵が、彼の遺志を継いだのだそうだ。 1891年に上海に渡ったのが宮崎虎蔵(滔天)だった。それ以後、1922年(大正11)に51歳で亡くなる前年まで、滔天は何回となく中国と日本を行き来している。前年に講道館を出奔した西郷四郎は翌1891年(明治24)に、長崎に戸籍を移しているそうだ。武道に優れた四郎を滔天が誘って、いっしょに渡航したのではないか、と想像してみよう。 次に西郷四郎が現れるのは1894年(明治27)。7月に旧制二高(仙台)の柔道師範になっているそうだ。 この年の8月に宣戦布告して日清戦争が始まる。実際は6月から出兵が始まっていたのだそうだ。 四郎は肩の骨をいためて、半年で二高から消えているらしい。 翌年4月に下関で日清講和条約が結ばれ終戦になる。四郎は7月に久留米の柔道師範として現れる。が、これも数ヶ月しかいなかった。 翌1896年(明治29)台湾総督府条例が発布。 台湾は日本領となった。その台湾に四郎が渡ったという記事が西郷頼母の日記にあるのだそうだ。 宮崎滔天と西郷四郎はともに20代。日本と中国の国の有り様が大きく変わって行く時代に生きていたのだ。 その後の東洋日の出新聞時代の四郎は、日露戦争の現地報告をしたり、辛亥革命を記録したり。それらは歴史的に貴重なレポートなのだそうだ。 東京で宮崎滔天が腎臓病で亡くなった1922年(大正11)12月。闘病生活3年目にして西郷四郎は亡くなった。滔天の死の17日後だった。 西郷四郎が講道館を出奔して翌年長崎に現れるまでの、その青春の日々を、鎌倉市の深沢で過ごしたと想像してみる。 1811年(文化8)から1821年(文政4)のころ、会津藩は東京湾を警護していて、鎌倉市の北部の大船や横浜市栄区から三浦半島ほぼ全域は会津領であったのだ。明治になっても帰らずに鎌倉で生涯を終えた会津藩士も居ただろうと思うのだ。結果として弾圧側に貢献してしまった四郎を、慰めた人がここに居たのではないか。鎌倉はいつでもそんな人達を迎える優しさがあると、私は思っている。 ここに在るとは誰か知るらん。とは、名声を捨ててまで、たくさんの会津人といっしょに中国大陸の夢を共有した西郷四郎を偲ぶ碑文だ、と思う。ここに彼が来た事を秘密に記念したい、彼が大陸に渡って、忘れられたとしても、ここにいる我らは忘れない。そういう碑文なのではと、想像してみる。 鎌倉にある碑文はたくさんのロマンを語りかけてくる。そうして遠い昔の青春の物語を、今に伝えているのだと思った。
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***亀子***( 15-23 Feb. 2010- 5 Mar.2012)
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柏原 一心坊
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
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