神奈川県立図書館から借りて来た日本行脚文集を読む。大淀三千風は面白すぎる。
江戸の文体は難しくて、解らない所もある。そんなところはパスして、ぐんぐん読み飛ばす。私は文学を専門に勉強していないし、妄想は有り余るので、勢い意訳になってくる。三千風にリスペクトされた、これは創作だと観念して、面白い所だけ書いてみた。 日本行脚文集 巻之六
1686年(貞亨3)4月27日。海路江戸を立った三千風は、金沢八景から能見台を越えてまっすぐ鎌倉に入る。
700字を越す美文は能見堂の景色を讃えるというよりも、八景から鎌倉までの山路を休み無く歩いた三千風の姿に重なる。後日いくらでも書き足して、体裁を整えたという感じ。
その日のうちに扇ガ谷の渡辺勝政さんの家へ着いている。
このコースは水戸光圀の「鎌倉日記」(1674)と同じだ。文字通り大名旅行か。三千風はなるべく籠や馬に乗らないと言っていたのに、品川や戸塚を通らずに海路にしたのは、財力があるからというよりも、この時は急ぐ旅だったと考えよう。
渡辺さん宅に3日滞在した三千風。その最終日に、渡辺さんご自慢の庭の松の木を見ている。ぜひこの松について一言書いていただきたいと頼まれる。
臥龍松と呼ばれるとぐろを巻いた松の賛辞に、3日分の宿代、食事代、観光案内料がかかっているのだ。
いくら著名な俳諧師大淀三千風といえども、3日も時間をあけてつくして下さった渡辺さんには大いに応えなければならない。また次の機会にも来ることもある。その時も笑顔で迎えてもらいたい。
三千風は持っている知識、才能のすべてを傾けて一枚の半紙に向かった。
無作の天心は万物の含蔵なれば、、、
美文がいつものようにすらすらと流れ出る。
春は直東風(くごち)に万歳をとなへ、夏は青嵐に双調の琴をならし、、、
214文字の賛辞が澱み無く続く。そのはての発句。三千風、渾身の一句。
五月雨(さみだれ)は
臥龍の松の よだれ哉(かな)
、、、。しーーん。
渡辺さんは仙台からはるばるやってきた三千風に心からもてなしをしたのだ。
自分の句を有名な先生の句と並べて出版してくれる。三千風先生がいたから友人にも使用人にも自慢する事が出来たのだ。
俳句をやっても一文の得にもならないけれど、有名人を3日間ひとりじめできたのだ。自慢の松に半紙を頼んだのだって、三千風先生が気持ちよく旅立てるように、無銭飲食ではなかったよと、その為にお願いしてみた事だった。この半紙を見せて、また友人に自慢しようと思っていたのに。
さみだれは 臥龍の松の よだれかな
この句は誰にでもわかる。ウンチクはいらない。
「ホウ!自慢の松を御たいそうに龍だなどと言うんなら、松から落ちるこの雨はヨダレでしょうかね。」
大笑われだ。ひどい、、、。
返す渡辺さんの句も、また見事。
虎に角ある 笋(たかふな)の文(あや)
鎌倉渡辺 勝政
「獰猛なトラに牛のツノまでつけて、ウシトラと言えば鬼のこと。宿を貸してあげたのに、三千風先生のこの仕打ち。あなたはオニか。
4月の庭に生えるタケノコの姿はオニのツノにそっくりだけど、タケノコの皮をはらはらと剥く様に美辞麗句を書き散らしたこの文章の心はいったいどこにあるのでしょうか。」
この次の文章は段落が変わっていて、
○皐朔(5月1日)かまくらを立。
さっぱりと別れて来たのでしょう。(笑)
というのは、三千風の演出にあわせた風景。
笑いをとることが生き延びるにつながる事を知っている三千風だ。
○臥龍松記 と高々と題して、三千風は全力で美文を作り上げていた。
「自然界にあらわれ起こることは人間の知恵を越えている。松も人間も、自然の中では対等な一つの命だ。私は人、あなたは松であるけれども、その名を呼べば黙っているはずはなく、声をかければ応えてくれるだろう。」
いかがおもふ汝なんじ臥龍松がりゅうしょう
「すると松は答えた。常緑樹として私はここに生きる。春風に永遠を願い、夏風にさらさらと松葉を鳴らして居る。秋冬は萩の花に、こぼれ落ちて枯れ枝になる萩に無常を語り聞かせ、色褪せぬ濃緑の葉に雪を受けて悠然と過ごす。そんな私にも後悔と言う苦い思いもあって、それはこの岩盤の下深く根の底に埋めてある。だれ言うともなく、おこがましいが、臥龍の松(王者が力を奪われて閑居する姿)と呼ばれている。と。」
ここに三千風は見事な禅僧になって銘木に対峙し、呼びかける。かっこ良すぎる。
いままで無言であった松がその声で起き上がり、萩の枝を見下ろして語り出すのだ。今では臥龍松は一人の人間になっている。あるいは一匹の大きな龍だ。その鼓動が聞こえ、その生あたたかい息が三千風に吹きかかり、眼は爛々と光っている。
その龍の熱い命を浴びて三千風は詠む。
さみだれは 臥龍の松の よだれかな
雨は涙ではなく、生き生きと動く龍のよだれである。
「渡辺さんは生気あふれるみごとな龍を飼っておられる。」
庵主も応える。
「この松からその正体を解き放ったあなたは角の生えた虎、鬼神のようですね。重なる言葉の中心に4月の香り高い筍のような、あなたの詩が見つかります。」
鎌倉は阿仏尼が住んだ街だ。仙覚が万葉集を研究した街だ。文学の薫陶深いここに住む渡辺さんと、三千風の3日間は、笑い転げる程おもしろいものだったのかもしれない。
追記:三千風は江戸からまっすぐ鎌倉へ来て、渡辺さんと3日間語り合った。
あるじ案内者にて三日巡見し、古今の伝縁の感和のたもと五月雨たり。
二人でたもとを濡らし泣きあったという。鎌倉だからそれは比企一族や三浦一族の滅亡に涙したように思われるけれど、何を巡見し何に涙したのかは書かれていない。
材木座五所神社のキリシタン受難像ができて2年目。北鎌倉の東渓院ができて6年目。東慶寺の天秀尼が亡くなって41年目。光圀の「新編鎌倉志」は、この三千風の鎌倉行の前年に刊行されているそうだ。
時代は5代将軍綱吉の頃。3代将軍家光までの激しいキリシタン弾圧が日本中にくまなく広まり、キリシタンは消えていたはずの頃。天和の治と称えられた平和な時代、武士が武人から文人へ官僚へと変身した時代だ。安全になった街道を三千風は一人で旅をした。
扇ガ谷から由比、稲村ケ崎、大仏、長谷寺、星月夜。極楽寺切通、片瀬川、腰越、満福寺。
江ノ島までの道のりを三千風は観光をしたかの様に書き綴っている。
江島金亀山奥院窟のうちまで巡礼し。
この「巡礼」という言葉を、三千風はあまり使わない。それが私には、注意を喚起する何かになりつつある。
参照:114.キリシタン受難像
110.東渓院菊姫
112.東慶寺の姫
***亀子***
( 5 Apr. 2009-15Mar.2012)