鎌倉、まぼろしの風景。84 
鎌倉、まぼろしの風景。

          
     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


天神山


:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


長屋王(天平の大船幻想3)          

  「栄の歴史」というすばらしいページがネット上
に在る。横浜市栄区の郷土史だ。その著者の
本郷郷土史研究会が出した本「鎌倉古鍛冶と
本郷」 に、図書館で出会った。この中の「鎌倉
幕府の兵站基地山之内庄本郷」北條祐勝 著
が、とても興味深かった。JR本郷台駅のある周
辺のいたち川流域について、この研究会から沢
山のことを私は学んでいる。

 このなかで、天平7年(735年)の正倉院文書
を引用し、「尺度郷」が鎌倉市梶原から横浜市
戸塚の間であろうと推定している。笠間、飯島、
本郷、岩瀬、大船のあたりだそうだ。
この尺度郷から得られる利益で誰が生活して
いたか。誰の食封であったかは、資料がそこだけ
抜けていて、わからないのだ。
 それで、「戸塚区の歴史」上巻 大橋俊雄 著
を引用して、「尺度郷は長屋王の封戸の可能
性が強い」と注釈している。

 東大寺正倉院文書19「相模国封戸租交易帳」
に載る人は、一品の舎人親王(とねりのしんのう)。
彼は食封300戸などなどと書かれていて、次に
足上郡岡本郷50戸、足下郡高田郷50戸、など
と続く。その次が欠損しているのだそうだ。
次にくる人の名前が無いまま、そこには尺度郷
(鎌倉郡)50戸、荏草郷50戸と、最後の部分だ
けが書かれている。
 その次は右大臣従二位藤原朝臣(武智麻呂)。
食封、大住郡仲島郷50戸。だから、その間の
人は、その間の位の人。つまり長屋王だという。
すばらしい。
長屋王とは聖武天皇の時代の左大臣。右大臣
藤原朝臣武智麻呂(たけちまろ)よりエラかった。

長屋王は聖武天皇の母の藤原夫人宮子が、
大夫人と名乗ることに反対したのだそうだ。
藤原氏の力を押さえようとする位置にいたらしい。
そこで「長屋王の変」がおこる。

 神亀6年(729年)2月10日左京に住む漆部造
君足と、中臣宮処連東人が長屋王を密告する。
左道を学びて国を傾けんとする。悪い呪術を行
なったという。すぐさま3カ所の関が封鎖される。
長屋王の邸宅は藤原宇合(うまかい)らの軍隊に
囲まれる。
11日。長屋王の罪を追求し訊問するために、
舎人親王、新田部親王、多治比真人池守、
藤原武智麻呂らが派遣される。
12日。長屋王は自殺。妻の吉備内親王と4人の
息子も縊死。
この恐ろしさは正史の続日本紀巻第10の文章
でも十分に伝わってくる。翌日、長屋王と吉備内
親王の遺骸は生駒山に葬られる。死の翌日だ。
死顔に花を投げ込む時間も与えられてない。
訃報を聞いて遠く尺度郷からやってきた者には、
王の跡形も無い都が、いっそう惨い事だったろう。

この事件は密告から始まっている。わざわざ左京
に住む人と書いているが、漆部造君足(ぬりべの
みやつこ きみたり)といえば、染谷太郎太夫時忠
を連想する。鎌倉と横浜栄区に屋敷があった伝説
の人だ。藤原氏の縁者であって漆部であったという。
甘縄明神を祀り、由比ケ浜に伝承が残っている。
参照:33.昇竜の都市鎌倉(2)
そしてもう一人の中臣宮処連東人(なかとみの
みやこのむらじあずまひと)。中臣鎌子と名乗った
藤原氏の租、後の藤原鎌足を連想させる。
東人という名は確かにあるのだけれど、この場合は
匿名に近いのではないか。つまり、東国鎌倉から
馳せ参じた藤原ゆかりの二人が密告したと、思わ
せぶりだ。彼らは長屋王の尺度郷で何を見たのか。
何を告げたのか。彼らが見たのは、柏尾川沿岸の
天壇と地壇だったのではないかと、思う。

参照:82.柏尾川(天平の大船幻想1)
参照:83.玉縄(天平の大船幻想2)
横浜市戸塚区長尾台は北に開けた城跡である。
でも、天神山の方から見れば、鎌倉市岡本の静か
で穏やかな深い谷戸の奥だ。岡本の谷戸ノ池を越
え、山を登り振り返れば、南に天神山、北に戸塚の
河岸が広がる。長尾台だ。

谷戸ノ池は江戸時代の灌漑用水池だそうだ。実利
主義の江戸時代らしい。その池は昔々、竜頭船が
童子を乗せて浮かぶ浄土庭園の池ではなかったか。
そう思わせる静かな風景が岡本の谷戸にはある。
旧家の連なる谷の最深部である。

 国の王ただ一人が祀ることの出来る、郊祀の天壇
地壇を、奈良から遠く離れた東国に築いていた、と、
したら。それは2人目の王を宣言することだ。地上に
描いたデザインは消すことが出来ない。長屋王にその
意図があったのか、わからない。長屋王は一度も鎌倉
に来た事はなかっただろう。でも、王のために働く人は
長屋王こそ次の王であると期待していただろう。彼らの
思いが、長屋王追い落としに利用されてしまったのでは
ないか、と、私は想像する。聖武天皇は密告の後すぐ
に、関を兵で固めている。長屋王の私兵が、押し寄せ
てくると思ったのだろう。尺度郷は鉄器の産地だ。軍馬
と兵士の育成も充分できる所だった。万葉集の防人の歌
は東国の人々の歌で満ちている。王の封戸が発展する
に連れて、藤原四子の不安は大きくなっていっただろう。
聖武天皇の皇太子が、わずか2才で亡くなったときに、
長屋王の悲劇は始まったのかもしれない。

長屋王が亡くなって6ヶ月後、8月に、年号が天平に
変わる。天皇の詔に「諸国の天神地祇は国の長官に
祭祀を行わせよ。」とある。諸国に天神地祇があっ
たのか私は知らない。でも、私には、鎌倉市山崎の
天神山をそのまま祀っていいと聞こえるのだ。
王の為に天壇である天神山の神域を壊さずに、天神
を祀りなさいと、許可した様に聞こえるのだ。

ところで、長屋王が死んだのは天平元年である。
東大寺正倉院文書相模国封戸租交易帳は天平
7年だ。この年、天然痘が蔓延していると続日本
紀には書かれていて、更に5月には「夜、多くの星
が入り乱れて運行し、通常の位置になかった」と
ある。山に多くの不振な篝火があったのではない
か。不穏な空気を感じてしまう。それから、長屋王
を訊問した新田部親王が亡くなった。
さらに、藤原不比等の妻であった聖武天皇の祖母
も、そしてあの訊問の指揮をとったであろう舎人親
王も、亡くなった。
天平9年、藤原朝臣房前が亡くなり、藤原朝臣麻呂
が、藤原朝臣武智麻呂が、藤原朝臣宇合が亡くな
った。藤原鎌足の息子の不比等の4人の息子、
藤原四子が、全員死んでしまった。続日本紀に書か
れた死者は彼らを除いて8人。異常事態である。
長屋王の罪を訊問した人たちが亡くなっていく。
一番最初に亡くなったのは天平2年の多治比真人
池守であった。

その天然痘の流行が終わりになる10月に、長屋王
の遺児、安宿王、黄文王、円方女王の位が上がっ
ている。不比等の娘の長娥子の子供達は、お咎め
無しだった。
さらに翌天平10年の7月、病気が再び蔓延するか
もしれない夏の初めに、長屋王を密告した中臣宮
処連東人が惨殺される。長屋王に仕えていた大伴
宿禰子虫が、囲碁の最中に殺したという。
長屋王の罪は冤罪だった。正史にそう書かれている。
これで、「長屋王の変」は終止符をうたれる。

長屋王は生駒山に葬られた。でも、日本霊異記には
別の話が載っている。親王の家族の死骸を焼き砕い
て河や海に投げ散らした。王の骨は四国の土佐国に
移して葬らせた。すると農民がばたばたと死んでしま
った。それで、聖武天皇は、もう少し都に近いハジカミ
の島にあらためて埋葬したという。有田市の沖の島で
あろうと、シマダスには書いてあった。地図で見ると、
紀州水道の海の要所に、有田市の地の島と沖の島
がある。その北に、和歌山市の地の島と沖の島があ
って、目くらましになっている。

 有田市の沖の島は全島花崗岩でできていて、土が
無く、草木が生えない島であったそうだ。つまり毛無
しの岡である。
参照:49.万葉集の大船幻影(休憩)
この、木が1本も無かった島に、多分今も王は眠って
いるのだろう。生駒山は荼毘に付した所かもしれない。
そして鎌倉市大船に昭和まであった毛無しの岡の離山
は、長屋王を偲ぶ人たちの斎場だったのかもしれない
と、想像する。
長尾台のふもと、岡本の谷戸の中央の真東が大船観音
だ。さらに東へ線を延ばすと、由来が書かれた稲荷があ
って、その先はかつての離れ山(腰山)の山頂にあたる。
その東は旧松竹撮影所の正門で、私の作図では、いつも
出てくる重要ポイントだ。
イメージの翼に乗って、大船の岡本の山を、そして天神山
を、仰ぎ見る。ここが歴史の「現場」だったのではないかと
想像してしまう。
参照:歴史データ館 日本霊異記

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  ***亀子***( 20 Apr.2008)
 
     

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