鎌倉は三方を山に囲まれた要衝の地であると、よく言われて来
た。
武士がその地の利を生かして、たくさんある谷戸に屋敷を構えた。
今でも鎌倉入りには数本の県道しかなくて、渋滞になると苦労し
ている。しかし今より鎌倉時代のほうが、武士たちには便利だっ
たのではないか。だって、車ではなくて馬で移動していたのだか
ら。馬は階段を上るし、木立の間だって歩く。馬は山の尾根歩き
が出来るから、庶民は入れない山道は木こりと僧侶と武人の、文
字どおりハイウエイなのだった。
「谷戸に屋敷を構える」とは、山の尾根に接続して高速情報網に
アクセスするということだ。
北鎌倉から大仏まで、あるいは金沢八景まで、川に沿って平地を
歩けば、山裾をぐるっと回ってとっても長い遠足になるが、一旦
山頂に上がってしまえば、本当にあっという間に着いてしまう。
山からガサガサと庭に降りてくるのは普通は人間ではない。ムジ
ナかテングか、公式の来客ではないことが肝心だ。ライバルの武
人同士でも山通信でちゃんと根回しができたりする。表は衛士が
見張っていても、奥庭には誰にも見られずにどこへでも通じる道
があるのだ。
そういう目で鎌倉を見ると、柏尾川より東の鎌倉のほとんどの山
は繋がっている、分譲地で分断される以前は。そうだったら、
「切り通し」とは、山脈ルートを「切る」ことで防衛しているの
ではとまで思ってしまう。例えば北鎌倉にあるトンネル群や佐輔
にあるトンネル群はどれも「上を通れるように」高架橋にしてあ
るのだ。僧侶たちの修験道の山道は保護されていて分断されない。
それは情報の最短ルートなのだから。
そんなふうに思っていたら、尾根あるき同好会のHPに出会った。
ーーー参考:尾根あるき同好会:
イルカ尾根ーーー
なんと鎌倉の山は、南は三崎まで、北は横浜の能見台を越えて続き、
鶴見川の先へ、津久井湖の北、高尾山まで続くのだと言う。いるか
尾根と彼らは呼んでいるのだ。すごい!
尾根を歩けば、一度も川で遮られずに歩けるのだ。登山家には常識
かもしれないけれど、高尾山薬王院有喜寺が修験道の霊場であるの
も、この長い尾根があるからかもしれない。**亀子**
(25 Apr.2007-14 Jun.2012)