鎌倉、まぼろしの風景。

     イメージの翼に乗って中世鎌倉を妄想するページ。

:::::目次:::::

:::Top:::

:::1.天平の星の井19Apr:::

:::2.虚空蔵菩薩堂:::

:::3.霊仙山20Apr:::

::: 4.飛竜の都市23Apr:::

:::5.分水嶺25Apr:::

:::6.道の意匠27Apr:::

:::7.修験道の現在形29Apr:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::


知る者は言わず
言う者は知らず
《老子》






資料集


きっかけ


はじめに


分水嶺

     
  鎌倉は三方を山に囲まれた要衝の地であると、よく言われて来
た。
武士がその地の利を生かして、たくさんある谷戸に屋敷を構えた。
今でも鎌倉入りには数本の県道しかなくて、渋滞になると苦労し
ている。しかし今より鎌倉時代のほうが、武士たちには便利だっ
たのではないか。だって、車ではなくて馬で移動していたのだか
ら。馬は階段を上るし、木立の間だって歩く。馬は山の尾根歩き
が出来るから、庶民は入れない山道は木こりと僧侶と武人の、文
字どおりハイウエイなのだった。

「谷戸に屋敷を構える」とは、山の尾根に接続して高速情報網に
アクセスするということだ。
北鎌倉から大仏まで、あるいは金沢八景まで、川に沿って平地を
歩けば、山裾をぐるっと回ってとっても長い遠足になるが、一旦
山頂に上がってしまえば、本当にあっという間に着いてしまう。
山からガサガサと庭に降りてくるのは普通は人間ではない。ムジ
ナかテングか、公式の来客ではないことが肝心だ。ライバルの武
人同士でも山通信でちゃんと根回しができたりする。表は衛士が
見張っていても、奥庭には誰にも見られずにどこへでも通じる道
があるのだ。

そういう目で鎌倉を見ると、柏尾川より東の鎌倉のほとんどの山
は繋がっている、分譲地で分断される以前は。そうだったら、
「切り通し」とは、山脈ルートを「切る」ことで防衛しているの
ではとまで思ってしまう。例えば北鎌倉にあるトンネル群や佐輔
にあるトンネル群はどれも「上を通れるように」高架橋にしてあ
るのだ。僧侶たちの修験道の山道は保護されていて分断されない。
それは情報の最短ルートなのだから。
そんなふうに思っていたら、尾根あるき同好会のHPに出会った。
ーーー参考:尾根あるき同好会イルカ尾根ーーー

なんと鎌倉の山は、南は三崎まで、北は横浜の能見台を越えて続き、
鶴見川の先へ、津久井湖の北、高尾山まで続くのだと言う。いるか
尾根と彼らは呼んでいるのだ。すごい!
尾根を歩けば、一度も川で遮られずに歩けるのだ。登山家には常識
かもしれないけれど、高尾山薬王院有喜寺が修験道の霊場であるの
も、この長い尾根があるからかもしれない。**亀子**
(25 Apr.2007-14 Jun.2012)

     

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