185.鎌倉の小倉百人一首 2 1221年(承久3)、承久の乱に破れた後鳥羽上皇は隠岐に渡った。順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に。仲恭天皇は廃された。 後鳥羽上皇の側で戦った公家や武士の領地の約3000カ所が没収されて、鎌倉幕府の武家に配分された。 吉川弘文館から出されている現代語訳吾妻鏡の「8 承久の乱」に、恩賞を受ける人たちの名簿が延々と並んでいる。その後に戦争の事後処理が続く。「死刑は朝廷の決定にはよらないという。」とあって、晒し首になった人、命乞いも叶わずに斬首された人、入水する人。代表して家族に斬られ、親族の存続を護った人。逃亡者の探索。その追っ手を殺した僧兵たち。等々、恐ろしい記述が続く。 時代の針がゆっくりと関東の方向に振れて、都が鎌倉へと移動していくのがわかる。 後鳥羽上皇はこの後18年を隠岐で過ごして亡くなった。御領地の相続に関する遺言書が今に残っていて、それは国宝になっているそうだ。その文書の全面に両手のひらの手形が朱で押されている。天皇の朱印の代わりの手形なのだろうけれど、それは恐ろしい物に見えるのだ。 順徳上皇は後鳥羽上皇の死の3年後に、もうこれ以上生きるのは不要だと、飲食を断ったという。焼けた石を頭にのせたという伝承もあるそうだ。それは鎌倉幕府を怖がらせようという虚構だと思うのだけれど。 後鳥羽上皇の死後に火災や不幸が相次いで、それは祟りであると説明された。1247年、幕府は鶴岡八幡宮の北西に今宮を造営して後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の霊を弔った。この神社は今もひっそりと美しく祀られていて、鶴岡八幡宮に近いにもかかわらず、観光客の姿をそこで見たことがない。 この時まで、祟る怨霊と言ったら崇徳上皇であった。保元の乱で破れた崇徳上皇は配流先の讃岐で朝廷を呪った。自分の血で恐ろしい言葉を書き綴った。その赤い紙面が、後鳥羽上皇の遺言書の赤い手形に重なってくる。 また、さらに遡って、785年。桓武天皇の弟の早良親王は藤原種継の暗殺に関与したとして、京都府乙訓郡の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉される。 親王は無実を主張して十数日間飲食を断ち、淡路国に送られる途中で憤死する。そこは大阪府守口市の高瀬橋付近だといわれ、また、京都府の大山崎の高橋であるとも伝えられている。早良親王も怨霊になり祟ったと語られる。それは順徳天皇が佐渡で餓死したという伝承に重なってくる。 怨霊を祀るということは、敗退した人のもとで働いた人たちを慰撫する、ということでもある。仕事を奪われ名誉をなくした恨みを、故人を祀るという行為で癒していくことができる。ちょうどまさに、そのように、後鳥羽上皇の子供たちがすべて亡くなって、時代が更新されたと思われる頃に、阿仏尼と藤原為相が、鎌倉にやってくる。後鳥羽上皇のもとで働いた藤原定家の、孫とその母だ。 藤原定家は孫の為相を可愛がった。彼に与えられた財産を取り戻そうと、訴訟の為に阿仏尼は鎌倉へやってくる。嫡男と庶子の区別なく正当な権利を主張できる、それが鎌倉幕府のやり方だった。その風聞は京都にも届いていて、旧体制でがっちり固まった社会では不利であった阿仏尼も、鎌倉へ直訴すればと希望を持つことができたのだ。 かつて定家も鎌倉に来ていたので、様子はだいたい聞いていただろう。これからは朝廷ではなく幕府に仕える時代になるのかもしれない。ざりける、ざれば、なんていう耳障りな言葉の荒武者と和歌の話ができるだろうかと、偵察にやってきたとも言えるだろう。 何と言っても後鳥羽上皇につながる定家の孫であるから、安全に暮らせるのかどうか。試しに母が住んでみた、ということでもあっただろう。 阿仏尼は鎌倉で亡くなって、息子たちがやってくる。彼らも鎌倉で暮らし、生涯を終える。時代は京都から鎌倉へと動いていたのだ。 息子の為相は鎌倉歌壇の指導者になる。そこで定家の小倉百人一首を読むこともあっただろうと思う。それは承久の乱で敗退した後鳥羽上皇と順徳上皇への鎮魂の歌集である。 参照:
184.鎌倉の小倉百人一首 後鳥羽上皇に仕えた定家の鎮魂の選集を、孫の為相が引き継ぐのだ。怨霊を封じる為に。和歌の呪術で鎌倉幕府を護る、そうアピールすることで、為相は鎌倉で生きることができたのだと思うのだ。 彼が鎌倉に来たときに、すでに大仏はできていた。後鳥羽上皇の死の前年に建設が始まったのだから。それで彼は、大仏と稲瀬川と元八幡と由比ケ浜が、東大寺領と水無瀬川と石清水八幡宮と淀川に重なることを発見する。 鎮魂の意味を秘めた百人一首による地図は、鎌倉の地にも展開される。そして為相の死後5年で鎌倉幕府は滅亡し、和歌を愛する人は後鳥羽上皇の怨霊をそこに見いだしたかもしれない。あの宝積寺が建立されるのは暦応年間(1338-1342年)、幕府滅亡の数年後、足利尊氏の時代になる。 そう、この時から、京都の大山崎に似せて、鎌倉の洲崎が山崎と呼ばれるようになったのだ。 参照:
184.鎌倉の小倉百人一首 この間の歴史のおさらいをすると、 1333年、鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が政権を握る。 足利尊氏の弟の直義が執権となり、成良親王の鎌倉将軍府を設置する。 しかし足利尊氏が後醍醐天皇に離反し新田義貞を破って政権を握る。 光明天皇が立ち、後醍醐天皇は吉野に逃れて、1336年南北朝時代に突入。 だから鎌倉に宝積寺が建てられたのは、足利幕府を護る為の呪術なのだ。 藤原定家が百人一首に仕掛けた呪術を、鎌倉の歌壇が引き継いだ、その成果だと言える、と思う。
参照:鎌倉叢書第五巻 鎌倉の歌人 外村展子 著 参照:現代語訳 吾妻鏡 8承久の乱 五味文彦・本郷和人 編 参照:百人一首の秘密 驚異の歌織物 林直道 著
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***亀子***(17 Dec. 2010-4 Mar.2012)
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十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
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