神奈川県鎌倉市の北西部に位置する山崎は不思議な町だ。
いつ頃から山崎と呼ばれているか、という問題について、新編相模国風土記稿では23行も語られている。それで結局「なほ、明証を得るをまつ」で終わっている。解らないのだ。
そもそもなぜ山崎という地名の由来が問題になるのか。他の地区ではこれほどしつこく地名の由来について書かれてはいない。だから謎の山崎、なのである。
ここはかつて洲崎と呼ばれていて、1333年に鎌倉幕府が滅びた時の激戦地である。最後の16代執権であった北条守時は、ここ洲崎で自刃した。38歳だった。
鎌倉市寺分からモノレールの湘南町屋駅あたりを大きく眺めて「洲崎」と言い、その一部が「山崎」さらにそのうちの北野天神のあたりの小字名が「神代(みよしろ)」と言う事らしい。
参照:47.将軍のいましめ(5)井関隆子
かつての洲崎を眺める
洲崎古戦場の碑
ところで山崎の戦いと言えば、豊臣秀吉が明智光秀を破った天王山の戦いとして有名だ。1582年だ。
秀吉の本陣は天王山の中腹の宝積寺にあった。京都府大山崎町である。
天皇の戦いは「瀬田の唐橋」で決戦になるように、武家の戦いは「山崎」で決まると、陰陽師にでも言われたのだろうか。
1582年当時に鎌倉の洲崎は山崎と呼ばれていたのだろうか。
京都の大山崎の宝積寺を模して、鎌倉にも宝積寺が建てられた。それで旧名の洲崎を改めて山崎と言うようになった、という碑文が山崎の北野天神にあるのだそうだ。鎌倉の宝積寺は暦応年間(1338-1342年)に創建されたらしい。鎌倉幕府が滅びて、室町幕府になってからだ。その時に鎌倉が京都に倣って宝積寺を作ったという。すでに山崎と呼ばれていたのだ。
鎌倉の宝積寺は早くに廃寺になり、宝積寺谷という名も語られなくなった。谷は切り開かれて、今は江ノ島へ向かうモノレールが通っている。
宝積寺に模して宝積寺が建てられた。いったいそれは、どういうことだろう。誰が何の為に、真似したのか。
大阪府島本町山崎は京都府大山崎町に接していて、S山崎蒸留所で有名だ。南に水無瀬川が「つ」の字に流れていて、東で桂川に合流している。桂川は宇治川、木津川とここで合流して淀川になり南下して大阪市へ向かう。南にはるばると広い河原が広がり北に天王山を望む。天地水明の四神に守られた地である。
そこに水無瀬神社がある。後鳥羽上皇が好んで訪れた水無瀬離宮跡地である。
1203年、源千幡は12歳で鎌倉幕府3代将軍になった。源実朝(さねとも)である。名付け親は後鳥羽上皇だそうだ。上皇の2人の王子は園城寺(三井寺)のトップになっている。その滋賀県大津市の園城寺で、11歳から17歳まで暮らしたのが公暁(くぎょう)である。叔父である実朝を殺した時は18歳だった。
後鳥羽上皇の下で働いたのが藤原定家(さだいえ/ていか)だ。小倉百人一首を選定した歌人である。
百人一首は万葉集から後鳥羽上皇まで、歴代の歌人の歌が揃っている。だけど文学的に優れた歌を集めた、というわけではないらしい。もっといい歌をこの人は歌っているのに、と、不思議に思われているそうだ。その謎の百人一首についての本「百人一首の秘密 驚異の歌織物」林直道 著 青木書店1981年(2009年新装版2刷) を読んだ。
なぜ洲崎は山崎と言い換えられたのか、その答えが、ここから見つかった。
百人一首にはカルタ取りの時についお手つきをしてしまうような紛らわしい歌がある。同じ言葉を使った似た歌が何組もあるのだ。そこから歌と歌が同じ語句で繋がっているのではないか、という「言葉の連鎖」を発見する。それが1978年に集英社から出版された「絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く」織田正吉 著 だった。
この本からヒントを得た著者は、百人一首の絵札を10X10の方形に並べ、上下と左右を共通の言葉によって連結してみせた。
右下に藤原定家、左下に後鳥羽上皇。右上に後鳥羽上皇の王子の順徳院、左上に定家の恋人の式子内親王が並ぶ。
出来上がったのは上方に山、左の中段に曲がった川、中央に滝のある地図だという。それは水無瀬離宮のある山崎の地図だ。定家は百首の歌を繋げて、水無瀬川離宮の絵図を描いたのだという。驚きだ。
その挿絵を見て、気づいた。水無瀬川の形は鎌倉の稲瀬川に似ている、と。
鎌倉市長谷から流れて由比ケ浜に注ぐ稲瀬川は「イナセな江戸のお兄さん」の語源になっている。稲瀬川の堤で5人の盗賊が勢揃いする歌舞伎の名場面はあまりにも有名だ。
参照:129.黙阿弥の白波五人男
江戸時代に歌舞伎が上演されて、鎌倉にはイナセ川があると、喧伝された。でも万葉集に載った鎌倉の川は、美奈能瀬河泊(みなのせがわ)だ。この川は現在の稲瀬川だと言われている。だとすると、後鳥羽上皇の離宮の川と、同じ名前だったのだ。
隣町まで出かけていって1万分の1地形図「山崎」を買って来た。それを地形図「鎌倉」と並べて見比べた。稲瀬川はあまりに小さすぎるけれど、川の形はよく似ている。では、離宮の位置は、江の電長谷駅のあたりになるのだろうか。
水無瀬離宮から東南東の方向へ2,5kmに石清水八幡宮がある。一方鎌倉の長谷観音の真東には由比若宮がある。1063年に源頼義が京都の岩清水八幡宮を勧請して創建したお宮だ。元八幡ともいい、鶴岡八幡宮は源頼朝によってここから移された。
水無瀬離宮の北を流れる水無瀬川の更に北に、東大寺という地名がある。奈良の東大寺の寺領であった場所だ。東大寺と言えば奈良の大仏だ。一方鎌倉にも大仏がある。稲瀬川の北だ。
鎌倉の大仏はなぜ長谷にあるのか、という問題に、妙本寺の西だから、と以前に答えたことがあった。藤原氏の屋敷跡である妙本寺から見ると、山越阿弥陀の図と同じに、山の上から顔をのぞかせた阿弥陀如来が夕日の逆光に輝いている。西方浄土の後光が輝く。それが最初の設計だったのだろうと。
参照:103.由比若宮(元八幡)
鎌倉の大仏がいつ作られたのか調べてみた。吾妻鏡によると1238年に僧淨光の勧進によって大仏堂の建立が始まっている。翌年に後鳥羽院が崩御。
後鳥羽上皇は1205年に最勝四天王院を作った。鎌倉幕府調伏、祈祷によって幕府を倒そうとしたのだ。
1221年承久の乱で、後鳥羽上皇はついに倒幕に兵を挙げる。順徳天皇は4歳の仲恭天皇に位を譲り、上皇になって参戦する。このとき鎌倉幕府の北条政子は有名な演説で幕府軍を奮い立たせ、上皇の軍を壊滅させた。
後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡島へ、流罪となった。
小倉百人一首はこの後、1235年に定家によって編集された。99番の歌が後鳥羽院、100番が順徳院だ。
定家の作った百人一首による水無瀬川離宮の地図、同じ地図を鎌倉の上にも展開させた人たちがいた。
ミナセ川があり八幡宮があり、大仏があり、宝積寺があって山崎がある。その事をもっと考えてみたい。
続きます。