鎌倉、まぼろしの風景。178 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

   


178.御霊神社と鎌倉
 (南西214度の縄文風景3)


 このページは 177.南西214度の縄文風景 2(大湯環状列石とカナイライン)の続きです。
「追記」を加えました。

 御霊神社(ごりょう/ごれい じんじゃ)とは坂東平氏の氏神様だ。早良親王(さわらのしんのう)を祭る怨霊信仰の神社だとか、平氏五家(大庭氏、梶原氏、長尾氏、村岡氏、鎌倉氏)の先祖を祀る五霊神社であるとか、言われる。
 鎌倉市の近辺にたくさんある歴史の深い神社だ。

 桓武天皇の子の葛原親王(かずらわらしんのう)、その孫の平高望(たいらのたかもち)は、関東に赴任して、都に帰らなかった。
 その子の平良文は陸奥守に任命されて相模国鎌倉郷に住む。
 平良文またの名を村岡五郎が、高座郡葛原の葛原宮から分祀した神社が、神奈川県藤沢市の村岡にある御霊神社だそうだ。
 葛原宮は藤沢市にある葛原皇子大神だ。葛原とはもちろん、ひい御祖父さんの葛原親王に因む。

藤沢市宮前にある村岡御霊神社は平良文の屋敷跡なのだそうだ。
 彼の子供や孫は鎌倉の大倉ガ谷に館を建てて朝廷に仕えた。この人達が鎌倉氏だそうだ。
 後に八幡太郎義家が鎌倉に鎮守府将軍として来た時に、この館を譲って由比の里に移ったのが鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。その地を甘縄と呼んだ。
鎌倉市坂の下にある御霊神社を権五郎神社というのは、彼の自宅近くであったからだろうか。

鎌倉にはもうひとつ御霊神社がある。梶原の御霊神社だ。

鎌倉市梶原の御霊神社

 梶原景時により1190年(建久1)に権五郎景政の霊を祀ったという。それ以前に梶原景成(平良文のひ孫・権五郎景政の父)によって祀られた御霊神社が葛原ガ岡にあったのだそうだ。
 葛原ガ岡という名も葛原親王に因む。 
参照:戦国時代の城 第六部 平氏の城(関東)平良文の館 

 相模国鎌倉郷の人達は、都から来た平さんをどんな気持ちで迎えたのだろう。当時は妻問婚だったから、娘婿として都の貴人を迎えるのが、服従の印であったかもしれない。
 生存権を得るために平の一族に組み込まれていったのだろうか。村岡五郎平良文がこの地を治めた、というのは、初めから住んでいた人達が、皆、都から来た平一族だと名乗り始めたということなのだろう。
 名前は失った、しかし彼らの文化は当然の様に引き継がれただろう。それは有史以前から鎌倉に伝わった生活様式だと想像する。
 平良文は村岡に来て御霊神社をつくる。なぜそこなのか、というと、そこにすでに神が祀られていたから、だろう。住民は良文を迎え、村の神様まで差し出したのだ。
 地元の神社を自分の先祖の葛原親王を祀る神社に塗り替える。それが支配、であったのだろう。元の神は摂社として片隅にきちんとお祀りする。八百万の神がいるお国柄だから、神様がいっぱい居ても喧嘩にはならないのだ。 
 とすると、御霊神社には東国の神の痕跡があるかもしれない。カガセオに繋がる星の神の痕跡だ。それを確かめてみる。

 村岡の御霊神社を国土地理院の1万分の1地形図で見る。神社は「大船」に載っていた。そこから「鎌倉」に掲載された柏尾川の北岸まで、長い参道が延びていた。今では単なる住宅地の市道でしかない、ようにみえる。でもそれは、神社本殿から鳥居までのラインの延長線である。

村岡の御霊神社の参道 神社を背にして撮影

 ここ村岡は北に山を背負い、南に柏尾川が流れる。川は西側でより大きい境川に合流する。
 それはあの理想郷カナイと同じ地形である。

 村岡の御霊神社から延びる参道の傾きを測った。南から西へ24度傾く。204度であった。
 214度のカナイラインは紀元前8000年にオリオンの三ツ星が水平に並んで降りる場所だ。204度ならば紀元前9000年だ。
 御霊神社の参道は縄文時代の遺跡なのだ、と思う。この道がこの長さのまま後世に残ってほしいと願う。

 道は誰のものでもない公共の空間だ。森にならず家も建たない空間がまっすぐ柏尾川まで延びる。その先に三ツ星が毎日降りてくる。それを観賞したのが道の先に有る「山の広場」だった。大事な場所だったから平良文に差し出されて、御霊神社になった、その神社と道を地域の人達は今も大切に守っている。それは1万1千年も続く文化遺産なのだと思う。

 村岡の御霊神社から分祀されたのが梶原の御霊神社だ。神社の参道はまっすぐ南に通っている。
 神社が南を向くのは御所の建築様式に倣っているからだ。都の文化である。それが来る以前のここには、204度の向きに道があったのではないか。紀元前9000年に星を見ていたラインをひいてみた。

 梶原の御霊神社から204度の線を引く。それは深沢小学校の校庭を横切り、県道を越えて大塚川を越え、その先の旧道を横切った。そこからわずか80mだけ、204度の線にぴったり重なる道路があった。これが太古の参道の名残であったら良いなあと、思った。

梶原の御霊神社の参道?

 この道はマンション建設で出来た新しい道だ、と住民の方は教えて下さった。そこで古い地図を調べた。
 鎌倉駅前に西武百貨店が描かれている頃の明細地図だ。梶原の御霊神社から204度の線を引いた先に、道路はあった。カーブしていて、今よりも短いけれど。

 そして面白いことに気づく。引いた線は山頂にあたる。笛田の大久保と書かれた山だ。鎌倉山の山塊の端っこ、岬の様になっている。
 ここを切り離そうとして、長い間工事をしたけれど断念した、そんな山の端っこだ。
 これは小袋谷の亀の子山に、似ている。
 亀の子山は円覚寺の山塊から切り離されて、古墳形に整形された山だった、分譲地ができる前は。地層が見えるから築山ではない。その山の頂上へ向けて、北側の常楽寺から線が引かれている。214度のカナイラインだ。
参照: 177.南西214度の縄文風景2(大湯環状列石とカナイライン)
 今回は1000年古い204度の線だ。でも、似すぎている。
 山頂に届く視線、南を流れる小さい川、西にある大きい川、北の山。
 御霊神社からの線を214度にしてみた。「疑似亀の子山」を西に外れて笛田二丁目の山にあたった。それよりも、この線のわずかに北に、笛田の亀の子山があった。今は無くなって山頂跡に慰霊碑があるだけだけど。
参照:67.台の天文台(星の都3)
 手に負えなくなって来たので、御霊神社に話を戻す。

 坂の下の御霊神社は権五郎神社とも呼ばれている。鎌倉権五郎平景政は1067年生まれだから、新しい御霊神社でもある。ここからも、星を見る視線を再現してみた。
 204度の線は山頂を縦断する。星の観測とは無関係な線になった。

 それでは甘縄神明神社から線をひいてみよう。あの伝説の染谷太郎太夫時忠の創建と語られる8世紀の神社だ。神域としては有史以前からあるのではないか。
 ここは坂の下の御霊神社の北東にある。
 204度のラインは坂の下の御霊神社の南を通り、今は無い霊仙山の麓を走った。湘南道路に沿っている。
 オリオンの三ツ星は横一列になって水平線に、稲村ケ崎の東端に、降りてくるのだ。まるで港にジェット機が着陸する様なその景観は、毎日見ても飽きないだろうなと思った。
 でも縄文時代は今より海水面が高かったというから、このラインは後世に再現されたレプリカか、あるいは存在しない線かもしれない。
 権五郎景政の屋敷跡、甘縄は他の御霊神社からみると、新しい基準でつくられた場所なのかもしれない。

 前々回の 176.おんめさまとカガセオで、朝廷の出張所ができる前は、鎌倉の中央にはカガセオが祀られていた、と想像してみた。その中央、おんめさまの位置から204度の線を引いてみる。
 鎌倉の中心軸である若宮大路に似た線が海岸まで延びた。
 若宮大路は遠く筑波山を目指すラインだ。
 その傾きは207度だ。3度の差。それは、源頼朝が鎌倉幕府をつくった時に、政子のために若宮大路を整備した時に生じたものなのだろう。
参照:53.坂東平氏の大三角形と星

 鎌倉には元々おんねさまから三ツ星を眺める204度の道があったのではないか、と想像した。縄文時代の鎌倉の道、である。


 鎌倉は星月夜の町だ。星を祀る町は藤原氏や平良文の一族によって侵略され、開発された。
 その町を頼朝が奪った。それは当時ではあたりまえの戦争の結果だった。
 それを吾妻鏡は「何も無い所から町を建設した」と書いた。廃墟になった町を立て直したのは事実だろう。
 さらに江戸時代に、徳川光圀が鎌倉以前の歴史を隠した。あるいは藤原と平の歴史を、住民が語らなかったのかもしれない。
 頼朝、足利、徳川の源氏の支配を高らかに謳うのが鎌倉観光の使命になった。それが今に伝わる「鎌倉」だ。だから鎌倉には謎が多い。何を表彰しているのかがぼんやりしている遺跡が多い。何を伝えたかったのか、その主旨を隠した伝承に満ちている、と思うのだ。

追記:
 柏書房から2005年に3刷が発行された「方位読み書き事典」を読んだ。その「鎌倉」という項の最初の2ー3行を引用する。
 八ー十世紀の鎌倉郡衙跡は、自然地形の山裾を整形したところに造られ、最初(八世紀前半)の政庁の建物長軸は北から23度東へ振れている。
 驚きだ。建物の長い線が北から23度東に、北北東を向いている。それはつまり、道がその方向に斜めにあったから、だと思いたい。
 北から23度東へ振れている線を南に延ばすと、南から23度西へ振れている線になる。
180+23=203 

 村岡の御霊神社の204度線に1度ずれる。残念、でもスゴイ。やはり「おんめさま大巧寺」は「おんねさま天津甕星宮」で、204度の参道が海まで通っていたんだ、と信じる。その道に倣って鎌倉の道はつくられていた。それは南にまっすぐ見通した先に、星を見る設計になっていたのではないか。
 それが紀元前9000年の三ツ星かどうかは別問題だけれど。
 次回は「おんねさま天津甕星宮」に何が置かれていたか、を妄想します。

      


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  ***亀子***(29-31 Aug. 2010-5 Mar.2012)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

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・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


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