昨年、文春新書から出版された「旗本夫人が見た江戸のたそがれ・井関隆子のエスプリ日記」深沢秋男著には、井関隆子(1785-1844)の小説「神代のいましめ」についても説明されている。1840年ごろに井筒隆というペンネームで書かれたこの小説は、鹿島神宮家の桜山文庫から発見されたのだそうだ。風刺に満ちた彼女の作品は、発禁本とまでは言わなくとも、何かとはばかられる稀覯本の一つであったらしい。
その「神代のいましめ」は、この本の著者のHP「深沢秋男研究室」で詳しく論じられている
参照:深沢秋男研究室。
主人公の某の少将は、和歌も良くする当代一の公人であって、何不自由無く暮らしている。ある日「隠れ蓑笠」を手に入れて、透明人間になった。それでこっそり知人のところに行くと、少将の悪口を言っている。すっかり気落ちしてしまった。「神代(かみよ)の頃から、蓑笠をつけて他人の家に上がりこむ事はやってはいけない事といましめられている。見えないからと言ってこっそり蓑(みの)を着て家へ上がるようなことをするからだ。」と、お話は締めくくられる、らしい。
昭和の頃は、訪問先の玄関の前でコートを脱ぐのが礼儀であった。雨の日もレインコートを脱いでから、ごめん下さいと言う。
それは蘇民将来の故事、蓑を着た武塔神が村人を殺戮したことから来るものらしい。
秋田県の「なまはげ」も、出刃包丁を持って蓑を着たまま上がりこんでくる。
それはさておき、主人公の某の少将とは、当時1840年の政界のトップ、老中の水野忠邦なのだそうだ。
隆子は自身の日記でも、彼を厳しく批判しているのだそうだ。
酒好きな彼女は、家の当主である義理の息子の親径と、その息子の親賢とで、よく酒宴を設けたのだそうだ。そこで老中水野忠邦のうわさ話も出たのだろう。隆子が55歳、忠邦は46歳である。江戸城勤めの息子の親径は48歳、同じく江戸城勤めで、隆子の飲み友達の親賢は31歳。後妻だった隆子は大切にされて、生活も豊かだったそうだ。
さて、「たそがれの少将」と呼ばれた人が実際にいたそうだ。松平定信である。
1787年に老中首座となった定信は、その後徳川家斉と対立し、1793年に辞職を命じられている。隆子が8歳の時のことだ。一世代前の人なのだ。
万葉集を読み和歌に優れた父を持つ定信も、小説の「某の少将」と同じく歌を詠んだ。
心あてに見し夕顔の花散りて
尋ねぞ迷ふたそがれの宿
まるで自分が光源氏になったかのようなこの歌で、彼はたそがれの少将と呼ばれる。
さて、その松平定信の娘を清昌院という。信濃高島藩主の諏訪忠恕(ただみち)の正室であるそうだ。彼女は諏訪山昌清院と関係があるのだろうか。
鎌倉市山崎にある山崎山昌清院は、かつては諏訪山昌清院といったそうだ。拝観できないお寺である。
近くの廃絶したお堂やお寺の御本尊がここに集まっていて、徳川幕府の庇護によって存続した円覚寺の塔頭なのだそうだ。
参照:45.山崎の里(3)
二代将軍徳川秀忠の三男、忠長(ただなが)は家臣や農民を斬ったとされて蟄居を命じられ、28歳で自害する。墓を作る事も許されなかったそうだ。1634年のことだ。忠長は東京都文京区に在る昌清寺で弔われている。鎌倉市扇ガ谷の薬王寺にも奥方の松孝院が建てた供養塔があるそうだ。
ところで、井関隆子の実家である庄田家の菩提寺が、この文京区の昌清寺なのだそうだ。隆子の時代より200年前のこの事件の事を、彼女も当然知っていたと思う。
井関隆子の小説「神代のいましめ」は、神話の時代からの戒めという意味だ、と思う。だけど「神代」と書いて「みよしろ」と読めば、それは鎌倉市山崎の天神山周辺の地名である。新編相模国風土記稿に載っている。
みよしろのある山崎に徳川幕府ゆかりの屋敷があって、近くに昌清院があり、小説の主人公が松平定信の別名、たそがれの少将を思わせる某の少将で、さらに題名が「みよしろの戒め」と読める、、、。小説「神代のいましめ」は内容を問う前に、それだけで憚られる図書であったのかもしれない、と思った。
追記:それにしても山崎山昌清院というお寺は、謎がいっぱいあるお寺だ、と思う。
追記2:鎌倉のキリシタンを追って、一つの推測に行き着きました。
94.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)
大久保長安事件から大久保忠隣改易に至る恐怖のため、成福寺の山門は謎になったと思います。
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