神奈川県平塚市にある真土神社に行った。平塚の広い平野の中に、ポコッとここだけ丘になっている。景色の良い境内だった。
神社から振り返ると、参道の正面に雄大な大山、雨降山があった。
左手には雪を頂いた富士山が見える。さらに左に、箱根の二子山が見えた。クレヨンしんちゃんのおしりみたいな、丸い2つの山なのだ。
葉山町と逗子市の境にある二子山を思い出した。鎌倉市の長谷観音から見ると、二子山は初日の出が昇る山なのだそうだ。
長谷観音(鎌倉市)から見る二子山(葉山町)。
長谷観音の展望台にあった説明板
箱根の二子山は西南西にあるから、太陽が沈む方向だ。冬至の日に太陽が二子山の真ん中に沈む、そんな風景が平塚から見れるのではないか。そう思って、地図に線を引いてみた。
まず国土地理院の1:25,000地形図を買って来る。「伊勢原」「平塚」「小田原北部」「小田原南部」「箱根」を重ねて、箱根の二子山から平塚までを俯瞰してみた。それから二子山の中央から240度の線を引いた。東西の線から30度西南西に傾く線だ。その線は箱根の二子山から寒川神社(さむかわじんじゃ)の参道まで続いた。
延喜式にも載っている相模一の宮の寒川神社は、冬至の日没を見る所だったのだ。太陽が二子山の中央に沈めば冬至。
風景が天体の運行の目盛りになっている。ストーンサークルの代わりになっているのだ。
参照:74.関谷の縄文とスバル(五芒星3)
相模一の宮が冬至の日没を見る場所だとしたら、二の宮は何だろう。
神奈川県二宮町にある相模二の宮、川匂神社(かわわじんじゃ)、その真東には吾妻山公園と吾妻神社がある。二宮町の旧名はこの神社に由来する吾妻村と言うのだそうだ。その吾妻山を飛び越えて、更に東。相模湾の彼方に藤沢市の江ノ島がある。川匂神社と江ノ島は同じ北緯35度18分00秒にあるのだった。遠い昔、吾妻山という神を川匂神社の場所で祀ったのかもしれない。吾妻山に登れば伊豆七島が見えて、真東が江ノ島だ。春分の日と秋分の日に太陽は江ノ島の上に上がる。(その向こうに三浦半島があるけれども)
相模二の宮は春分と秋分の日の出を見る場所だったのだろう。
参照:地図閲覧サービス ウォッちず
追記:江ノ島は、一夜にして海中から出現した、という伝承があった。
『欽明帝の十三年四月十二日より二十三日に至まで、大地振動して海上に忽孤島を湧出し天女降居して、ついに彼の悪龍を降伏せしと伝へり。』
参照: 95.悪龍と江の島
551年に江ノ島ができたのだから、その時に二の宮はできた?「大地振動し」たのだから、ものすごく恐ろしかったのだろう。それで江ノ島が見えない吾妻山の陰に相模二の宮はあるのかもしれない。
あるいは、二の宮は江ノ島よりはるかに古く、今の江ノ島の位置が、謎の湘南火山のあった場所、なのかもしれない。根拠はない。
参照:8.鎌倉の白い岩
相模三の宮、比々多神社(ひびたじんじゃ)は神奈川県伊勢原市三ノ宮にある。そこから北西に、子易明神比比多神社(こやすみょうじんひびたじんじゃ)があって、どちらが延喜式に載っている神社かという論証が新編相模国風土記稿に載っていた。
子易明神比比多神社の真南に、伊豆七島の利島がある。その宮塚山と子易比比多神社は同じ南北線、東経139度16分47秒にあるのだ。比々多神社の北に在る山頂に登れば、遥かな海上に利島の火山が見えたのかもしれない。その最新の噴火は4000ー8000年前なのだそうだ。だから比々多神社は4000ー8000年前から鎮座している、と思うのだ。
相模三の宮は利島に太陽が南中する所。あるいは火山観測所であったと思う。
参照:ウィキペディア
相模四の宮、前鳥神社(さきとりじんじゃ)は神奈川県平塚市四之宮にある。箱根の二子山を見た真土神社と同じ北緯にあり、その線を西に伸ばすと富士山の火口近く、南斜面にあたる。そのあたりが火口で噴煙を上げていた時代があったのかもしれない。前鳥神社から西を見ると真土神社の丘の上に富士山が重なって、そこに日が沈む、それが春分と秋分の日の夕べの風景だ。
相模四の宮は春分と秋分の日没を見る場所だったのだろう、と思った。
ところで、神奈川県の西と東に、2つの二子山がある、というのは。それは不思議な偶然だ。上二子山と下二子山が東西にある、、、。
だから神奈川県逗子市と葉山町の境にある二子山からも線を引いてみた。
119度の線、つまり東西線から29度東南東に傾く線を冬至の日の出のラインとして引いてみた。この線上に立つと、冬至の日の太陽は二子山の中心から昇るのだ。
葉山町から始まる長い線は、上の写真を撮った鎌倉市の長谷観音を通過して相模一宮、寒川神社に重なった。
はたして寒川神社から葉山の二子山が見えるのか、行った事が無いのでわからない。だけどなぜ寒川神社が一宮なのか、それがわかった気がした。
冬至の太陽の動きを東西に在る二子山で測る場所なのだ。そして寒川神社の真南は、伊豆大島の三原山の火口、御神火茶屋のあたりになる。寒川神社はすばらしい天体&火山観測所だったのだ。
縄文時代のストーンサークル、環状列石は、長い間に崩されて散り散りになったのだろうけれど、景観を目盛りとして風景で時間を計った、その場所は神社となって残ったのだと思う。
その仕組みを作った人達は、まるで自然の風景であるかの様に、その景観を作った。デザインしたのだろう。
二子山が東西にあって冬至の太陽の通り道に重なるなどという偶然は、かなり少ないと思うのだ。だから、つまり、どちらかの二子山は人造物だ。古墳が近くに在る葉山の二子山が、山脈を削られてできた人工の二子山なのだろう。と思った。
それはそれは壮大な、景観で代用したストーンサークルが、神奈川県にはあったのだ。と、思った。
古代人が2つに割った?二子山。