156.せいしく橋の伝説
せいしく橋とは、鎌倉市台五丁目と小袋谷二丁目の境を流れる小袋谷川にかかっている橋だ。県道302号小袋谷藤沢線が通っていて、橋は道路とつながって平坦になっている。今ではこの下に川が流れているとは気づかない有様になっているのだ。
せいしく橋の五叉路と旧大船支所跡地から湧き出す泉
県道は鎌倉山ノ内往還と言って、小袋谷交差点で鎌倉街道と合流する。小袋谷交差点は道路状況の渋滞ポイントとして知られている。
そこからせいしく橋を越えて柏尾川を渡り、玉縄を越えて藤沢市の遊行寺交差点まで県道302号は続く。
鎌倉時代にも交通の要衝で、関所が小袋谷近辺にあったそうだ。
参照:ウィキペディア「神奈川県道302号」
せいしく橋は街道の交差点だ。道標となる石仏が今も橋の側にある。「右とつか 左藤さわ 道」と書かれた文字を、光の加減が良ければ、今も読むことができる。
せいしく橋の石仏
せいしく橋から伸びる道を挙げて見る。
1)北鎌倉の円覚寺の手前から扇が谷の海蔵寺へ抜ける。鎌倉まで約3kmだ。鎌倉街道。
2)大船を通って横浜市戸塚へ抜ける道。
親鸞の鎌倉七太子の道だ。
3)台から山崎に出て深沢を通り腰越に向かう江ノ島道。
4)台峰から梶原に抜けて極楽寺の海に出る道。約4km。
5)玉縄から時宗総本山の藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺)に向かう道。
ここは五叉路なのだ。地図上の道路を塗ってみると五芒星の様だ。
鎌倉にはこんな五芒星の交差点が、まだいくつか残っている。たとえば
★塔の辻、笹目と由比ケ浜の三丁目の交差点
★大町の安養院と妙法寺の中間にある交差点
★今泉の七久保橋
★大船はなれ山の富士見地蔵の辻 など。
せいしく橋には源頼朝に関わる伝承がある。鎌倉に入る時にここで一旦立ち止まって隊列を整えた、というのだ。
隊列を整えた場所だから、せいしく橋。
橋にはもう一つ別の名前があって、小袋谷川の堰があったから水堰橋(すいせきばし)。こちらは源頼朝の名前を出したくない時に使われた名前だと思う。
生き延びる為に人々は知恵を使う。その「したたかさ」は、時代が過酷であったことの証拠だ。鎌倉幕府の源頼朝について研究することが「逆賊」であった時代を語る人は少ない。
せいしく橋の碑
「せいしく」という名前は勢蹙(せいしゅく)から来ている、と思う。「勢いをそぐ」という意味だ。
鎌倉へ入る為にここで隊列を整えた。たったそれだけの伝承だ。観光スポットではない。だけど21世紀まで伝えられたのだから、重要な何かがそこに潜んでいるのだと思う。そのことを考えてみた。
まず、頼朝が鎌倉入りをする、その日を限定しよう。
石橋山の戦いで敗れた頼朝は、千葉で兵を挙げて、富士川で凱旋して、鎌倉に入る。その時に、ここ、せいしく橋で隊列を整えたのだと、しよう。歴史的な日である。
1180年(治承4)十月六日のことだった。
吾妻鏡から、当日の様子を覗いてみた。
六日、乙酉。相模の国にご到着になった。畠山次郎重忠が先陣を努め、千葉介常胤が頼朝の御後ろに従っており、その他従った軍士は幾千万とも知れないほどであった。突然のこと故に、頼朝の御所は建てていなかったので、民家を御宿泊館に定めたという。
引用:現代語訳吾妻鏡1 頼朝の挙兵 吉川弘文館 2007
鎌倉に入った軍団が幾千万(騎)ではつかみ所が無い。4日前の十月二日の記述に大井川・隅田川を渡ったが、軍勢は三万余騎に及んだとある。騎馬の武人が3万人鎌倉に入ったのだ。
いや、全部が鎌倉入りしたのではないかもしれない。各部隊に分かれていて、合計で三万騎なのだろう。
それはいったいどのくらいの長さの列になるのだろう。
当時の馬は小さくて今のポニーにあたるのだと聞いたことがある。それでも並べば一騎で3mくらい空間が必要だろう。3列になって進んだとしても一万騎で10kmだ。5列でも6kmも続く隊列になる。
そんな大隊列が関東を一巡した。
富士川を北に向かって山梨県から東京都に入ったのなら、ここには横浜の戸塚を通って来たのだろう。せいしく橋から北西に伸びる直線道、上記の2)の道から来たとしよう。
今は無い離れ山から小袋谷川まで伸びる直線道には、ここに馬を並べて騎馬数を数えたのではないか、という説があるそうだ。
約700mの直線道に五列で馬を並べると1000騎を数えることができる。
それが午前11時前であったら、太陽に顔を向けて、前の騎馬の影に入るようにすると、一直線に並ぶことができる。道と同じ向きの直線になるのだ。
並んで数え終わったら、その千騎は解散して休憩。次の千騎がこの道路に並んで、次々と騎馬が数えられていっただろう。そして一万騎もの馬がこの道の上に並んだのだとしたら、しっかり踏み固められた立派な道ができただろう、と思う。事情を知らない人が後で通ったら、びっくりするくらいの整地された道が、離れ山からせいしく橋まであった、としたら。
それでこそ、せいしく橋という名前が生きてくると思うのだ。ここで隊列をそろえたのだよ、と、語られて来たのだろう。
せいしく橋で解散・休憩になった馬は、小袋谷川で足の腱を冷やすことができた。
川は柏尾川に合流するまで1kmもある。埃を浴びてきた男たちは顔を洗い髪を結い直すことができる。衣服を洗って干したら河原で昼寝をしたかもしれない。
小袋谷は今でも井戸から水が流れ続ける湧水地区だ。あちこちの旧家の庭の井戸から、今も涸れることなく水が流れ出ている。40年前は消火栓を開けっ放しにしたような豪快な井戸もあったのだ。小袋谷川の水量は豊かだったと思う。
その北には砂押川があり3km先にはイタチ川がある。
頼朝の名を伝える「出で立ち川(いでたちがわ)」は、頼朝の名を消した鼬川(いたちがわ)に、今では変わっている。勢蹙橋が水堰橋になったように。
せいしく橋で止められた数千数万の騎馬軍団は、このあたりのそれぞれの川で休息したのだろうと思う。
ここは鎌倉に意気揚々と入る前に、身だしなみを整えて後続部隊を待つのに、ぴったりな場所だ。そして鎌倉に入る前に、ここで隊列を整えた、ということは、鎌倉という場所が、幕府が開かれる以前に既に「町」であったということだ。お洒落してかっこ良く乗り込むのだから、寂れた寒村であったはずがないのだ。
さて、壮健な男たちが数kmに渡って数千人も集まっている。ちょうど昼頃。この当時に昼食をとる習慣があったかどうか知らないけれど、お腹が空くのは昔も今も変わらない。
畑を荒らされたり、家に上がり込んで食べ物を取られてはかなわない。村はパニックになるだろう。
だからそうなる前に、村人はニッコリ笑って炊き出しを始めるのだ。
関東を制覇した頼朝に、あの村は好意的だったと思わせるチャンスだと気づいたら、村をあげての接待になるだろう。後でご褒美も出るはずだ、と。
そんな大わらわな一日が、この橋から見渡す限りの場所で展開していたと思うと楽しい。
合衆国大統領のオバマさんが鎌倉の町に来た時の様に、この日のことはずっと語り種になっただろうと思う。
それで。
頼朝とその側近たちは、皆と同じ様に川におりて顔を洗っただろうか。
もちろん、そんなことはしない。彼らはせいしく橋の近くの屋敷で休息しただろうと思う。
頼朝の側近と畠山氏、千葉氏、その他一族を率いてきた長と従者を入れば、総計30人は下らないと思う。彼らが入った宿舎は「民家」であったはずがない。それ相当の広大な屋敷が、ここにあったのだ。
その屋敷を休息場所にと、あてにして、ここで頼朝軍は立ち止まったのだ、と思う。
想像してみよう。藤原氏の豪奢な屋敷がここにあって、頼朝の軍勢が来ると聞いて、主は早々に都に逃げ帰ってしまったのだ、と。
残された屋敷の什器は誰かに持ち去られて、塀は壊され庭は踏み荒らされている。放棄された館になったのだ。頼朝はすんなりと使うことが出来たのだ。
でも当時の人達は、それが誰の屋敷だったかは十分知っている。
このあたりの人達はこの屋敷に仕えることで生活していたのかもしれない。ならばいっそう頼朝を歓待する必要があっただろう。敵対しないとアピールもしただろう、と思う。生きる為に。
そして吾妻鏡には、武家たちより位の高い誰それの館を押収したとは書けない。だから粗末な家に泊まったように書いたのだろう。事実、略奪されて廃墟になった屋敷を使ったのだろうと思う。
翌日、鎌倉に入った頼朝は鶴岡八幡宮に参拝する。ここから鎌倉幕府が建設されていくのだ。「せいしく橋」はその前日の「隊列を整えた半日」の出来事を、今に伝えている、と思う。
そして。
勢蹙橋(せいしゅくばし)。勢いをそぐという意味の橋。漢籍に出てくる勢蹙という言葉を命名した人は、どんな人だったのだろう。
進軍してきた数万の軍勢をこの橋で止める。休息と身支度の橋。だけど。
わずかな期間で関東を制覇した昇り龍のような頼朝軍の「勢いをそぐ」とは。
そこに冷ややかな見識を感じることができる、と思う。凱旋橋でもなく入城橋でもない勢蹙橋。
それはおそらく、ここにあった屋敷を懐かしむ人の言葉だ。都から来た人達によって賑わっていた時代があったのだ、と思う。
「ここには都の文化を持って来た華やかな藤原氏の屋敷があった。鎌倉幕府の時代になって、誰がいたかを語ることができなくなった。でもその屋敷で、頼朝は休息したのだ。それに相応する立派な屋敷があったのだ。その屋敷を誇らしく守って来たのが私達だったのだ。」そのことを伝えたい、それが21世紀にまで伝わったせいしく橋の伝承なのだと思うのだ。
そういう始めの頃の思いが、せいしく橋の命名を伝承として残し、今ではすべて消え失せてしまったこの地に、不思議な光を与えている、そんな風に感じられるのだ。それは妄想が過ぎる、だろうか。
追記:
つい昨年まで、せいしく橋の向かいに旧大船町役場の建物があった。
今はない旧大船町役場
後に鎌倉市役所大船支所になって、その後は鎌倉市の埋蔵物保管場所になった。選挙の投票所に使われたこともある。
そこから真北に亀の子山がある。玄武である。東側は川だ。北西に川の流れていく先に玉縄城が見える。南には小さな平坦地がある。
真南へ線を引くと長谷の甘縄神社にあたる。藤原鎌足につながるという染谷太郎大夫が創建した神社だ。鎌倉時代は本姓藤原の安達泰盛が住んでいた。
せいしく橋の南側に広がる平地は平安時代の邸宅が建つのにふさわしい場所だと思う。ここから4km北の、柏尾川の上流には藤原実方の墓と言われる伝承地がある。平安時代の柏尾川流域は、ちょうど国際空港の周辺地のように、人の出入りの多い賑やかな場所だったのではないかと思うのだ。せいしく橋はその思い出を宿す言葉であると、思う。
参照:87.実方塚の謎(1)鎌倉郡小坂郷上倉田村