鎌倉、まぼろしの風景。156 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

   


156.せいしく橋の伝説

 せいしく橋とは、鎌倉市台五丁目と小袋谷二丁目の境を流れる小袋谷川にかかっている橋だ。県道302号小袋谷藤沢線が通っていて、橋は道路とつながって平坦になっている。今ではこの下に川が流れているとは気づかない有様になっているのだ。

せいしく橋の五叉路と旧大船支所跡地から湧き出す泉
 県道は鎌倉山ノ内往還と言って、小袋谷交差点で鎌倉街道と合流する。小袋谷交差点は道路状況の渋滞ポイントとして知られている。
 そこからせいしく橋を越えて柏尾川を渡り、玉縄を越えて藤沢市の遊行寺交差点まで県道302号は続く。
 鎌倉時代にも交通の要衝で、関所が小袋谷近辺にあったそうだ。
参照:ウィキペディア「神奈川県道302号」

 せいしく橋は街道の交差点だ。道標となる石仏が今も橋の側にある。「右とつか 左藤さわ 道」と書かれた文字を、光の加減が良ければ、今も読むことができる。

せいしく橋の石仏
せいしく橋から伸びる道を挙げて見る。

1)北鎌倉の円覚寺の手前から扇が谷の海蔵寺へ抜ける。鎌倉まで約3kmだ。鎌倉街道
2)大船を通って横浜市戸塚へ抜ける道。
 親鸞の鎌倉七太子の道だ。
3)台から山崎に出て深沢を通り腰越に向かう江ノ島道
4)台峰から梶原に抜けて極楽寺の海に出る道。約4km。
5)玉縄から時宗総本山の藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺)に向かう道。

 ここは五叉路なのだ。地図上の道路を塗ってみると五芒星の様だ。
 鎌倉にはこんな五芒星の交差点が、まだいくつか残っている。たとえば
★塔の辻、笹目と由比ケ浜の三丁目の交差点
★大町の安養院と妙法寺の中間にある交差点
★今泉の七久保橋
★大船はなれ山の富士見地蔵の辻 など。

 せいしく橋には源頼朝に関わる伝承がある。鎌倉に入る時にここで一旦立ち止まって隊列を整えた、というのだ。
 隊列を整えた場所だから、せいしく橋。
 橋にはもう一つ別の名前があって、小袋谷川の堰があったから水堰橋(すいせきばし)。こちらは源頼朝の名前を出したくない時に使われた名前だと思う。
 生き延びる為に人々は知恵を使う。その「したたかさ」は、時代が過酷であったことの証拠だ。鎌倉幕府の源頼朝について研究することが「逆賊」であった時代を語る人は少ない。

せいしく橋の碑

 「せいしく」という名前は勢蹙(せいしゅく)から来ている、と思う。「勢いをそぐ」という意味だ。
 鎌倉へ入る為にここで隊列を整えた。たったそれだけの伝承だ。観光スポットではない。だけど21世紀まで伝えられたのだから、重要な何かがそこに潜んでいるのだと思う。そのことを考えてみた。

 まず、頼朝が鎌倉入りをする、その日を限定しよう。
 石橋山の戦いで敗れた頼朝は、千葉で兵を挙げて、富士川で凱旋して、鎌倉に入る。その時に、ここ、せいしく橋で隊列を整えたのだと、しよう。歴史的な日である。
 1180年(治承4)十月六日のことだった。
 吾妻鏡から、当日の様子を覗いてみた。

六日、乙酉。相模の国にご到着になった。畠山次郎重忠が先陣を努め、千葉介常胤が頼朝の御後ろに従っており、その他従った軍士は幾千万とも知れないほどであった。突然のこと故に、頼朝の御所は建てていなかったので、民家を御宿泊館に定めたという。
引用:現代語訳吾妻鏡1 頼朝の挙兵 吉川弘文館 2007

 鎌倉に入った軍団が幾千万(騎)ではつかみ所が無い。4日前の十月二日の記述に大井川・隅田川を渡ったが、軍勢は三万余騎に及んだとある。騎馬の武人が3万人鎌倉に入ったのだ。
 いや、全部が鎌倉入りしたのではないかもしれない。各部隊に分かれていて、合計で三万騎なのだろう。
 それはいったいどのくらいの長さの列になるのだろう。

 当時の馬は小さくて今のポニーにあたるのだと聞いたことがある。それでも並べば一騎で3mくらい空間が必要だろう。3列になって進んだとしても一万騎で10kmだ。5列でも6kmも続く隊列になる。

 そんな大隊列が関東を一巡した。
 富士川を北に向かって山梨県から東京都に入ったのなら、ここには横浜の戸塚を通って来たのだろう。せいしく橋から北西に伸びる直線道、上記の2)の道から来たとしよう。

 今は無い離れ山から小袋谷川まで伸びる直線道には、ここに馬を並べて騎馬数を数えたのではないか、という説があるそうだ。
 約700mの直線道に五列で馬を並べると1000騎を数えることができる。
 それが午前11時前であったら、太陽に顔を向けて、前の騎馬の影に入るようにすると、一直線に並ぶことができる。道と同じ向きの直線になるのだ。
 並んで数え終わったら、その千騎は解散して休憩。次の千騎がこの道路に並んで、次々と騎馬が数えられていっただろう。そして一万騎もの馬がこの道の上に並んだのだとしたら、しっかり踏み固められた立派な道ができただろう、と思う。事情を知らない人が後で通ったら、びっくりするくらいの整地された道が、離れ山からせいしく橋まであった、としたら。
 それでこそ、せいしく橋という名前が生きてくると思うのだ。ここで隊列をそろえたのだよ、と、語られて来たのだろう。

 せいしく橋で解散・休憩になった馬は、小袋谷川で足の腱を冷やすことができた。
 川は柏尾川に合流するまで1kmもある。埃を浴びてきた男たちは顔を洗い髪を結い直すことができる。衣服を洗って干したら河原で昼寝をしたかもしれない。
 小袋谷は今でも井戸から水が流れ続ける湧水地区だ。あちこちの旧家の庭の井戸から、今も涸れることなく水が流れ出ている。40年前は消火栓を開けっ放しにしたような豪快な井戸もあったのだ。小袋谷川の水量は豊かだったと思う。
 その北には砂押川があり3km先にはイタチ川がある。
 頼朝の名を伝える「出で立ち川(いでたちがわ)」は、頼朝の名を消した鼬川(いたちがわ)に、今では変わっている。勢蹙橋が水堰橋になったように。
 せいしく橋で止められた数千数万の騎馬軍団は、このあたりのそれぞれの川で休息したのだろうと思う。

 ここは鎌倉に意気揚々と入る前に、身だしなみを整えて後続部隊を待つのに、ぴったりな場所だ。そして鎌倉に入る前に、ここで隊列を整えた、ということは、鎌倉という場所が、幕府が開かれる以前に既に「町」であったということだ。お洒落してかっこ良く乗り込むのだから、寂れた寒村であったはずがないのだ。

 さて、壮健な男たちが数kmに渡って数千人も集まっている。ちょうど昼頃。この当時に昼食をとる習慣があったかどうか知らないけれど、お腹が空くのは昔も今も変わらない。
 畑を荒らされたり、家に上がり込んで食べ物を取られてはかなわない。村はパニックになるだろう。
 だからそうなる前に、村人はニッコリ笑って炊き出しを始めるのだ。
 関東を制覇した頼朝に、あの村は好意的だったと思わせるチャンスだと気づいたら、村をあげての接待になるだろう。後でご褒美も出るはずだ、と。
 そんな大わらわな一日が、この橋から見渡す限りの場所で展開していたと思うと楽しい。
 合衆国大統領のオバマさんが鎌倉の町に来た時の様に、この日のことはずっと語り種になっただろうと思う。

 それで。
 頼朝とその側近たちは、皆と同じ様に川におりて顔を洗っただろうか。
 もちろん、そんなことはしない。彼らはせいしく橋の近くの屋敷で休息しただろうと思う。

 頼朝の側近と畠山氏、千葉氏、その他一族を率いてきた長と従者を入れば、総計30人は下らないと思う。彼らが入った宿舎は「民家」であったはずがない。それ相当の広大な屋敷が、ここにあったのだ。
 その屋敷を休息場所にと、あてにして、ここで頼朝軍は立ち止まったのだ、と思う。

 想像してみよう。藤原氏の豪奢な屋敷がここにあって、頼朝の軍勢が来ると聞いて、主は早々に都に逃げ帰ってしまったのだ、と。
 残された屋敷の什器は誰かに持ち去られて、塀は壊され庭は踏み荒らされている。放棄された館になったのだ。頼朝はすんなりと使うことが出来たのだ。

 でも当時の人達は、それが誰の屋敷だったかは十分知っている。
 このあたりの人達はこの屋敷に仕えることで生活していたのかもしれない。ならばいっそう頼朝を歓待する必要があっただろう。敵対しないとアピールもしただろう、と思う。生きる為に。
 そして吾妻鏡には、武家たちより位の高い誰それの館を押収したとは書けない。だから粗末な家に泊まったように書いたのだろう。事実、略奪されて廃墟になった屋敷を使ったのだろうと思う。

 翌日、鎌倉に入った頼朝は鶴岡八幡宮に参拝する。ここから鎌倉幕府が建設されていくのだ。「せいしく橋」はその前日の「隊列を整えた半日」の出来事を、今に伝えている、と思う。

 そして。
 勢蹙橋(せいしゅくばし)。勢いをそぐという意味の橋。漢籍に出てくる勢蹙という言葉を命名した人は、どんな人だったのだろう。
 進軍してきた数万の軍勢をこの橋で止める。休息と身支度の橋。だけど。
 わずかな期間で関東を制覇した昇り龍のような頼朝軍の「勢いをそぐ」とは。
 そこに冷ややかな見識を感じることができる、と思う。凱旋橋でもなく入城橋でもない勢蹙橋。
 それはおそらく、ここにあった屋敷を懐かしむ人の言葉だ。都から来た人達によって賑わっていた時代があったのだ、と思う。
 「ここには都の文化を持って来た華やかな藤原氏の屋敷があった。鎌倉幕府の時代になって、誰がいたかを語ることができなくなった。でもその屋敷で、頼朝は休息したのだ。それに相応する立派な屋敷があったのだ。その屋敷を誇らしく守って来たのが私達だったのだ。」そのことを伝えたい、それが21世紀にまで伝わったせいしく橋の伝承なのだと思うのだ。
 そういう始めの頃の思いが、せいしく橋の命名を伝承として残し、今ではすべて消え失せてしまったこの地に、不思議な光を与えている、そんな風に感じられるのだ。それは妄想が過ぎる、だろうか。

追記:
 つい昨年まで、せいしく橋の向かいに旧大船町役場の建物があった。

今はない旧大船町役場

 後に鎌倉市役所大船支所になって、その後は鎌倉市の埋蔵物保管場所になった。選挙の投票所に使われたこともある。
 そこから真北に亀の子山がある。玄武である。東側は川だ。北西に川の流れていく先に玉縄城が見える。南には小さな平坦地がある。
 真南へ線を引くと長谷の甘縄神社にあたる。藤原鎌足につながるという染谷太郎大夫が創建した神社だ。鎌倉時代は本姓藤原の安達泰盛が住んでいた。
 せいしく橋の南側に広がる平地は平安時代の邸宅が建つのにふさわしい場所だと思う。ここから4km北の、柏尾川の上流には藤原実方の墓と言われる伝承地がある。平安時代の柏尾川流域は、ちょうど国際空港の周辺地のように、人の出入りの多い賑やかな場所だったのではないかと思うのだ。せいしく橋はその思い出を宿す言葉であると、思う。
参照:87.実方塚の謎(1)鎌倉郡小坂郷上倉田村


 
 

      


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  ***亀子***( 4 Mar. 2011-3 Mar.2012)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

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・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

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天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


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