神奈川県藤沢市にある江ノ島の中津宮に、石川五右衛門と彫られた古木がある。
中津宮の東側の断崖に鎌倉を眺める望遠鏡があって、その側に在る大きな木の幹に石川五右衛門と彫られているのだ。不思議な木だ。
参照:129.黙阿弥の白波五人男
それとは別に、鎌倉市には石川五右衛門と書かれた墓がある。大きな弘法大師像があって、その側に墓石が2つあるのだ。弘法大師像とともに今も大切にされている場所である。
木と墓石に彫られた2つの字体はとても良く似ている、と思う。同じ人が同じ目的で彫ったように思えた。その目的とは。
1959年(昭和34)に日本初の屋外エスカレーターが江ノ島にできた。階段が続く江島神社の参道が、これですごく楽になった。参拝者は4分ほどで頂上まで登れる様になったのだ。
その時に島内の道も整備されたんだろうと推測する。五右衛門の木の前の参道も、広くて安全な展望所に変わったのだろう。
それ以前は崖に沿った細道だっただろうと推察する。木の前にある石碑も、通行の妨げにならない様に、脇に移動されたのかもしれない。
ここに小さなお堂があった、と夢想してみよう。お堂に向かって祈る、あるいはこの辯才天と彫られた石碑に向かって祈ると、それは遥かに鎌倉の聖地に向かって祈りを捧げる姿になるのだ。そういうデザインがここになされていたと思うのだ。
小動崎(こゆるぎさき)と稲村ケ崎が展望されるここの断崖が、なにか重要な意味を持っていたと、思う。それが何なのかは、まだわからない。
その場所が整備されて、石碑が移動された。そんな時に、石川五右衛門という字が彫られたのではないか。ここにあっただろう祠が撤去された時に、この大きな石碑も取り払われる予定だったのではないか。この場所の意味とこの石碑を守るために、石川五右衛門という文字がこの木に彫られたのではないか。そう思う。根拠はない。
鎌倉時代から、木に名前を書くとその木は個人の財産として守られる、という法があった。
たとえば。うるしの木を植えてその木から漆を取る職人がいたとする。たとえば地主が土地を返せと迫ったとしよう。自分の植えた木が切られたら、生活することができなくなる。そんな時に、職人はどうするか。
自分が植えた木の樹皮を少し剥がして、その白い幹に墨で自分の名前を書くのだそうだ。この木は自分の所有物だと知らしめる。するとどんなに偉い地主であっても、個人の財産を取り上げる事はできなくなる。その木を枯らしてはならないのだ。
鎌倉幕府の第3代執権、名君と言われた北条泰時(やすとき)が、貞永式目(1232年:御成敗式目とも言う)を作った。そこで私有財産権を「本領安堵」と言って認めたのだそうだ。
「多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。」とウィキペディアには書いてある。すばらしい。
北条泰時が作った法律は生き続けて、慣習法になった。コモン・ロー(common law)である。鎌倉の地から生まれた法律はその後も生き続けていて、現代にもその例がある。名前が書かれた木を切り倒さないように判決が出ているのだ。
そのように、鎌倉には名前の書かれた木があって、開発を押し止めようとしたのではないか。
それは鎌倉幕府以来の伝統なのだ、そう思う。
1959年(昭和34)江ノ島にエスカレーターができた頃、鎌倉市では何が起きていたのか、検索してみた。
1952年、S武鉄道が鎌倉南部で大量の土地取得をする。
参照:西武グループの歴史 鎌倉地区
1956年 湘南有料道路開通(鎌倉ー江ノ島間)
1959年(昭和34)大船観音が完成。
鎌倉市観光協会主催の薪能が初開催。
1963年(昭和38)N村梶原山分譲地の分譲開始。
鎌倉各地に分譲地ができ始め、旅行ブームが来て観光地が賑わう。開発が新しい時代を作る旗手であった高度成長期。そんな風潮の中で、五右衛門の木は生まれたのではないか。
五右衛門の墓碑は、鎌倉アルプスと呼ばれるハイキングコースの途中に在る。かつては修験の道でもあっただろうとおもう。大きな矢倉があって、その真上に山頂がある。そこに弘法大師の石像があって、道はその下を通っている。北側は大規模な分譲地だ。
その今泉の分譲地は1964年(昭和39)に販売されている。計画個数は700区画。巨大な開発だった。
参照:鎌倉市史〈近代通史編〉第7章「史都」と開発
その土地取得はいつ頃から始まったのだろう。この山頂と矢倉を守るために、苦心した人達がいたのではないか、と想像した。
そして手広の椿地蔵に弘法大師の巨大な石碑が建っているように、この石窟を守るために大師像があるのではないか、とも思った。
参照:147.椿地蔵と手まり歌
後に古都保存法と日本のナショナル・トラスト運動を起こすきっかけとなった御谷(おやつ)騒動は1963年(昭和38)のこと。
参照:ナショナルジオグラフィック日本の自然 第1回 鎌倉「御谷の森」
鎌倉文士や著名人を巻き込んで、環境保護の大きな流れを作った誇り高い鎌倉市民の運動の始まる前に。ここに石川五右衛門と彫って開発を止めようとした人が、いたのではないか、と思った。
石川五右衛門とは、豊臣秀吉の時代に盗賊という汚名を着せられて京都の鴨川で処刑された実在の人物だ。
1802年の「絵本太閤記」では秀吉を暗殺するために寝所に忍び込み捕われたと語られている。秀吉の枕元にあった千鳥の香炉が鳴いたので、秀吉が目を覚まして見つかり、捕まったのだそうだ。不思議だ。
チチチと鳴く浜千鳥は昔から日本人に愛されていて、お菓子の模様や俳句の冬の季語として有名だ。江戸時代にも千鳥は「チチヨ、チチヨ」と泣き、父を呼ぶ声だとされていた。
十字架に掛けられたキリストの最後の声が「父よ」である。「父よ、なぜ私を見捨て賜うたか。」なぜ私は死ななければならないのか。
秀吉を殺すために押し入った五右衛門はその最終段階でキリストの声を聞く。彼は殺人者にならずに殉教者となる事を、そこで選んだのだ。「お前こそ天下を盗った大泥棒だ」と秀吉に啖呵を切った五右衛門。秀吉のキリシタン弾圧を告発する、その圧政を伝えるために、彼は処刑されたのだ。と、思う。
徳川幕府の立場を良くするために、秀吉を悪役にする風評が必要だったと、しても。
石川五右衛門とは巨大な力に立ち向かった男の名前だ。江戸時代の庶民のヒーローだ。その五右衛門の名を記された木が江ノ島の断崖にある。あるいは鎌倉の山中の墓石にある。ここに五右衛門と彫った人がいた。語られていないその人を顕彰したい、と思うのだ。
追記:五右衛門を怯ませた不思議な千鳥の香炉は徳川美術館のHPで見ることが出来た。
参照:青磁香炉 銘 千鳥(せいじこうろ めい ちどり)
徳川美術館 主な収蔵品 室礼
この青磁の香炉には3つの足がついている。尾張徳川家に伝わった物だそうだ。