鎌倉、まぼろしの風景。92 
鎌倉、まぼろしの風景。

          
     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


人道之碑


:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


北鎌倉の悲劇          

昭和9年(1934年) 3月 9日 朝。北鎌倉の
別邸を出て東京に向かう予定だった武藤山治
は銃弾を受けて倒れた。彼をかばって正面か
ら撃たれた秘書の青木茂は、2発の銃弾を受け
て即死する。23歳だった。その銃で犯人は自殺。
今から74年前の、まわりは麦畑ばかりだったと
いう北鎌倉で、そんな凶行があったとは、あまり
語られていない。
参照:日曜 随筆 武藤山治に殉じた青年 青木 茂
武藤山治は2日後に亡くなった。重体であったが
彼をかばった青木茂のことを、家族に言い残して
の死だったそうだ。68歳。

その年の1月、彼は新聞「時事新報」で、帝人疑獄
を告発する大々的なキャンペーンを始めていた。
『番町会を暴く』というそれは3月13日で休止になる。
56回の連載だった。

参照: 兵は凶器なり』 (21) 15年戦争と新聞メディア -1926-1935-

武藤山治という人は、三井銀行神戸支店副支配人
から鐘淵紡績株式会社社長へ。衆議院議員3期当選
から時事新報社の相談役へ、國民會館創設者、と職
歴を経ている。
そのなかで日本初の共済組合をカネボウに設置して
福利厚生に尽力したり、治安維持法に反対したり。
疑獄事件を告発したり。國民會館の政治教育「武藤
記念講座」は昭和8年から現在まで戦争中も続いて、
現在900回を越えるのだそうだ。
参照:慶応キャンパス新聞 塾統ー慶應義塾の伝統N 武藤山治
参照:國民會館 武藤記念ホールへようこそ

上記の参照文献の『兵は凶器なり』 (21) 15年戦争と
新聞メディア -1926-1935-  の前坂俊之教授は彼を
「巨人」と呼んでいる。

横浜市戸塚区にある神社を訪ねたときに、この悲劇を
記した「人道の碑」に出会った。青木茂と武藤山治の
人柄を偲んで、その死を悼む石碑だった。
ここで北鎌倉の悲劇を思い出す事になるとは。不意打
ちの様な出会いだった。

「鎌倉、まぼろしの風景」を書き始めて、いろんな石碑
を読むようになった。そのなかで、深く心に残る石碑に
めぐり合う。初めは岡本の神明社の忠魂碑だった。
次が山崎天神の碑。そして長尾道路之碑。
それに今回の、汲沢に立つ人道之碑だ。
どれも現地に生活しているお年寄りが、語り残そうと
私費を投じて石に刻んだ歴史である。その碑に出会え
て、読む事が出来た事を私は深く感謝したい。

私の祖父は時事新報社の記者だった。イギリスのロイタ
ー通信社と契約していた日本一の新聞社だったそうだ。
地方都市の県庁前にあった新聞社に、若き日の祖父は
通っていた。新聞に載せる挿絵をいくつか描いていたと、
祖母が語っていたことを思い出した。武藤山治が亡くなっ
た時、父は6歳だった。その頃の家族の異様な雰囲気を
父は思い出して語ってくれた。社長が亡くなって、会社
がなくなって、子供たちを抱えた祖父母は窮地に陥ったの
だ。理想と現実の両方の危機に立ち向かっていた両親の姿
を、74年も経って父は思い出している。
祖父はその後地方の新聞社で働き、テレビ時代に新しい
会社を作り、北鎌倉に拠点を設けたのだ。若い日に武藤
山治の生き方を学んだ祖父の姿を、偶然出会った石碑か
ら思い浮かべる事となった。
北鎌倉の駅前に在る円覚寺の中の黄梅院の奥に、武藤山
治と青木茂を弔う武山堂があるのだそうだ。
大阪には國民會館武藤記念ホールがあり、神戸市の舞子
浜には旧武藤山治邸とお墓があるそうだ。
八王子には彼が再建した茶室の獨楽庵があるらしい。
北鎌倉には碑の一つもなく、それが私には悲しく映った
のだった。

追記:武藤山治の死後3年めに、帝人事件は結審する。
起訴された全員が無罪となった。武藤山治の告発は無駄
になった。検察ファッショといわれ、でっち上げの事件
だとされた。
武藤山治の殺害事件は、事件発生の当初から私怨である
と言われ、帝人事件とは無関係とされている。北鎌倉は今
も語らないが、人道之碑が残したものは私と家族の心を揺
らし続けている。

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  ***亀子***( 13 Jun 2008)
 
     

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