鎌倉、まぼろしの風景。74 
鎌倉、まぼろしの風景。

     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


東正院橋

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


関谷の縄文とスバル (五芒星3)          

 鎌倉市の城廻に在る玉縄城址は、かつては五角
形の美しい山城で、北条早雲が築城した難攻不落
の城だった。豊臣秀吉の天正18年(1590年)の小
田原攻めのとき、徳川家康が玉縄城を攻めた。
北条氏勝は降伏し開城する。
家康は重臣の本多正信を玉縄藩主とした。小田原
記や甲陽軍鑑では甘縄の城と記されている。

 城趾の近くの龍宝寺に玉縄民族資料館があって、
城の詳しい説明がある。そこに甘縄城とあるのは
間違いであると力説してあって、一帯は縄文時代
の遺物が多く出土する地であり、玉が出土したこ
とから玉縄と名付けられていると書いてあった。
鎌倉志にも甘縄明神の項で玉縄と混同した間
違いを指摘している。

そして、玉縄はたまのわ、なのだそうだ。

玉の輪と言えば、これは王権の印、御統(みす
まる)であろう。イザナギ、イザナミがかけてい
る首飾りだ。冬の星座の牡牛座にあるスバル
のことでもある。
参照:35.すばる遠望(小休)(4)

 スバルは東北東から昇って、ほぼ天頂を通る。
そして西北西に沈む。南天の星である。という
ことは、玉縄城は北から眺めたってことだ。北
から見て、玉縄城の上にスバルがかかるので
ある。玉縄の北は関谷。関谷という名は関屋
から来ていて、城に入るための関があった所
だそうだ。つまり城の玄関口だ。その北には
国道1号線、東海道があるからだ。
「玉の環城」すなわちスバル城の山頂に、
スバル星のかかるのを北に位置する関谷から
眺めた人たちがいたのだ。そういう命名である。

それで、関谷には何があったのだろう。
関谷とは、江ノ島、長谷、鶴岡(昔の松岡)
から来る陸の道、河の道が交差するところ
であり、富士山頂と同じ北緯を持つ地である。
関谷には何があったのだろうか。
 参照:68.鎌倉の摩多羅神

 関谷には東正院遺跡と呼ばれる縄文前期
の遺跡がある。県道由比ケ浜関谷線の建設
が計画されたとき、神奈川県遺跡地図に記
載されているとうせん台遺跡に道路がかか
ることがわかった。それで昭和46年に、発掘
調査がなされ、東正院遺跡調査書にまとめら
れた。東正院という地名が今も残っていて、
県道に架かる橋も東正院橋という。この橋か
らの眺めは鎌倉市の景観資源になっている。

 東正院という地名は、鎌倉覧勝考にも新編
相模国風土記稿にも出てこない名だ。小雀
浄水場の鎌倉市である南半分から県道に至
るあたりであるらしく、鎌倉市のHPにも、市の
北端は関谷東正院と書かれている。関谷は
私にとって4年間ほど勤めた懐かしい場所だ。
さっそく行ってみた。
参照:鎌倉シニア通信 鎌倉の散歩道(第15回)

 関谷は標高60mの台地である。見渡す限り
の農地に、轟々と風が吹いていた。千葉県佐
倉市の台地にそっくりだ。あるいは青梅市の
深い渓谷の上の台地にも似ていた。南に広く
さえぎるものの無い景観は、ここにも縄文の
環状列石があっただろうなあと想像される。
ここは市の境を流れる滝ノ川の河岸段丘なの
だろうけれど、それを2000年かけて、縄文の
大地に加工した人たちがいたのではないか、
とも思ったりもした。東正院橋の中央に立つと
正面にS泉女学院が見えた。玉縄城址である。
その左に、葉山の二子山207mがみえる。
地図上で確認すると、その二子山の谷間の
真下に、鶴岡八幡宮があるのだった。そして
橋から玉縄城址へと引いた線は、鶴岡八幡宮
の一の鳥居の上を通って光明寺へ向かう。
つまり、二子山から玉縄城までが鎌倉市街だ。

 この橋は県道ができて農地が分断された
ために、耕耘機を運ぶために、できたのだと
思う。でも、このライン上に立つことを目的にし
て作られた。とも、思った。1333年に鎌倉幕府
が滅亡したとき、この地から燃え上がる鎌倉が
見えただろうとも思った。
 この橋は北緯35度21分34秒にある。富士
山頂と同じだ。富士山が真西なのだ。そして
古道の線をなぞる県道はなぜか御嶽ライン
の傾斜と同じだ。
参照:31.御嶽神社の謎

 縄文の関谷に戻ろう。4000年前の星空を、
私は計算することができない。星座早見表で
は、2000年から30年たつと星は40分ずれて
いる。角度でいうと10度も違うのだ。だからあき
らめて今の星空で語ってみる。

 まだ暑い秋分の日の夜9時すぎに、冬の星座
のスバルが東北東から昇ってくる。いよいよ冬
がやってくるのだ。
 冬至の日になると、日没後すぐに東北東の同じ
位置からスバルは昇ってくる。一晩中空にあって
日の出前に、いつもと同じ西北西に沈む。
 立春の日に、天文薄明が終わり空がすっかり暗く
なった夜の7時頃、スバルはすでに真南、天頂に
上がっている。春はもう近いのだ。
 春分の日。日没時にスバルは西に傾いていて、
スバルの見えない夏がやってくることを告げる。

江戸末期もたぶんこんな星空だっただろう。
関谷の台地に星は降る様に満ちて見えただろう。
そしてここで、解ったのだ。なぜ真西に富士山の在
る北緯35度21分34秒に、秦野や松田や東正院橋
があるのかが。それは聖地ではない。もっと大事な
ことがある。
富士山が真西にあれば、環状列石はいらない。
巨石のカレンダーを作る労力がいらない。建設事故
で若者を失うリスクも無い。村にとって大きな利があ
るのだ。すばらしい科学技術でも、それを作るために
失うものが大きければ、人々は支持しない。そんなも
のより鹿の骨ででも占ってもらう方がずっと文化的だ。
だから環状列石は、捨てられたのだ。そして多分、こ
の頃に、環状列石で北緯を知ることが不要になった。
つまり人々は定住することに決めたのだ。あるいは、
移動を禁止されたのかもしれない。
 そのかわりに方位を示す玉の輪山や富士山の配置
が重要になったのだ。と、思う。
 そして日々使われる有用な「直線道」が、後に方位
の指標となったのかもしれないと、縄文の遺跡を深
く抱えて広がる関谷の台地に立って、思ったのだった。
参照:67.台の天文台(星の都3)

追記--------------------------------------------------
 日没のあと空が暗くなって星が見え始めた頃に、玉縄
城のある山の真上にスバルがあがっている。そんな日
は、ここ数百年間は2月の上旬にあたる。でも昔々、星
の見え始めの時間に、スバル城の上にスバルが上がっ
ている日は、特別な日だったのではないか。春分とか
立春とかの、農業に関わる一年の節目になる日だった
と思う。4000年前のその日がいつだったか、とても知
りたいと思う。

 玉縄城の上にスバル星が沈んでいくのが見える場所
は、地図上で見ると次の地点である。
 ただし、高層建築が無かった時代は、であるけれど。
  玉縄行政センター。T洋化学大船工場。大船体育館。
亀甲山成福寺。小八幡社前公民館。円覚寺。

 玉縄城の上からスバル星が昇っていくのが見えた場所
は、次の地点。これも、今ではまぼろしの風景だ。
植木の久成寺。N本通運。御幣下公園。赤坂児童遊園。
大道東公園。JR藤沢駅北口。本鵠沼2丁目原地蔵堂。
引地川の太平橋。辻堂小学校。辻堂海浜公園。
久成寺の上から昇る、かもしれないけど。

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  ***亀子***
( 8 Feb.2008-29May2012)
 
     

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