鎌倉、まぼろしの風景。85 
鎌倉、まぼろしの風景。

          
     イメージの翼に乗って中世+近世鎌倉を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


旧離山(腰山)の山蒼稲荷


:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)


万葉集と七夕(天平の大船幻想4)          

 鎌倉には、山の端を削って崖にしてある所がた
くさんある。笹目にも、佐助にも、浄明寺にもある。
それはどれも意図的に加工されていて、視界を
確保するためのものだ。山の端を削って、見通せ
る様にしてある。いつの時代の加工かはわからな
いが。
 小袋谷の小坂小学校の山の端も、そういう加工
が為されている。そして今ここでは、柏尾川と天
神山に注目してみる。
 国土地理院の1万分の1地形図「大船」を広げる。
地図の南に、天神山がある。この天神山を真北か
ら眺めてみる。すると、東と西に山のはじが迫り出
して天神山の両裾を隠してしまう。そこで玉縄1丁
目の山すそと玉縄3丁目の山の端を削っている。
その崖が、地図に記されている。東西の崖から、
天神山の山すそまで、直線を2本引いてみる。
すると西に在る岡本神社の山と、東に在る大船観
音の山に遮られずに、天神山がまるまる見えるのは
この2本の線の内側だ。この2本線はだんだん狭まっ
て、ある1点に収束する。それは平戸山に連なる、長
尾台塁跡の一部、山の頂上である。長尾城趾だ。

 天平の頃、貴人に仕える人たちが、高い誇りを持
って造営した屋敷が、このあたりにあったらいいな
と思う。その場所は、真南に天神山がピラミッド型
の裾まで見える場所ではないかと思う。地図の上
の2本の線が交わるあたり、谷戸ノ池公園のあた
りには、どんな遺物が埋もれていたのだろう。もし
かして、江戸時代に谷戸ノ池を作ったのは、この
地を「掘ってみる」試みだったのかもしれない、とも
思う。天平の屋根瓦が出てこなかっただろうか。黄
金の観音像が出なかっただろうか。妄想の上に、
妄想を重ねて矢戸ノ池を眺めてみる。
なぜって、天神山が天壇である事は間違いないと
思うからだ。

地図上の天神山から引かれた視界を表す2本の線
の内側に、どうかこれ以上高層建築が建ちません様
にと、私は願っている。それは天平の鎌倉なのだろう。
「武家の鎌倉」から外された地域で、世界遺産にも
無関係だ。
どうか、大船、栄、戸塚に広がる深い謎の地形を、読
み解くことができるまで、その視界を遮らないでほしい。
そう、切に望んでしまう。

長尾台を過ぎると、柏尾川は南北に流れる川になる。
栄のいたち川は、東西に流れる川である。どちらも今回
の話題には入らない川の向きだ。
 深い謎を秘めた横浜市栄区長倉町の、昇竜橋近辺の
いたち川と、子の神社のある鎌倉市岩瀬の砂押川は、
両方とも北西から南東に傾いでいる。銚子市の利根川
と同じ、冬至の天の川に重なる姿だ。
冬に天壇を祀るのは、中国皇帝一人だけであろうものを。

『我らが王とするのは、「あのかた」である。』
そういう声が川筋と両岸のデザインから聞こえてこない
だろうか。「あのかた」とは、長屋王であったり、あるいは
平将門、将武であったりするだろうか。足利の兄弟将軍
だったのだろうか。はるかな昔のまぼろしかもしれない。
21世紀の夢想である。
参照:59.岩瀬、伝説が生まれた所

長屋王の大船に戻ろう。
長屋王は冤罪によって葬られた。それは沢山の関係者が
次々と亡くなったから、御霊を慰める為に冤罪と宣言した
わけではない。天壇の位置に天神山があり、地壇の位置に
屋敷があったからといって、それは皇帝が即位のときに行う
郊祀ではなかったのだ。
なぜなら、その中央を流れる川が、「夏の」夕べの天の川と
同じ向きである限り、王の即位式を祝う冬至の祭りを模倣し
たものではないからだ。
それは夏のたなばたである。星祭りなのだ。
織り姫星と牽牛が年に一度天の川を渡る。祝祭の日である。
だから、この時代から、七夕を皆で堂々と祭る様になったと
思うのだ。長屋王は七夕を祝っただけなのだ、と。
それはもちろん藤原四兄弟も、あるいは知っていた事だった
だろう。長屋王の乱は、冤罪なのだ。

 讒言をした中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあ
ずまびと)を10年後に殺したのは、大伴宿禰子虫(おおとも
のすくね こむし)である。長屋王に仕えていた人で、その時
は宮中の兵器庫を守る武人だった。
大伴氏は藤原氏の反対勢力なのだろう。大伴氏で有名なの
は、万葉集を編纂した大伴家持さんだ。

万葉集の巻1と巻2は勅撰集と言われている。長屋王の文芸
サロンで出来た物だという説があるらしい。それに橘諸兄が
編纂した物を大伴家持が継いだという説もあるらしい。私は
まったく詳しくないのだけれど、大伴家持歌集が合体してい
いる、というのは知っている。巻14には東国の民謡歌集が加
わって、それら全部で万葉集である。

家持は天平宝字7年(763)に恵美押勝暗殺計画に連座して
薩摩へ左遷になる。天応2年(782)には氷上川継の謀反に
連座。その度に復活して、中納言で早良親王の春宮大夫で、
持節征東将軍として陸奥で亡くなった。桓武天皇の頃だ
参照:大伴家持の世界
 ところが、死の20日後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件の、
主謀者として家族とともに流罪になる。このときの家宅捜索
から万葉集が押収されて、 806年の名誉回復、従三位に
復位してから万葉集は世に出たのだそうだ。
だから万葉集はものすごく政治的な背景を持つ。文学的に
優れた歌を集めた事以上に、「この流れでこの人の歌が出
てくる」というような、編集の意味も研究されているらしい。
この頃の大伴氏とは軍人の家系らしい。情報部でもあったの
だろう。昔は手紙も書類も人の手で運ばれるから、開封され
るのがあたりまえ。だとすると、「歌」と、それを読み解く
教養が必要になる。平凡なつまらない歌でも、状況を知って
いる恋人には、顔を赤らめるポルノにもなる。そういう技術が
本当に必要だったのだ。風雅などという生易しいものではなか
ったと思う。

万葉集の巻8。長屋王の歌の後に、山上臣憶良の七夕の歌が
ある。七夕の歌はここが初出だ。それも12首も並んでいる。
長屋王のサロンで、星まつりをするのが流行っていたんだと
必死でアピールしている様に見える。天壇は夏の星祭りの為
なのだと。それは謀反ではない。という証拠固めだ。
この部分は万葉集を読む人たちが皆気にする不思議な部分
でもある。
右は、養老8年7月7日、令に応ふ。
と書いてあるのだ。養老8年は2月に神亀へ改元されたので
養老8年7月7日は存在しないのだ。
さらに
右は、天平元年7月7日の夜、憶良、天河を仰ぎ観て作れり。
これも、8月になって天平に改元されたのだから、元年の7月
は存在しないのだ。
「わが遠妻の言ぞ通はぬ」とか「隔てればかもあまた術無き」
とか、ここの歌は絶望的な調子を持つ。
そして何より重要なのは、だれもこの部分を直さずに、今まで
伝えられて来た事。なのだ。
まるで、ここで読み止まって考えることにこそ、万葉集を読む
意味があるとでもいうように。

巻10には更にたくさんの七夕の歌がある。98首もあるのだ。
さて、万葉集にお正月の歌はいくつあるのだろう。冬至の歌は?
夏の過ぎ越の歌は?菊の節句、あるいは春の花見は?
なぜ七夕だけがこんなにまとまってあるのだろう。
この部分の万葉集は、長屋王の冤罪を晴らす為に編集されて
いるように見えてしまう。冬至に星を祭って皇帝になろうとした
わけではないよ、と。柏尾川は夏の天の川だよと、言っている
気がするのだ。その様に大伴家持が編集した歌集なのだと
思ってしまう。
参照:第二章   旅人と憶良 
巻五の世界__何よりも政治家であった詩人たち

追記:
大伴宿禰家持は、父の大伴旅人が大宰帥として筑紫へ行く
のに同行し、2年後の天平2年(730)に、父とともに筑紫から
平城京の佐保に戻って来たのだそうだ。13才頃だそうだ。
参照:大伴家持の世界
長屋王が亡くなってから、戻って来たことになる。佐保とは
家持のおじいさん大伴宿禰安麻呂が、天武天皇に重んぜ
られて、藤原不比等に次ぐ地位に上り、平城京に遷都した
ときに賜わった住宅地だそうだ。都の北東のその家が、
家持の自宅になるのだそうだ。
ところで、佐保という所は高級邸宅地で、大伴氏のほかに
長屋王の別宅も、藤原房前(北家)の佐保殿もあったのだ
そうだ。
長屋王が文芸サロンを開いたのは佐保楼だと言われていて
これは本宅にあったらしい。あの有名な「奈良そごう」跡地だ。
でも大伴家のご近所でも、きっと仲良しだったと思うのだ。

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  ***亀子***( 27 Apr.2008)
 
     

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