神奈川県横浜市戸塚区には小雀公園という自然散策ができるすばらしい公園がある。そのグラウンドに付随する駐車場の近くに、長尾道路之碑が建っている。傍らには桜の古木があって、ゆるゆると登った坂上で、美しい佇まいの風景を作っている。
長尾道路之碑は昭和30年ごろに建てられた碑だ。92.北鎌倉の悲劇の、人道の碑のように、石に刻んで残そうと思う、そういう想いを持った土地の古老が、ここに建立した碑である。
碑文は私には難しくて、読み取りにくい文字もあり、すべて読めたわけではない。誤読もあるかもしれない。でも、初めてこの碑を読んだ時に感じ取った、その感動は今も変わらない。碑文の抜粋を要約してみる。
昭和20年8月に農地改革があったが、円満に改革は進んだ。食糧を増産するために農道を完備する必要があった。、、、本道は東鎌倉を通る県道につながり、総延長2千余mで、昭和23年秋起工、5年を経て29年春に靖功した。その間幾多の困難に遭遇した地元一同の協力と横浜市の絶大なる援助とにより、ついに完成をしたのだ。この地は往時、長尾村に属していたので旧地名を記念するため長尾道と命名した。
読んで心が洗われる様なのは、皆の協力で無事道路ができた事を感謝する、温かい言葉に満ちているからだ。読んだ人が優しい気持ちになる様な、感謝の言葉が書かれているからだ。石に彫る言葉はこの様に品位の在る言葉であるべきだと、思ったのだろう。それは碑を建てた古老の人柄を表していると思った。
トンネルができたとか、橋ができたとか、そういうことを顕彰した碑はけっこうある。それらは市長さんや社長さんや議員さんが名を記されていて、自画自賛といった感じがちょっとあって。でもこの碑にはそんな風情がない。むしろここにあるのは、大きな大きな悲しみである。その様に感じられる。それが何なのか。この場でこの碑を読むと、わかるのだ。
それでも私たちは長尾道路之碑を、今まで語らなかった。古老の心を汲み取る事が本当にできているのか、自信がなかったからだ。それは今も同じだけれど、2年経って。玉縄城や第六天社を守って来た人達がいた事を知って、そのたびに、長尾道路之碑の感動が新たになったのだ。言葉足らずと知識足らずには許しを請う事にして、長尾道路之碑の碑文の感想文を、書く事にする。
戦後の農地改革の事から書き出している碑文だけれど、言いたい事は最後の2行だ。長尾という旧名を惜しんで道路の名にした、という事だ。長尾台町という地名が栄区の柏尾川の岸辺にあるけれど、そこからここは1,5kmほど離れている。ここは小雀で鎌倉市関谷に接している。長尾と言う地名は無い。
坂東平氏の長尾氏については横浜市栄区長尾台町の御霊神社境内にその説明文がある。
相模国鎌倉郡長尾庄に住んだ、鎌倉景明の息子(大庭景宗の弟)の景弘が長尾次郎と呼ばれた事から始まったのだそうだ。長尾景虎(上杉謙信)が一番の有名人だ。
その長尾の名を道路につけた。その碑をここに建てた。その事を考えよう。
碑は南を向いて建っている。そこは小雀浄水場だ。横浜市水道局の施設だ。小高い岡の頂上に向かって碑は建っている。それを見れば、この岡こそが長尾氏の山城であったのだろうと想像できる。
長尾氏の本拠地はここであったのではないか。
横浜市の水道のために浄水場建設が決まり、そのための道が施設されたのではないか。浄水場と道路のために長尾の農地が消えたのだろう。「(旧)戸塚区は相模国の鎌倉郡なのに、武蔵国の横浜市に編入されてその植民地になった」という感慨は、この時に生まれたのではないか。その浄水場は小雀と呼ばれて、長尾浄水場とは呼ばれなかった。だからこそ、せめて道路にその名をつけたのだ。それは、立ち入ることができなくなった古郷の破壊された山に対するレクイエムだ。そう思った。
土地が奪われる、あるいは代わりの地に移動させられる、そういうことが戦後の農地改革の時期に日本中で起こった。
もちろん土地を得た人達もいただろう。そんな農地改革のときの変化は日本中の農家が知っている。そんな苦労がまたもここで起こった。のだろう。
碑文の書き出しは農地改革が円満に行なわれたと語る所から始まる。食料増産は農家の夢だ。戦争中の食糧難を誰しもが経験したのだ。そのための農道設置だと碑文は語る。そんな時に浄水場ができる。施設の3分の一は鎌倉市関谷にかかっている。関谷は今も鎌倉野菜を育てる大農地だ。
だけれども。
ここから上水が生まれ、市民の生活を支える。それは名誉な事だろう。だけれども、だけれども。
古老の言葉には恨みの影も無い。無事に道路ができたと語る。
子供の頃に駆け回った山、登った木々、その風景はすでに無い。誇り高い長尾の伝承も消えていくだろうと思う。それは栄区の長尾台町が引き受けている。そんな想いをすべて碑文の行間に彫ったのだ。その文字がここにある、と、私たちは読んだのだ。二人とも同じ妄想に襲われたのだろうか。
事実は碑文に書かれた文字だけだ。この碑文がここから移動させられて、大事に博物館に入ったとしよう。その瞬間にこの碑文は死に絶えるだろう。そう思う。
前向きな美しい言葉に飾られた上品な碑文が、丘の上を見つめて建っている。
「長尾とは、ここなのだ。(小雀ではない)」そういう声を長尾道路之碑は語り続けている。そう思う。
後記:上杉氏の家紋は上杉笹である。3組の笹の葉に2羽のスズメが向かい合っている。1羽なら大スズメだけれど、2羽ならば小雀だ。
小雀町にあるK文国際学園の敷地が、かつての玉縄城の様に5角形に見えてくるのも、気のせいだろうか。