夜空に流れる天の川と、夏の大三角形をつくる恒星、ベガ、アルタイル、デネブについて。天の星図と地上のデザインが一致する例を、神奈川県平塚市の神社や古墳、相模川で確かめてみた。
参照:167.地上の銀河と星の王1(平塚市)
3つの星を3つの神社にあてはめようとするなら、東国三社と言われる鹿島神宮、香取神宮、息栖神社でも試してみたい。ここには霞ヶ浦という大きな天の川もあるからだ。
1)茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿嶋神宮は常陸一宮である。創祀は紀元前660年。「常陸国風土記」には天之大神社と書かれているそうだ。祭神は武甕槌(たけみかづち)大神。
2) 霞ヶ浦を挟んで千葉県佐原市に香取神宮がある。下総一宮。創祀は紀元前643年。祭神は経津主(ふつぬし)大神。
3)その香取神宮の真東に息栖神社。茨城県神栖市に鎮座する。応神天皇の頃(270-310)に日川に創祀されて、大同二年(806)に藤原円麿によって現在地に移されたという。祭神は岐神、天鳥船神、住吉三神。
この三社を結ぶと、ほぼ直角二等辺三角形になる。三社は昔からセットで祀られたのだろう、そういう設計なのだろうと、思う。
まず鹿島神宮をカガシマと読んでみよう。甕星香々背男(みかぼしのかがせお)あるいは天香香背男(あまのかかせお)という神の名にあるカガという音は、輝くという意味を含んでいる。天之大神社であるならば宇宙の王者だ。かつての地軸の位置、天の王座に居た星で、今はその地位を追われた星。それはこと座のベガである。織姫星だ。
参照:167.地上の銀河と星の王1(平塚市)
次に香取神宮をカガトリと読んでみよう。輝く鳥である。霞ヶ浦を天の川とすると、川をはさんで鹿島神宮に向かい合う輝く鳥はわし座のアルタイルであろう。牽牛星だ。
そして息栖神社。沖洲(おきす)という名前から息栖(いきす:おきす)と呼ばれるのだそうだ。川の中央にある砂州を思わせる。
今ある場所よりも南東にある日川(にっかわ)に、300年ごろに創祀されたという。だけどそれは住吉三神などと新設された息栖神社であって、もともと日川にあった神社は天鳥船(あめのとりふね)を祭神とする古い神社であっただろうと思う。
天の鳥船とは空を渡る鳥形の船だ。船は川を渡る。空の川は天の川だ。天の川を渡る船、それは白鳥座のデネブである。またの名を「カササギの渡せる橋」。なるほど橋は近代的な技術の賜物で、昔は渡し船が橋の代わりにあったのだ。カササギの渡せる橋は、古くは天の鳥船と呼ばれていたのだろう。
参照:165.夜空にかかる十字架(明月院の谷)
さて、霞ヶ浦を天の川として、ベガ、アルタイル、デネブが鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社(日川)の各神社に重なる、としてみよう。それはいったいどこから見た空と地形だったのだろう。星図と地図が一致したならば、そこが、3つの神社を設置した設計者が居た場所だ。そしてそれはいつだったのか。
西に向いた私の頭上、すぐ右に
天の鳥船、デネブが浮かんでいる。
正面の遥か向こうの西北西に
アルタイルが見える。
私の右手、北北西にベガが輝く。
私の立つ所はどこ?それはいつ?<答え> 日川の南。
紀元前8000年6月22日20時37分03秒。
PSPプレイステーションポータブルのプラネタリウムソフト「ホームスターポータブル(セガ)」を使って茨城県水戸市の空で再現。
鹿島神宮が建てられたと言う紀元前660年では、天の川は北東から南西へ流れていて、霞ヶ浦の流れには重ならなかった。ベガとアルタイルの位置も重ならなかった。
鹿嶋、香取、息栖の三社は紀元前8000年の星図に重なる。空の星の位置を地上に移した様に設計されているのだ。この三社は縄文時代の記憶を今に伝える遺跡なのだ、と思った。
その頃、祀られていたのはベガ。かつての宇宙の王。天香香背男に連なる星の王である、と思う。
追記1:
息栖神社がかつてあった所は日川のどこなのか、見つけることができなかった。
日川の南とはどこか。地図上で真南に線を引いてみた。千葉県東庄町の東大社に当った。創祀123年。千葉氏の氏神であるらしい。ここが縄文時代の土地デザイナーが住んでいた所なのだ、と思った。
東庄とは橘荘と呼ばれた中世の荘園だそうだ。
平将門の叔父さんが平良文で、神奈川県藤沢市の二伝寺に墓がある。鎌倉市の北西部を流れる柏尾川の向こう岸だ。
参照:82.柏尾川 天平の大船幻想1
83.玉縄 天平の大船幻想2
その良文の孫の忠常が長元の乱を起こした。平安時代の反乱だそうだ。その平忠常の拠点の城が東庄町にあるのだそうだ。まつろわぬ神、天香香背男の不屈の魂は、この頃まで生きていたのかもしれない。
追記2:
東庄町とは新しい名前で、昔は鹿之戸村があった。鹿島神宮の鹿が香取神宮まで行く時に、ここを通ったので鹿之渡と呼ばれていたから、だそうだ。それはまるで、織姫と彦星のデートみたいだなあと、思った。
追記3:
息栖神社からは利根川に沿って風景が開けていて、今でも遠く筑波山が見えるらしい。それで東庄町から筑波山まで地図上に線を引いてみた。西から40度北へ向かう線になった。PSPで、紀元前8000年の西の空に星が沈むのを眺めた。筑波山の真上に、わし座のアルタイルが沈んでいった。なるほど、ここ東庄町が、縄文の観察者が立っていた場所なのだと納得してしまった。