鎌倉、まぼろしの風景。194 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

   

東日本大震災で被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。

キリシタンと江戸文化


194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

++ 1 +
 神奈川県鎌倉市の中央をJR東日本の横須賀線は、大船駅、北鎌倉駅、鎌倉駅と停車しながら走っている。大船駅を過ぎると左手に、六国見山と円覚寺の瑞鹿山の山並みが迫ってくる。その線路脇に小さい緑の丘が現れる。かめのこ山だ。
 山頂の木々は少なくなってしまったけれど、白い崖に洞窟がいくつか見える風景は、鎌倉の寺院の典型的な景観だ。愛してやまない鎌倉の白い崖が、ここにも保存されている。
 そこに小さな藁葺き屋根の四足門が見え、成福寺という石碑が一瞬の間に通り過ぎる。この先は北鎌倉駅だ。
 浄土真宗亀甲山法得院成福寺(きっこうざんほうとくいんじょうふくじ)は北鎌倉の入り口にあって、鎌倉幕府第三代執権北条泰時の名を伝える古刹である。

成福寺(じょうふくじ)の山門

 この山門は宗高院という山崎の女領主が、成福寺の和尚様の教えに感動して、自邸の門を寄付したものだと伝えられている。彼女は奥平家の女(むすめ)という。山崎とはJRの線路から西に山一つ越えた所の谷戸だ。そしてそれは江戸時代の初期であったそうだ。
 この謎の山崎、謎の宗高院について、散歩をするたびに思い返し、魅せられる。
参照: 184.鎌倉の小倉百人一首
参照: 185.鎌倉の小倉百人一首 2
参照:47.将軍のいましめ(5)井関隆子
参照:46.おとうさまの谷戸(4)
参照:45.山崎の里(3)
 それで、ネット検索に掛からない宗高院を、また探してみた。状況証拠を集めて候補者を上げていく。すると、不思議な事件が検索に現れて、歴史に疎い私は唖然としてしまった。
 それは前回の193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)どころではない。江戸時代の深い闇だ。

++ 2 +
 成福寺は小袋谷川の側にある。その先は柏尾川だ。
 遮るものの無い川岸の風景の向こうに、北条早雲が築城したという難攻不落の玉縄城の全景を眺めることが出来た。かつては。
 それで敵のベースキャンプにならないように、寺は焼かれてしまった。小田原北条氏の頃だ。成福寺9世の宗全和尚は伊豆の北条に退き、そこに同名の成福寺を建立した。それが慶長17年(1612)に、鎌倉に戻って来る。それは大久保長安事件の前年、岡本大八事件が起こった年だ。
 岡本パウロ大八が火刑になり、有馬プロタジオ・ヨハネ晴信が斬首された。徳川家康のいた駿府城から、おたあジュリアや原ジョアン胤信(たねのぶ)が追放された。幕府直轄地にキリシタン禁教令が出された。

 成福寺のある伊豆北条の北に梅名がある。そこに梅縄城跡があり、小田原北条氏が滅びてからは石川家成の陣屋であった。
参照:Go round castles(東海中心)梅縄城跡
 彼の息子の石川康通はフランシスコと言う霊名を持つ。大久保忠隣の息子の石川忠総と石川成尭は家成の養子になっていた。母方の祖父、である。
 慶長17年(1612)成福寺が鎌倉に戻って来た年に、梅縄の領主だったのが石川フランシスコ成尭だ。彼はこの後、24歳で早世する。
参照引用:聖母文庫「東京周辺キリシタン遺跡巡り」聖母の騎士社 高木一雄 著
 ここから中山城にかけてのお寺に点々とマリア観音やキリシタン墓があって、人語を語る猫だって出没したのだ。
参照:191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

 伊豆北条の成福寺は石川成尭や大久保忠隣の庇護を受けていたのではないか。地域のエリートであった和尚さんは領主と親しく語る機会もあっただろうと思う。だからキリシタン禁教令の影響から逃れる為に、鎌倉へ戻ったのだろうと想像してみる。
 その頃、宗高院は鎌倉市山崎に居たのだろうか。

++ 3 +
 新編相模国風土記稿によると、山崎の領主は北条幻庵、宗高院と続いて、その後は江戸幕府直轄地になっている。
 幻庵は天正17年(1589)に亡くなっていて、翌年に小田原城、玉縄城等々が落城して小田原北条氏が滅びる。
 その後について、風土記稿には
慶安の頃までは、宗高院の粧田たりしと伝ふとある。
 粧田とは女性が持っている領地だ。お化粧にお金が掛かるからこの領地から得るもので賄うという意味だけど、もちろん生活費にもなるのだ。それで、山崎は慶安の頃まで崇高院が所領していたという。
 だから山崎が崇高院の領地であった可能性は1590年から慶安(1648-1652)まで、ということになる。その間58年から62年だ。宗高院が一代で管理するには長過ぎる、と思う。
 宗高院の領地は二代に渡って引き継がれているのではないか、あるいは三代か。

 山崎の領主だった北条幻庵は「北条の影の宰相」と言われた。文人としても有名だった。風流人でもあり、90歳を超えた長老だった。
 そんな彼の領地では、彼を接待できる領民が育っただろうと思う。長寿だったから、領民とも長いおつきあいだ。
 山崎の地はスマートな住民が育っていたと想像する。そんな領地を、誰が引き継ぐだろう。誰が引き継ぎたがっただろう。

 徳川家康は北条幻庵の領地、山崎を、長女の亀姫に与えた、と、想像してみた。亀姫は後に盛徳院と呼ばれた。崇高院ではない。奥平の女でもない。

 家康は1579年に正室の築山殿と自分の長男の信康を、死に追いやっている。それは亀姫の母と兄である。亀姫は19歳だった。それから11年、父と娘はどんな顔をして暮らしていただろう。
参照:193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

 幻庵の領地が亀姫の粧田になる、そういう古文書が有るか無いのか、調べた訳ではない。根拠の無い想像を続けてみる。

++ 4 +
 亀姫は奥平信昌の正室になり4男1女を得ている。側室はいないらしい。
 次男は家治。文禄元年(1529)13歳で早世している。家康の養子になっていて、松平の姓と一字を賜っている。期待の星だったのだ。
 三男は忠政。病弱だったと語られている。江戸城を守る拠点として、美濃加納藩(みの かのうはん)10万石を任せられた。
 若年だったので彼を補佐する為に、父と母も加納藩に引っ越して、それ以後亀姫は加納殿と呼ばれることになる。
 岐阜城が排されて加納城が建設された。金華山にあった織田信長の岐阜城は完璧に解体されて、加納城建築に利用された。城は新しくなったけれど、住民は仕事の無くなった岐阜城から移転して来ただろう。それは織田信長、子の信忠、孫の秀信、と岐阜城に続いた文化を継承している人達だ。キリシタン文化が花開いた地域だった。
 亀姫の夫、奥平信昌は、織田信長から一字を賜って信昌を名乗っている。信長から信頼された家臣だったのだ。だから加納へ夫妻が引っ越したのは、忠政が心配だったから、だけではない、と想像する。彼らは美濃に住みたかったのだ、と思う。
参照:二文字屋の事<中山道加納宿二文字屋 (料亭川魚料理)

 ところが忠政が、34歳で病死してしまう。慶長19年(1614)10月2日。
 大坂の陣が始まろうとしていた直前だ。この日10月2日に、大坂城に篭城していた豊臣秀頼は諸大名に参集するよう檄を飛ばした。対する徳川家康は前日1日に大坂城攻撃を宣言している。奥平忠政は当然徳川方、であったけれども。
 その彼はフランシスコという洗礼名を持つキリシタンであった、らしい。
参照:美濃のキリシタン>尾張のキリシタン
 レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史」の第14章1612年(慶長17年)に
フランシスコという名を得た美濃の大名の養子を改宗させた。
と書いてあって、このフランシスコが忠政だと言うのだ。
参照:加納城と歴代藩主
 ところが上記++ 2 +に出てきた梅縄の領主、石川フランシスコ成尭も、この記述を根拠としている。どっちなのか、私にはわからない。

 亀姫の長男は家昌。宇都宮10万石の藩主。徳川家康より一字を賜る。正室は本多忠勝の娘だった。本多忠勝は本多正信が大嫌いで、公然と悪口を言っていたとウィキペディアには書いてある。本多正信は前回の193.貞宗院の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)で、悪役にしたけれど、ここでもやっぱり悪役なのだ。
 家昌に、弟の忠政が亡くなった4日後、大坂の陣に参戦せよと幕府の命令が届く。彼は病気で参戦できないとそれを断った。追って10月9日、参戦しなくても良いが江戸城の留守を鳥居忠政とともに務めよ、と命令される。この時の江戸城の留守居について、台?院殿御實紀卷廿八にこう書かれている。
江城留後の事は越後少將忠輝朝臣。蒲生下野守忠?。奥平大膳大夫家昌。?上駿 河守家親。鳥居左京亮忠政。酒井河?守重忠。同備後守忠利。?藤若狹守?次に命ぜらるべしとの御旨なれば。
 豊臣家に親しかった人達とそれを見張る家康の忠臣たちだ。
 鳥居忠政とともに、とは、家昌が本当に病気なのか、それとも豊臣勢と戦いたくないのか、その判断をしますよ、と言うことだ。病気でなかったら、参戦の拒否ならば、それは明らかな謀反になる。
 翌10月10日、家昌は死亡。病死だそうだ。37歳。
参照:台?院殿御實紀
参照:J-TEXTS 日本文学電子図書館

 江戸時代は人の命が簡単に断たれてしまう。それでも家昌の苦悩は、こんな短い記録からでも察することができる。そして三男忠政を弔っていた家族に、更なる訃報が届く。なんという事だろう。
 奥平信昌は息子達の死後、わずか5ヶ月で亡くなる。慶長20年(1615)3月14日、60歳。大坂夏の陣の直前だ。高齢であった事と息子達の不幸の為に、参戦は免除されていたと言う。亀姫は剃髪して盛徳院となった。嗚呼。

 4男の奥平忠明は、家康の養子になって松平を名乗った。大坂の陣に唯一(!)参戦して、姫路18万石になって、61歳で亡くなった。彼の人生は兄達の生涯とは対照的だ。

 亀姫の娘を千姫と言う。徳川秀忠の娘と区別する為に、ここでは奥平千姫と呼ぶことにする。
 彼女は徳川家康の養女になり、大久保忠隣の嫡男、大久保忠常の正室になる。
 忠常は二代将軍徳川秀忠から一字を賜り「御当代無双之出頭人」と呼ばれるほどのエリートだった。あの悪役、本多正信よりも優れたので「正信、常にこれを嫉妬」と徳川実記に書かれているらしい。
 その彼は慶長16年10月10日(1611)29歳で病死。幕府に無断で小田原まで弔問に行く人が数百人に及んだそうだ。
 彼の死の三日後、慶長16年10月13日に、奥平家昌の正室、もり姫が亡くなっている。亀姫の長男の嫁。偶然だろうか。

 成福寺が鎌倉に戻った翌年、慶長18年(1613)大久保長安事件が起きる。小田原城主の大久保忠隣が改易になり、大久保長安の墓が暴かれて磔にされる。長安の息子7人と家老2人、家臣一人が斬罪になった。多くの大名が連座して改易になり、流罪になり、幕府の内部に恐怖が渦巻いただろう。大久保忠隣を追い落とす為の、本多正信父子の謀略だと言われるこの事件は、キリシタンの弾圧でもあったと思う。亀姫の息子達が亡くなった年の前年だ。
 大久保長安事件の時に、大久保忠隣の息子、奥平千姫の夫はいなかった。代わりに改易になったのが安房館山2代藩主の里見忠義だ。妻の東丸様(桃源院)が大久保忠隣の孫だというのだ。奥平千姫の娘である。
 里見忠義は鳥取藩でわずか百人の扶持になり、長安事件から9年後の元和8年(1622)に28歳で亡くなっている。この年は長崎大殉教の年だ。
参照:曹洞宗 月江山 雲晴寺 (兵庫県明石市)
 東丸様は明暦元年8月30日(1655)56歳で亡くなった。
参照:歴史塵探訪特別寄稿 郷土の歴史 渡辺昇 著

 亀姫はこの時代を生き抜いて寛永2年(1625)65歳で亡くなっている。夫と二人の墓は奥平家の菩提寺、加納の盛徳寺にある。墓石は無く土葬で土盛りの墓だそうだ。それはキリシタンの墓に似ていると思う。
参照:加納城と歴代藩主
さらに。亀姫の墓は二つあって、光国寺にある墓はとても個性的だ。三つの丸石が重なっている。それもやっぱりキリシタン的だと、思う。
参照:美濃加納宿2加納城主奥平信昌と亀姫

++ 5 +
 大坂の役で、大坂城を守って戦った、たくさんのキリシタンが、落城とともに消えて行った。鎌倉の東慶寺で豊臣秀頼の娘の奈阿姫が天秀尼となって生き延びることが出来たのは驚くべき幸運だ。亀姫の二人の息子は参戦しなかった。そして二人とも、戦いの前に病死したのだ。

 鎌倉市小袋谷にある成福寺の山門は、亀姫の領地であった山崎の屋敷のものだと想像しよう。30歳の時にもらった領地を彼女の娘の奥平千姫が受け継いだと想像しよう。彼女が奥平の女、崇高院なのではないか。娘とその夫の悲運を、山崎でひっそりと見守っていたのではないか。そして彼女の死後に、東丸様(桃源院)が幕府領に返還した。そう思う。

 新編相模国風土記稿に「奥平の女」と書かれ、誰だかわからない、と、無視された人。それは徳川家康の養女(孫)だったのではないか。彼女を語るには徳川家康の長女亀姫と大久保長安事件を語らなければならなくなる。だからずっと奥平の女は謎の女だったのだ。そして幕府内部では、大久保長安事件とは、本多正信親子の謀略だけでなくて、キリシタン人脈の一掃、であったのだろうと、確信してしまう。

 鎌倉の全域にキリシタンが安全に暮らしていたと思われる痕跡が有る。それは天秀尼の威光なのか豊後岡藩の中川久清の力なのか。あるいは貞宗院?などと思って来た。でも亀姫がキリシタンを保護できる人であったら、これ以上の強力な庇護者はいないだろう、と思った。

参照:奥平家 家臣団


追記1:
 亀姫は耐えてばかりいたのではない。彼女は本多正信の息子、正純に復讐する。それが宇都宮釣天井事件である。
追記2:
 亀姫は地元の加納では恐ろしい存在だったらしい。いたずらをする子供を叱る時に、「加納御前が来るぞ!」と脅したのだそうだ。それは慶長12年8月12日(1607)の事件に由来する。加納には亀姫侍女十二相祠堂跡があって、ここに、咎にあった亀姫の侍女12人が弔われている。
 亀姫が侍女12人を殺したということだ。あるいは12人の死の原因が亀姫にあると言う事だろう。なぜそんなことになったのかは伝えられていない様だ。その沈黙も、何かを物語る。「語らない」という伝承、と言えるだろう。この年の春に、亀姫の異母兄弟が二人亡くなっている。家康の次男、結城秀康と4男の松平忠吉だ。亀姫は危機を感じていたのかもしれない。
参照:中山道 美濃加納宿−1 加納城趾
参照:183.芭蕉の見た闇(名古屋市・星崎)
追記3:
 亀姫の孫の東丸様(桃源院)の夫、里見忠義が亡くなった時に、8人の家臣が殉死したのだそうだ。里見忠義の法名から「賢」の一字をそれぞれ法名にもらったそうだ。だから彼らを「八賢士」という。南総里見八犬伝のモデルになったのだそうだ。
追記4:
 新編相模国風土記稿ができた天保12年(1841年)当時の山崎の領主は大久保忠保。大久保長安事件で大久保忠隣に連座して蟄居になった大久保忠知の末裔であった。この事件はまだまだ語れなかっただろうと思う。

      


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  ***亀子***( 28 Jun - 7 Jul. 2011-2 Mar.2012)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

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:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
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179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
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::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


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ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

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