静岡県庁の北隣に、駿府公園がある。徳川家康が築城した駿府城(府中城)があったところだ。駿河国安倍郡のお城である。ここに徳川家康は1585年(天正15年)から1590年(天正18年)まで住んでいたそうだ。44才から49才までの事だ。1590年に小田原城が落ち、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に移ることになる。 秀吉が病死して家康が征夷大将軍になったのは1603年のこと。その2年後に家康は息子の秀忠に江戸城を譲り、大御所として隠居。再び駿府城に戻ってくる。そして1616年(元和2)に75才で亡くなるまで、この城で暮らしたのだ。静岡は彼のホームグラウンドなのだ。 その駿府城の北を源流として、安倍河が流れている。城を迂回する様に、冬の天の川と同じく、北西から南東へと流れて、駿河湾に入る。つまり宇宙の神である國常立尊の位置に、家康は居たのだ。
参照:82.柏尾川(天平の大船幻想1)
その安倍川の河原で、キリシタンの磔刑が行われているそうだ。イギリス国王使節のジョン・セーリスの著書「セーリス日本渡航記」に、駿府の刑場の様子が書かれていて、この駿河の迫害から、大規模なキリシタン弾圧は始まったのだそうだ。
それ以前の秀吉の時代にも、長崎の26聖人の殉教(1596年)があるけれど。
参照:大御所四百年祭 家康公を学ぶ
きっかけは岡本大八事件だ。岡本パウロ大八は偽の御朱印を使って、九州の肥前国日野江藩主、有馬プロタジオ晴信を欺いた。それが発覚して、1612年(慶長17)に安倍河で刑死する。そのとき大八は拷問を受け、駿府にいたキリシタンの名を自白。それは家康の近親者まで含まれていて、家康はこの年に幕府直轄地領内のキリスト教禁止令を駿河から発布する。さらに1614年(慶長19)には全国にキリシタン禁教令が出された。
有馬晴信の死後、その息子の直純は異母弟のフランシスコ(8才)とマチアス(6才)を殺した。妻マルタ(小西行長の娘)はこの事件の2年前に離縁されていて、多分その頃に直純は棄教したのだと想像する。
小西アウグスチノ行長に仕えていた有名な おたあジュリアが、駿府城から伊豆大島へ流刑になったのもこの時であり、原ジョアン胤信(はらたねのぶ/原主水)が駿府城を脱出したのもこの時だそうだ。原主水は2年後に捕縛され、額に十字の烙印を押される。そして1623年(元和9)の江戸高輪の辻の札で火刑になった。鎌倉小袋谷のヒラリオ孫左衛門夫妻とともに、51人が刑死した江戸の大殉教だ。「家康のキリシタン弾圧は、ローマの皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。」と、HP「大御所四百年祭 家康公を学ぶ」には書かれている。私もそう思う。
結局わかっている死者だけで4000人あまり、全国で26万人が殺された。家康のお膝元の駿河から、2代将軍秀忠、3代家光と、弾圧は引き継がれていったのだ。
参照:キリシタン史 江戸初期の大迫害
参照:Laudate 日本キリシタン物語
このキリシタン刑場のあった安倍川にそって、「安倍七騎」という伝説が伝わっているのだそうだ。
1835年(天保5)「修訂 駿河國新風土記」には、「此郡の俗説に安倍七騎の武士と云ふことあり、何れの時より云しことにや詳ならず」と書かれていて、安倍川の上流にいた七人の侍の名前もその由来も分かっていないのだそうだ。でもそれは公式見解であって、地元の伝承とはまた別なのだ。「武田の騎馬軍の7人がここにいて、徳川の軍に一泡ふかせた」と、今に伝わっているらしい。
参照:安倍七騎
七人の名前は、誰であってもかまわないのかもしれない。実在しない武将でも良かったのかもしれない。この地に居た敗残兵であった農民達は、そう語ることで生き残ることが出来たのかもしれないからだ。
戦乱はこりごりだ、自分たちは負けてしまった、でもこの地にはかつて安倍七騎という勇壮な武将がいて、徳川軍を手こずらせていた。そう語りたいのだと思う。それは失われた名誉を、伝説に仮託して取り戻す、そういう行為だと思うのだ。災害を生き延びたサバイバーが、恐ろしい情景を繰り返し絵に描いて、自分を癒していく様に、私もサバイバーの一人だけれど、安倍七騎を語る人々は、それで心のバランスを得る事が出来たのだろう。
戦乱で負けた側の村の女や子供は、戦利品として略奪されたのだそうだ。「戦う村の民俗を行く」藤木久志著 朝日選書という本に、奴隷になった子供達の姿が書かれている。捕虜になった村人たちは、鉱山に送られたり売られたりしたらしい。でもそれでは農地が耕作できなくなる。敵方に付いていた武装した農民は、というより、敗戦で農夫になった足軽は、その名誉を剥奪されて新しい領主の監視下に居る捕虜になったのだ。それが、家康に負けた住民の姿、つまり「幕府直轄地」であったのだろう。と思った。
鎌倉は滅ぼされた後北条氏(小田原北条氏)の本拠地だ。小田原城が落ちて鎌倉市玉縄の玉縄城が開城した時、鎌倉に住む人は生きた心地がしなかっただろう。いったいこの後どうなるのだろうかと。ところが家康は鎌倉を破壊しなかった。鶴岡八幡宮を復興し、建長寺円覚寺を復興し、鎌倉に住む人たちの生活を今まで通り保証したのだ。
表向きは武家政権を作りあげた源頼朝に敬意を表したということになっている。徳川家康は源頼朝に続くとアピールしている。でも家康はそれで、「敵地」の人々を懐柔して、あっという間に徳川の鎌倉を作ることができたのだ。
藤沢市に屋敷を構え、鎌倉市岩瀬に父親の菩提寺大長寺を作り、その間に広がる玉縄城下一帯に、何度も鷹狩りにやってきた家康。それは村々の監視であったのかもしれない。
無敵だった玉縄城の黄八幡の旗印を、今も鎌倉市民は伝えている。安倍七騎を忘れない様に、黄八幡は今も翻っている。それは復権を願っているのではない。戦いを望んでいるのではない。社会がひっくりかえってしまった時の、庶民の心の慰撫なのだと思う。
そんな人々の心をキリスト教が支えたとしても、不思議ではないだろう。事実鎌倉でもガルベス神父らが捕縛されている。彼らはリーダーであったから、江戸の大殉教に名を残している。けれども伝導所に通っていた無名の人々は、どうなったのだろう。キリシタンであったのなら、無抵抗で捕まったのだろうか。何人かは棄教しただろうけれど、殺された人もいただろうと思う。
小袋谷にはでんすけ山刑場跡がある。明治のころに鉄道を敷く工事をやって、その時に沢山の人骨が出たのだそうだ。それはキリシタンの殉教地でもあったのではないか。と、思う。
戦乱の時代をくぐりぬけ、キリシタンとして生き、あるいは隠れキリシタンとして生きた人々の姿を見たいと思う。それも鎌倉の江戸時代の姿だ、と思う。そしてそれは、鎌倉覧勝考にも鎌倉志にも出てこない、鎌倉の民衆史の一部なのだと思うのだ。
追記:
安倍七騎の伝承の在る静岡市の安倍川上流には梅ヶ島がある。
参照:61.洲崎神社
ここに金鉱山があって、イエズス会の宣教師たちは、その調査もしただろうと思う。黄金の国ジパングをめざして来たのだから、その埋蔵量を確かめただろう。
鎌倉には金鉱山は無い。でも江の島と言うランドマークがあって、漁港があって、鎌倉名物の鰹や伊勢エビを江戸に運ぶ海路があった。キリシタン宣教師が家康の指示で初めて関東に入ったのは1599年(慶長4)、神奈川県横須賀市の浦賀の港からだった。鎌倉にはその浦賀に向かう街道がある。イエズス会にとっても、鎌倉は拠点になりうる場所だったと思う。
参照:三浦半島の隠れキリシタン
参照:「切支丹風土記・東日本編」斎藤秀夫著 宝文館
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