お岩が夫の伊右衛門に殺され、幽霊になって伊右衛門を殺すという物語「東海道四谷怪談」(1825年)は、鶴屋南北(1755年-1829年)が実話をもとに創作したのだそうだ。 東京都新宿区左門町に於岩稲荷田宮神社(おいわいなり)はある。徳川家康が江戸に移った時に、一緒に駿府城からやってきた田宮又左衛門の屋敷稲荷だそうだ。お岩さんが厚く信仰したというこの稲荷は、江戸中に広く知られて、不遇な婦人を守る霊験あらたかであったそうだ。
そのお岩稲荷社が鎌倉市大町の八雲神社境内にある。社務所で「(末社)稲荷社の由来」を求め、於岩稲荷社を読んでみた。江戸に田宮家の初代が稲荷を建てたのは1657年(明暦3年)。お岩さんは二代目跡取娘。ということで、実話だという元禄の頃(1688-1704)よりはもう少し前の時代になりそうだ。
5代将軍徳川綱吉の時代である。
その霊験あらたかな稲荷を、明治16年に勧請し八雲神社に祭ったのだそうだ。どうしてまたそんな恐い稲荷をと、思う(失礼)。於岩稲荷はこんな風に、日本各地にあるのだろうか。
1615年(慶長20年)、大阪夏の陣で大阪城を脱出した豊臣秀頼の娘、奈阿姫は、鎌倉市山ノ内の東慶寺に入って尼になった。彼女の生母も尼になっていて、名を小石(おいわ)と言う。秀頼の側室だ。
豊臣秀頼が自害した時に、側室お伊茶も一緒に死んでいる。息子の国松丸(秀勝)も捕まって殺された。東慶寺で姫と小石が生き延びる事が出来たのは、2代将軍の娘の千姫が彼女達を守ったからだ。だけどその千姫の養女になった天秀尼は、30年後に病死する。36才だった。
その時、乳母の小石は何才だっただろうか。50代半ばくらいではないだろうか。後ろ盾の天秀尼を亡くした彼女は、豊臣秀頼の側室だったという身分で、東慶寺にいたのだろうか。出家したのだから過去は無いのだと思うけれど。
東慶寺を出た彼女は、鎌倉市大町のどこかの寺にひっそりと住んだ、と私は思う。成田氏の末裔の小石を匿ってくれた寺があった、それは私の空想だ。そして小石はキリシタンだったと思う。
大町のどこかに、キリシタンのおいわ様は住んでいた。と思う。小田原北条氏の縁の人々がここに居て、尼になった秀頼の側室を守った。おいわ様は亡くなり、墓石が残り、かつての天下人だった彼女を偲んで、自分たちのかつての誇りを思い出す縁として、祭られた。「おいわ明神」は明治になって於岩稲荷になり、豊臣秀吉に繋がる過去は消えてしまう。新宿左門町から於岩稲荷田宮神社を勧請して祭ったからだ。そう想像する。神様の名前が変わることは、日本ではよくあることなのだ。大事なのは自分達の歴史という宝物を「残す」ことだった。本当の事は秘密になって、一子相伝で伝えられるはずだった。でも、それでは伝承は消えてしまうのだ。
おいわ様はお岩様になって残ったのだと思う。これは私の想像だ。
もう一人の幽霊、お菊さんの物語について。
人形浄瑠璃の「播州皿屋敷」が上演されたのは1741年(寛保元)だそうだ。歌舞伎では1863年(文久3)「皿屋敷化粧姿視(さらやしきけしょうのすがたみ)」だ。これらは姫路城にまつわる「播州皿屋敷実録」をもとに創作されたらしい。お城勤めのお菊が、十枚そろいの皿を1枚割ってしまう。それを咎められて殺されたお菊は井戸の中に棄てられる。それから夜毎にお菊の幽霊が井戸からあらわれて、一枚、二枚と皿を数える。かならず九枚で終わり、一枚足りないと悲しそうな声をあげる。やがてその家は没落してしまう。そういうお話だ。似た物語は各地に在るらしい。群馬県甘楽郡の2町1村に、兵庫県尼崎市、島根県松江市、高知県幡多郡の2町1村、福岡県嘉麻市、長崎県五島列島の福江島にあると、ウィキペディアには書いてあった。お菊さんは都市伝説になっていたのだ。
ネットでキリシタンを調べていくと、たくさんの「菊さん」に出会う事が出来る。きれいな名前だから皆に好まれたのだろうけれど、キリシタンの家族に多いような気がする。そして七宝紋といっしょに、菊花の文様にも何度も出会うのだ。
「菊」というのはキリシタンの人達が使った目印、暗号の一つであると思う。
参照:110.東渓院菊姫
お岩さんとお菊さん。1800年代の江戸で有名になった二人の、その元のイメージは、古事記に載る石長比売(イワナガヒメ)と木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)に遡ると思う。皆によく知られた2人の女のイメージ。だからそこに「岩=聖ペトロ=教会」と、「菊=クリサンチーム=キリストの御前に」が潜んでいると思うのだ。そして殺される彼女達は、幽霊になって戻ってくる。復讐の為に。黙って殺されて、それで済むわけが無いと江戸の人達は思うのだ。死に追い込まれたキリシタン達に、エールを送っている。それがお岩とお菊だ、と私は思っている。
1710年(宝永7)六代将軍家宣の時に、江戸時代の法律であった「武家諸法度」からキリシタン宗門の項が削られたのだそうだ。キリシタンは隠れキリシタンになり、転んだキリシタンは6世代を経て自然消滅して、キリシタンを禁止する高札だけが書き換えられ続けていた。
参照:東京周辺キリシタン遺跡巡り 高木一雄著
お岩とお菊の幽霊が江戸でもてはやされた頃、キリシタンは見えなくなっていたのだ。でも無くなったわけではない。この頃キリシタンを支えようとする町民文化が、隠語や絵解きを使って花開いたのだ。と、考えている。
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