「鎌倉、まぼろしの風景」の亡備録

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いしきりば

escribao
イシキリバ
石切り場

イシキリバ
●英国商館の書記ウイリアム・イートンの息子ウイリアムは平戸で生まれた。母は芸者の亀造。父も息子もウイリアムだったが、息子は「うりえもん」と呼ばれ、父は「イシキリバ」と呼ばれていた。イシキリバとは書記を表すescribaoというポルトガル語から。
 うりえもんはイギリスへ行って1639年に市民権を得て、ケンブリッジ大学に入った。
参照:ちくま学芸文庫「大江戸異人往来」タイモン・スクリーチ 著
石切り場
●鎌倉市植木に石屋があって、今泉、山崎、植木の峯の下から地石を切り出した。峯の下とは、現在植木の洞窟が見られる所。参照:「としよりのはなし」 鎌倉市
参照:192.洞窟と湧水と天女1
○その他に、台の亀井砦跡、明月院の先の谷戸。鎌倉近辺では藤沢市宮前の御霊神社東側、横須賀市の鷹取山山頂も石切り場であったそうだ。
参照:127.キリシタン洞窟礼拝堂
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うさぎ


うさぎ
●岩波文庫の「中世なぞなぞ集」の なそたて によると、「問い」が”とら”。「答え」は”うさぎ”。十二支では、子ね、丑うし、寅とら、卯う、の順番なので、「卯の先、うさぎ、は寅」。問いと答えが逆でも成り立つと思う。トラはウサギ、ウサギはトラ。つまり、トラという記号が使い古された時に、トラに変わってウサギが登場したと考える。寅女。寅御前。虎朱印。神奈川県平塚市には妊娠中の寅の浮き彫りがあった。
○  では「ウサギ」と言えば「鵜う」と「鷺さぎ」だという。鵜の模様の手箱と鷺の模様の手箱の中身を突き合わせると秘密がわかると言う。
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かのう

加納

狩野

加納御前
●徳川家康の長女の亀姫(1560年-1625年)の名前。母は築山御前(瀬名)。奥平信昌の正室。盛徳院。加納城に住んでいた。参照:193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)
加納宿
●1567年(永禄10)織田信長が稲葉山城を岐阜城に改築。城下には楽市楽座があり繁栄した。家康は岐阜城の資材で加納城を建設。稲葉山には立ち入りを禁じた。キリシタン保護区であった稲葉山城下町は加納になって消滅した。
○稲葉山(いなばやま)は現在の岐阜県岐阜市の金華山。宮城県石巻市の金華山と同名。改称は明治から。
東の丸様
●桃源院。安房館山2代藩主の里見忠義室。大久保忠隣嫡男の大久保忠常と奥平千姫の娘。
「とうまる」とは、城の東の丸に住んだから東丸様と呼ばれたと言う。でも「とう十まる○」と読むならば。江戸の人達は右から左へと文字を書いたから、とうまるは○十になる。叶、だ。加納御前の孫という名前だと思う。
叶神社(東叶神社)
●横須賀市浦賀にある八幡社。1181年(養和元)に文覚上人が源氏の再興を祈願して、源頼朝の旗揚げの際に石清水(いわしみず)八幡宮を勧請した。それが現在の西叶神社で、そこから江戸時代に勧請して浦賀湾対岸の東叶神社ができた。
○東叶神社の裏山は小田原北条氏の城山。三浦水軍の拠点だった。山頂に登ると房総半島が目前に広がる。参照:歴史探検隊東浦賀に行く
○東叶神社の社務所脇に身代わり弁財天と言われる厳島神社がある。洞窟の中に祀られていて、洞窟の入り口すぐに水盤がある。
○1598年(慶長3)徳川家康は交易を望み、浦川(浦賀)にメキシコから来るスペイン船が入港する事を望んだ。フランシスコ会のジェロニモ・デ・ジェスースは布教を交換条件にして、東浦賀に教会が建設された。
○1611年(慶長16)6月ヌエバエスパーニャ(新スペイン:メキシコ)の福王の船が浦賀に着く。参照:メキシコ 日本アミーゴ会
○1720年(享保5)、伊豆の下田奉行所が移され、浦賀奉行所ができた。浦賀は小田原に次ぐ港町になる。「下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住みました。」参照:歴史探検隊西浦賀に行く
○浦賀湾には横須賀市道2073号線という市営のフェリーがあって浦賀奉行所のあった紺屋町から東叶神社へ渡ることができる。短い距離の航路だが江戸時代から渡船があったそうだ。「野崎参りは屋形船で参る」を思い出す。
かのう結び
●紐の結び方。表から見ると□、裏は十に見える結び方。願いが叶うという意味を込めて、お守り袋の紐や数珠の紐の結びに用いる。
狩野川
●静岡県の伊豆半島を流れる一級河川。かのがわ。天城山から駿河湾へと流れる。日本書紀に、伊豆で「枯野」という名の船を造作ったとある。そこから「かぬ」になったとされる。蘭渓道隆が流された修善寺、古奈、堀越公方足利政知の堀越、北条政子の北条、源頼朝の蛭ガ小島、北条早雲の韮山、江間、原木、を流れる。
狩野派
●狩野正信を始祖とする画家集団。室町幕府の御用絵師から織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川将軍の下で江戸末期まで活動した。安土城や大坂城の障壁画を制作した狩野永徳や、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽がいる。参照引用:Wikipedia
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