大畠洋一先生の「横浜周辺の石仏地図」は、鎌倉市や隣接する地域の石仏を紹介していて、読み応えがあるすばらしいHPだ。
その「藤沢宿」に、十字架を持つ石像の写真が出ていた。それを見に、神奈川県藤沢市の神社を訪ねた。鎌倉の隣町だ。
右手に十字架の形の矛を持っていて、左手は不思議な物が入ったお椀を持っている。文政十三歳1830年の堅牢地神の像だ。
堅牢地神の姿は、元は花かごを持つ女神像だったのだそうだ。それが武人の姿になって、花を盛ったお椀だけが残った、みたいに見える。
江ノ島道にある庚申堂にも、同じ像があった。こちらも十字架を持っている。花かごは小さくなって、小さな球体を持っている様に見えた。
この像を見て思い出す絵がある。キリスト教の大天使ミカエルの絵だ。龍を踏んづけて槍で押さえているミカエルは左手に地球の様な小さい球を持っている。この絵は額縁の形まで、上の石像にそっくりだ。(笑)
参照:WEB GALLERY of ART Archangel Michael
参照:WEB GALLERY of ART Saints Michael & Francis
ミカエルという名は「蛙」に代わって、カエルは江戸時代の風流な文化人に流行ったのだそうだ。なぜミカエルなのか、という問いにはフランシスコ・ザビエルが答えるだろう。彼が日本に来て、日本の守護聖人をミカエルに決めたのだそうだ。後にマリアやザビエル自身が守護聖人と言われるようになる。でも当初は、日本を守るのは大天使ミカエルだったのだ。
藤沢のこの神社は地域開発の現場であった。参道の階段は土で埋もれてしまい、そこにあった鳥居も解体して庚申塔の横に置かれていた。
鎮守の杜は消えていて、お祭りに使える広場とそこに直結する車道とが新設されていた。
神々しい神社よりも公園として安全に使うことができる明るい広場が求められているのだ。広場に神社という歴史を追加して個性のある地域の拠点に生まれ変わる。そういう変貌中の現場に居合わせるのは、何とも落ち着かない。以前の姿を知らない方がいいのかもしれない。
その横たわった鳥居に、凱旋記念という文字が彫られていた。これは戦争の記憶だ。でも「凱」の字がちょっと変だ。「旋」の字も、方ではなくて手へんになっている。
鳥居に書く文字を石工は間違えない。
「凱旋」と書かなかったのだ。
書かなかった事を石に彫って後世に伝えているのだ。これはすごい事だと思う。
日本中が戦争に向かって行った恐ろしい時代に、これは凱旋ではないと言い切って石に彫りつけた人達がここに居たのだ。村の青年が兵役について、亡くなって戻って来る。遺体は戻って来ない。それを凱旋と謳うことはできないのだ。とても共感するけれど、私にこんな勇気があるだろうか。日本中が戦争に向かった時代に、凱旋記念の鳥居を建てて、村の民意のメッセージを残したのだ。と、思う。これは誇らしい歴史財産だ。
江ノ島道にある庚申堂の方にも、そんな不屈の石碑がある。
昭和6年は辛未(かのとのひつじ)だから未と書いてある。でもその字は「末」なのだ。三月吉日とあるから、年末ではない。世も末、末世なのだと思う。
1931年(昭和6)は9月に満州事変がおこり、ここから日本は15年戦争に突入する。陸軍のクーデター未遂事件が3月と10月に、2回もあったのだそうだ。そんな時だ。
堅牢地神と書いた石碑は北鎌倉の八雲神社や明月院の谷戸など、あちこちにある。でも像が彫られた石碑はめずらしいのだそうだ。この神社のは十字架を持った像だ。こんなにきれいな姿で今まで大切にされて来た事を、誇らしく思う。
この神社は明治期に祭神が代わり、神社の名前も変わっている。その前は第六天社だった。第六天とは神仏習合の第六天魔王(他化自在天)を祀る修験の神社だそうだ。
相模・武蔵・伊豆に多く、小田原北条氏の旧所領に広がっていて、「都市部には少なく農村部に多いことから農村に逃れた北条家の家臣達が農民となりその信仰を広めて言ったのではないか。」そういう説明が臨済宗大徳寺派祐泉寺のHPに書いてあった。
参照:他にもあった第六天 全国編
参照:消えた第六天 藤縄勝祐著
それとは別に、自分を第六天魔王と呼んだのが織田信長だそうだ。だから第六天神社は、もしかして、一部では、信長を祀る神社かもしれない、と思う。
小田原後北条は豊臣秀吉によって滅ぼされた。その跡地を治めたのが徳川家康だ。だから第六天とは、秀吉+家康の前の時代、信長や北条の時代を懐かしむ拠点だったのかもしれない、と、思った。
信長はキリシタンを擁護して広めたけれど、秀吉+家康はキリシタンの大弾圧を行なった。そう考えると、第六天社に大天使ミカエルに似た石像があっても、それもいいなあと思う。
では、第六天神社を広めた後北条氏は、キリシタンをどう見ていたのだろうか。鎌倉には1600年代初期にフランシスコ会の伝道所があった。あの北条幻庵は子供の頃から、そのあたりを領地としていた。
参照:145.建長寺のジョアン
彼は横浜市港北区小机町に城を持ち、港南区にオフイスがあった。そのあたりにも、あのキリスト磔刑図に似た4手の庚申塔がある。
参照:140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
北条幻庵は謎の人だと言うけれど、それは後世に資料を消されたからではないのか。後北条氏は、キリシタンに親しかったのではないか。謎は深まる。
追記:十字架の堅牢地神像や石の鳥居や、得る物が多かった参拝から帰って、写真を整理した。現場では気づかなかったけれど、不思議な文字碑があったのだ。1783年(天明3)の文字碑である。
隣に不動明王像が並んであったので、この石碑を「大山不動尊」とすんなり読んでしまったのだ。不動尊ではない、ということに後で気づいた。
これは不勘当だ。
放蕩息子をおやじ様が、もうおまえとは子でも親でもない、と放逐する、あれだ。
ウィキペディアによると、勘当の手順はこうなる。
1)証人をつけて作成した勘当伺い(勘当届書)を名主から奉行所(代官所)へ出す。
2)奉行所の許可が出た後に帳外になる。(人別帳から外す)
3)外された者は無宿となる。
知らなかった。勘当されると「宗門人別帳」から外されたのだ。キリシタンだと判定されると、やはり外される。だから大山に逃げるのだ。大山には「男の駆込み寺」浄発願寺があって、「最も重刑に処せられるべき罪人」も救われるのだ。
参照:130.大山の木食上人旅する江戸人5
だからこの石碑は「大山は勘当されない」と読むのだと思う。ありがたい事なのだ。
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