鎌倉、まぼろしの風景。193

序の段落
　JR東海道線大船駅から西南西に1,7kmほどの所、神奈川県鎌倉市植木に、浄土宗玉縄山珠光院貞宗寺(ていそうじ)がある。徳川二代将軍秀忠の祖母であった貞宗院様が隠居した跡地に創建されたお寺である。
　大奥の年寄り役を務めた彼女はここに隠居して岩瀬にある亀鏡山大長寺の源栄(玄恵)和尚に頼った。玉縄城に篭城した北条氏勝を説得して無血開城させたのが、この源栄と龍宝寺（大應寺)の良達和尚だ。家康は源栄の才能を尊び、大長寺は家康の父の菩提寺となった。それから家康は鷹狩りと称して大長寺によく立ち寄ったのだそうだ。
　貞宗院は自分の死後、屋敷を大長寺の末寺として残す事を望んだ。その遺言どうり、死後二年で玉縄山貞宗寺が建立した。開山は大長寺の源栄だった。

貞宗寺(ていそうじ) 鎌倉市植木

　住居跡がお寺になって亡き人を弔い続ける、というのはよくある事だ。でもここは、彼女が望んだと、彼女の意志だという所を強調している。
　自分の菩提を弔ってほしいと言う願いからか。あるいは、お寺が存続すれば貞宗院という人が居たという事を後世に残せると思ったからか。

　なぜ寺をここに作って欲しかったのか。そこを考えてみた。ネット検索で、彼女の人生をなぞった。すると徳川家康が存命中の江戸時代初期の大事件が、次々と現れる。それで彼女の意志がどんなものだったか、想像する事が出来た気がした。

破の段落
　熊本の有名な菊池氏の末に西郷氏がある。西郷正勝といえば東三河の五本松城主。戦国武将に詳しい方なら彼も有名人なのだそうだ。知らなかった。
　長男の西郷元正は今川軍に攻められ討ち死。正勝も五本松城に火を放って自害した。永禄5年(1562)の事だそうだ。今も東海道新幹線の掛川駅の北に、西郷という地名が残っている。
　その西郷正勝の娘が貞宗院だ。今川軍に父と兄を殺された娘である。
　その8年前、彼女は地元の武将の戸塚忠春の妻であった。天文23年(1554)、戸塚忠春は今川・武田の連合軍にいて、北条氏康と戦っていた。駿河苅屋川の戦いで忠春は戦死する。徳川家康は彼の死を悲しんで、陣中で自ら位牌を彫って悼んだという。西月友舟大禅定門。法名にキリシタンの香りがするのは気のせいだろうか。
参照：東京都新宿区　曹洞宗天竜寺

　戸塚忠春と貞宗院の娘を昌子という。西郷元正の息子、つまりいとこの西郷義勝と結婚する。しかし彼も、元亀2年(1571)武田軍の秋山晴近と戦い、戦死。
　貞宗院は服部正尚と再婚していて、寡婦となった昌子とともに暮らしたそうだ。
　この服部正尚は伊賀国服部宗家を継ぐ男。三河の武将の服部半蔵こと服部正成も同族。
参照：お江戸今昔堂
　服部半蔵は十代の頃から徳川家康に仕え、後に伊賀甲賀衆を率いた忍者。と言っても、日本史が嫌いだった私には豚に真珠。半蔵は慶長元年(1569)まで生きていたから、貞宗院とも知り合っていただろう。服部正尚との再婚は、家康が貞宗院の生活を保障したということだろうか。
　その頃、西郷家を率いていたのは西郷清員。貞宗院の兄(または弟)。酒井忠次の妹を正室にして、徳川家康に仕えた忠臣である。彼がいかに家康に信頼されたか、ネットにも美談しか載っていない。
　兄の孫、昌子の息子である家員を養子に迎えて、西郷家の嫡男に据えた。義理堅い人だ。
　その彼の家で休息していた家康は昌子を見初め、西郷清員の養女という身分で側室に迎えた。家康が生涯で一番愛したと言われる、お愛の方である。
　徳川秀忠と松平忠吉の母になり、西郷局(さいごうのつぼね)とも言う。
参照：183.芭蕉の見た闇(名古屋市・星崎)

　そして貞宗院の亡くなる4年前に、秀忠は2代将軍になる。すでに貞宗院は大奥を退き、ここ植木に隠居していたけれど、当時の最高権力を握った女の一人、だったのだ。

貞宗院の御廟　

　貞宗院とは、若い頃から徳川家康の近くに居て、亡くなった親しい人との思い出を共有できる、そういう心休まる人であったと思う。横浜市戸塚区には鷹匠橋という地名が残っている。鎌倉市植木の久成寺には、鷹狩りの時に立ち寄った家康の弁当箱が残っている。藤沢市には家康の藤沢御殿がある。そして貞宗院の館も、ここ植木にあった事を、改めて思う。
参照：113.徳川直轄地のキリシタン

急の段落
　西郷局が徳川秀忠を生んだ1579年。京都にはキリスト教の教会、南蛮寺ができ、織田信長は完成した安土城に居た。2年後には天正少年使節が長崎を発ち、本能寺で信長が自刃する。
　そんな頃。家康には正室の築山殿がいた。本名は瀬名(せな)。アルゼンチンのF１ドライバーだったアイルトン・セナを思い出してしまう。嫡男の松平信康は20歳になっていた。

　築山殿については悪評しか伝わって来ない。道鏡を愛人にした称徳天皇以来の悪女だという。側室の於万の方が懐妊した時に、寒中の庭に縛り上げて、母子ともに亡き者にしようとした、とか。徳川家康の正室をここまで貶めるのは異常とさえ言える、とウィキペディアにあった。

　築山殿は息子の信康に男子が生まれないので嫁の徳姫と不仲だったそうだ。徳姫が築山殿の謀反を父親の織田信長に訴えたことで、家康は築山殿を斬首。息子の信康を自刃に追い込んだと言われている。信長の客将という身分の家康だったから、こういう結果になったのか。でも現在では「悪女築山殿」ではなくて、家臣団の分裂と謀反を防ぐ為に、信康を殺すのが家康の目的だったと言う説もあるそうだ。
参照：ウィキペディア　松平信康　派閥抗争説　

　築山殿が斬られたのが8月29日、信康の死が9月15日。秀忠の誕生から4ヶ月と21日後の事である。

右足に魚が見える尼僧の墓碑　文政八年(1825)乙酉十月十五日

　このとき、家康の次男の結城秀康は5歳。築山殿の奥女中だった於万の方が母親だ。築山殿から匿われて、家康の重臣の本多重次の所で生まれ、育てられた。
　家康は結城秀康を嫌ったと言うけれど、嫌われた事で彼は生き延びたのかもしれない。その後、豊臣秀吉の養子(人質)になり、結城晴朝の養子になり、徳川家に戻る事は無かったのだ。

　西郷局は「お愛の方」とも呼ばれる。誰からも好かれた人だったそうだ。近視だった彼女は目の悪い女性達を保護していて、そのために西郷局が亡くなった時には目の悪い女性達が集まって彼女の為に祈ったと伝えられる。美人。温和。皆に好かれた。等々。築山殿とは雲泥の差の伝承が残る。
　結局、西郷局の秀忠が後の二代将軍になるのだから、誰も悪評は残さないという事だろうか。

　西郷局は天正17年(1589)5月19日駿府城で死去する。秀吉がキリシタン禁教令を出して２年め。築山殿が亡くなってちょうど10年めであった。
　数え年で28歳であったとも38歳であったとも言われている。28歳だったら戸塚忠春の娘ではなく服部正尚の娘になる。
　新編相模国風土記稿では38歳であったと書いてある。そうなら築山殿の没年齢と同じになる。

　彼女の突然の死について、築山殿の下女が暗殺したのだという噂があるらしい。恐ろしい噂である。

　築山殿は今川義元の姪にあたる。今川は足利将軍家の末裔として吉良家とともに継ぐ名門だそうだ。
　人質だった同い年の家康と15歳で結婚して松平信康と亀姫を生む。その後1560年に今川義元が討たれ、今川氏が滅亡するのを家康の妻として見てきたのだ。
　家康の母の於大の方は彼女を嫌い岡崎城に入ることを許さず、築山殿は幽閉同然の暮らしをしたそうだ。
　対今川戦で父と兄を失った貞宗院と家康の結束を見て、築山殿は恐怖を感じただろう。味方の居ない徳川家で、悪名を立てられて。怯えていたのは彼女の方だったのかもしれない。

　そして家康が、「源頼朝、足利の、次に並ぶ徳川の幕府」を意識しだしたのも、今川を越える決意があったのかもしれない。とも思う。

　徳川秀忠は10歳で母を亡くす。若く優しかった西郷局は、死後いっそう理想化されただろう。

　彼女の死の翌年(1590)、小田原城、玉縄城が落城。後北条氏が滅んだ後に、豊臣秀吉の命令で家康は江戸城に入る。
　西郷局の居ない江戸城に貞宗院は年寄として参加する。彼女の思い出が持ち込まれる。

　家康は江戸城の改築を進める。鬼門を守る寺として上野に寛永寺を作り、裏鬼門に曹洞宗護本山天龍寺を創建する(1591)。
　天龍寺の開基は戸塚忠春と西郷局であると天龍寺のHPにあった。二人とも亡くなっているから西郷清員と貞宗院が代行したのだろう。

　その天龍寺とは、戸塚忠春の菩提寺であった法泉寺を静岡県掛川から移転させた寺だ。法泉寺七世の心翁永伝和尚とは戸塚忠春の息子なのだそうだ。

　西郷局の亡き後も家康の側近として、貞宗院はがんばっていた。そこに陰りが見えだす。それが本多正信の台頭である。

　 末の段落
　本多正信は本多俊正の子。家康に鷹匠として仕えたとウィキペディアにある。一向宗を弾圧していた徳川家康に対抗して、一向宗の側で戦った人だ。後に大久保忠世に口添えをしてもらって、家康のもとに戻った。そういう人は他にもいたのだけれど、本人はこの事をどう思っていただろう。後に本願寺(当時は一向宗)で内紛が起こった時に、内部分裂を誘発させる策を提案したのだそうだ。宗徒であった彼は寺の内部事情を知っていたからだ。謀略で政敵を倒す、後の彼は、家康に敵対した過去を負い目と感じていたかもしれない、と思う。

　家康が江戸城に入って4年後に西郷清員が亡くなった(1594)。貞宗院を支えていた兄弟がいなくなって、彼女は隠居を考え始めたかもしれない。
1598年、豊臣秀吉が亡くなる。本多正信が家康の参謀として出てくるのはこの頃からだとウィキペディアにあった。
1600年、伏見城の戦いで鳥居元忠が戦死。子供の頃からの忠臣だそうだ。京都にある伏見城の血天井は、家康が鳥居元忠を悼んでいたから、らしい。
参照：190.○と□　(丸と四角、マリアとイエス)
　そして関ヶ原の戦。

　1603年に江戸幕府が開かれる。この年の7月7日の日付で、貞宗院の館が大長寺に寄付されると言う書面があるそうだ。酒井忠世と青山忠成の署名のある文書について、新編相模国風土記稿では「此文書に信用し難し全く後人の贋書と覚ゆ」と断定する。偽書だというのだ。でもこれを読めば、貞宗院が江戸城を去って植木に隠居したのはこの頃だと、そう言っている様に読める。
　この3年前、玉縄城を預かって守護していた松平忠守が亡くなっている。息子の領地の相模原市に隠居して数年たっての死だったそうだ。76歳。家康の母の於大の方の兄弟だ。玉縄城を預かったのは「名誉職」だったのだろうか。彼が玉縄城を去った頃、城は廃されたのかもしれない。そして本多正信が玉縄領一万石を得るのも、この頃なのかもしれない。

　1605年。徳川秀忠が2代将軍になり、家康は静岡に隠居してしまう。それでも権力は握ったままだ。翌年、鷹狩事件が起きる。それで内藤清成と青山忠成が失脚する。側近であった二人だ。
　1607年に本多正信は老中になった。この年に家康の次男の結城秀康が病死する。そして４男の松平忠吉も病死した年だ。
参照：183.芭蕉の見た闇(名古屋市・星崎)
　キリシタンだった津軽為信と信健父子も同じく病死する。この年の訃報を貞宗院は鎌倉市植木で聞いていたのだ。家康４男の松平忠吉は西郷局の息子、貞宗院の孫である。

Xのついた石灯籠一対　貞宗院□　御廟前　
従五位下戸塚豊後守　源朝臣忠榮謹再建　
嘉永七年(1854)甲寅四月十九日
戸塚忠榮は大坂東町奉行を天保3年～5年(1832-1834)務める

　　貞宗院は1609年に亡くなった。翌年、本多正信は特別待遇の老中、大老の身分になる。江戸城の勢力図は塗り替えられていた。
　1611年、源栄が開山となって貞宗寺が建立される。その翌年に岡本大八事件が起きる。岡本パウロ大八は磔、有馬プロタジオ晴信は斬首になった。
　この事件を裁いたのが大久保長安、イエズス会が持ってきた鉱山技術で富を得た金山奉行であった。

　家康は江戸、京都、有馬領にキリシタン禁教令を出した。この時、駿府城からキリシタンを理由に追放された人の中には、家康の息子の小笠原ディエゴ権之丞や、後に江戸大殉教に加わる原ジョアン胤信(たねのぶ)、伊豆大島に流された家康の侍女おたあジュリア、西郷宗三郎などの名が見える。

　翌年、大久保長安事件が起きる。岡本大八事件で名を上げた彼が、翌年には亡くなっている。彼は死後に、蓄財を横領とされて晒し首になった。息子は７人とも処刑され、長安を養子にした小田原城主の大久保忠隣は改易になる。長安の息子を養子にした青山成重も改易。青山成重、実は服部七右衛門。貞宗院の夫、服部正尚の弟である。

　この事件は本多正信の謀略だとも言われている。政敵の大久保忠隣を失脚させ、本多正信は絶大な力を得る。
　1614年。幕府は全国に禁教令を出す。宣教師と高山右近らを国外追放にする。翌1615年、大阪城が落ちたくさんのキリシタンが戦死。あるいは逃亡して武士を捨て、農民になった。神奈川県内にも、大阪城の後、入植して開墾されたという新田がいくつか残っている。
　1616年。3月。徳川家康死去。本多正信は隠居、6月に死去。78歳。ひとつの時代が終わるのを見届けて、大長寺の源栄和尚は座間市の宗仲寺に隠居する。

貞宗寺の南にある石切り場近くのやぐら

　貞宗院の輝かしい時代が、本多正信の台頭で終わって行く様を見ることができる。家康の意向を受けて、彼女の隠居を親切に準備したのは、本多正信であっただろうと思う。玉縄領の植木に、美しい天女窟があると誘ったかもしれない。その本心がどこにあったかを知っても、貞宗院はその言葉に従ったのだろう。

　貞宗寺の南に瑞泉寺の天女窟によく似た美しい洞窟と湖水があった。
　そこからは源栄和尚のいる大長寺の伽藍が見えた。玉縄城の麓でひっそりとくらす貞宗院の館があった。そしてそこに寺を作る事を望んだ尼僧がいた。

　寺を訪ねる人は貞宗院の輝いていた日々を知るだろう。西郷局と家康の黄金の日々を思い浮かべるだろう。そしてその後の、激化して行くキリシタンへの弾圧と謀略を思うだろう。
　貞宗院と本多正信の接点は、玉縄の領地に居た、という一点である。それが無かったらすべてが偶然に起こった出来事と見られるだろう。貞宗院が本多正信の誘いにのってこの地に引退した、それは彼の悪意を表に出す、歴史に残すことであったかもしれない。
　内藤、青山といった忠臣の失脚や孫の松平忠吉の死を、貞宗院は納得していなかったのだ。と思う。この後に来る恐怖の時代を察して、どこに隠居したら、その名前を記する事になるか、考えたのかもしれない。それが彼女の遺言、玉縄領の城廻(植木)に貞宗寺をつくること、であったかもしれないと、想像してみた。

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　＊＊＊亀子＊＊＊（ 18 Jun. 2011-2 Mar.2012)