ジョアン有楽斎とは織田長益(おだながます)といって、織田信長の弟だそうだ。利休七哲の一人で、如庵(じょあん)と言う彼のお茶室は国宝になっているのだそうだ。聖ヨハネという名のお茶室だ。東京の有楽町と言う地名は彼に因むものだという。
信長が死んだ本能寺の変の時に35歳。彼は岐阜へ逃れて、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍にいたそうだ。その後も豊臣家に仕えていて、淀殿(浅井茶々)は姪にあたる。大阪城落城の前に豊臣家から離れて、一万石の茶人として家康に仕えたそうだ。スパイであったとも語られる。1621年(元和7)に京都で死去。75歳。
参照:ウィキペディア
彼の墓が鎌倉市山ノ内の建長寺にあるというので見に行った。いつもは非公開の西来庵は、ちょうど牡丹の美しい時だったので嵩山門(すうざんもん)が開けられていて、庵の入り口まで行く事が出来た。ジョアンの墓へは入ることが出来ず見ることはできなかった。
新編鎌倉志には長好院という項目で「織田三五郎平長好を葬りて」と書いてあった。ジョアンの墓ではなくて彼の孫の織田長好(1617-1651)の墓だという。
だけど昭和32年に出版された「かまくら子ども風土記」には「織田有楽斎の墓であると伝えられています」と書かれている。これを間違いだと思ってしまったら、鎌倉の歴史は見えて来ないのだ。と、思う。
「織田三五郎平長好を葬りて」という文章は、新編鎌倉志にも鎌倉覧勝考にも、新編相模国風土記稿にも書かれていて、有楽斎の名前はまったく出て来ない。だけど。子ども風土記を作った人達は資料を読んでないはずがない。彼らは長好の墓だと知っていて書いたのだ。長好が生きていた時代には、ここに有楽斎ジョアンを弔う墓があって、それは建長寺とこの地域の人達にその後もずっと伝えられて来たのだ。
だから子ども風土記には、その通りに書かれているのだ。
そして新編相模国風土記稿は、そんなに正確じゃない。新編相模国風土記稿に書かれた記事がまったくの架空のものだという、そんな地域も神奈川県内にあるらしい。
江戸幕府が3度に渡って出版した鎌倉の地誌は、幕府が必要とした「歴史」を語ったものだ。キリシタンというキーワードはそこには出て来ない。消えている。
鎌倉に開発の波が押し寄せて、城塞や古道が破壊されてきた昭和30年代に、子ども風土記は出されている。鎌倉の人達から鎌倉の記憶が失われていく前に、記録を残したのだ。建長寺で言えば、門前にあった鎌倉五名水の一つの金龍水も、県道の下に埋もれてしまった。そんな中で「織田有楽斉の墓」と項目をたてて語ったことは、とても意味のある事だと思う。
今年再販された子ども風土記には(伝)織田有楽斎墓とあって、織田長好の墓であるとも説明されている。
それがどんな塔であるのか、いつか見学できる機会があったらいいなあと願っているのだけれど。
茶道有楽流の始祖ジョアンが息子を先に亡くして、孫の彼を一万石の後継者として望み、願い叶わず亡くなった時に、その織田長好はわずか5歳だった。幼名は猿、なのだそうだ。
京都にいた有楽斎ジョアンを偲んで、ここ建長寺で彼を弔った人がいたのだ。長好院は無くなったけれど彼の五重塔は残っている。すごい事だと思う。
その建長寺は山門に巨福山(こふくさん)と掲げてある。
臨済宗建長寺派の大本山、巨福山建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)は鎌倉幕府5代執権北条時頼によって1253年(建長5)に創建された。地蔵菩薩を本尊とする禅寺である。
その三門の巨という字に、点が一つついていて、異字体になっている。この点に百貫の値打ちがあると、禅問答の様なお話が伝えられている。異字体はキリシタンも使う。将棋の玉将の駒のように、王ではないとアピールする時に使うのだ。
建長寺の東にある切通しを小袋坂と言って、これは今でも巨福呂坂と書いたりする。鎌倉時代に巨福呂と書いた地名が、江戸時代には小袋へ変わっているのだ。どの時代に書き方が変わったのかというと、最も古い文献に見られる小袋は、北条幻庵の領地の小袋谷という地名なのだそうだ。
北条幻庵と言われても、日本史嫌いだった私にはわからない。ウィキペディアに頼れば、北条早雲の三男で上杉景虎を養子に迎えて隠居した人。1589年に死去、享年97歳。彼の死から8ヵ月後に豊臣秀吉に攻められて後北条氏は滅亡。後北条氏の最初から最後までを見た人物。だそうだ。あるいは横浜市港南区の郷土史では「小田原北条の陰の宰相」「謎の人物」「風魔と呼ばれる『忍』の集団を陰で指揮した人」となっていて、港南区の北条幻庵の代官所跡が風魔の里なのだそうだ。すごい。
さて、岩波書店から1970年に出版された日本思想体系25のキリシタン書 排耶書。その中に収められた「丸血留の道(マルチルのみち)」を読むと、キリシタンが使った造字が出て来る。例えば、棄教することを転ぶと言うのだけれど、これを「入」の下に「衣」と書いて「ころぶ」と読ませるのだ。
解説を書いたH・チースリクは、衣とは仏僧のコロモを意味して、仏教に転入するという意味を表したものだろうと書いている。だから巨福呂を小袋と書いた人は、墨染めの衣に入ったのではなく、代わったのだ。と、思った。
キリシタンが忍者に置き代わった?
北条幻庵由来の忍者達はキリシタンの暗号を村々に仕掛けておいて、それを利用したのかもしれない。キリストの図像を庚申塔に仕掛けて辻に置いて、何のルートを作ったのだろう。
そういえば庚申塔を作る石工という人達は、技術を持って諸国を巡って、その国内事情を知る、忍者の仕事もしたのだそうだ。
参照:「かながわの石塔と石仏」かもめ文庫025
建長寺に話題を戻そう。
禅のお寺には仏法を守る道教の神像を置く慣習があるそうだ。伽藍神(がらんしん)という数体の木彫神像が鎌倉国宝館に保存されていて、建長寺の張大帝の像もここで見ることが出来る。
左手を膝に乗せて右手に何かを持っていたこの座像にはキリストの聖痕の様な穴がつけられていたらしい。左手の甲に穴があけられていて、それを後に修復した、パテの跡が見て取れる。そしてその顔と冠は、あの聖痕があった横須賀の帝釈天像に似ていると思う。
参照:123.柴又帝釈天の1779年
誰かがここで張大帝に棕櫚の葉を持たせて、キリスト像に作り替えた、そう私は想像する。根拠はない。でもイタリアにあるAndreaDelCastagnoのフレスコ壁画(1447年)を見れば、似ていると思える。この壁画のキリストの聖痕は左手の甲にだけ見える。それは建長寺の張大帝像や横須賀の帝釈天像と同じなのだ。
参照:AndreaDelCastagnoの壁画
キリシタンから北条幻庵の忍者へ、鎌倉の建長寺を中心に、どうどうめぐりをしてみた。
キリシタンは遠い九州の人達ではない。見ようとすれば江戸時代の日本中にその痕跡がある。キリシタンが作った日本化された舶来文化は、江戸時代から日常的な習慣、常識になっていて、宗教色が無くなってしまい、たくさんの棄教した人達によって継承されてきた。としよう。
後にはただ、意味も無い言いがかりでターゲットを排斥しようとする弾圧とその仕組みだけが厳然と残った。
その仕組みと「キリシタンなどはいない」と言う忌避が、今もある。
イジメだったりパワハラだったりする「そんな事件はありませんよ」という体質は、江戸幕府の政策が今も生きている証拠だ、と私は思う。
それはなぜ残っているのか。キリシタン禁教令が宗教者への弾圧ではなく、すべての人に対する弾圧だったからだ。いつでも、町人だろうと殿様だろうと、死刑に追い込むことが出来る弾圧に、変貌していった。そう語られていないから、今も効力を発揮しているのだ。
それがどんなに恐ろしい事だったかが、語られていない。
「キリスト教徒には恐ろしい禁教令だっただろうけれど、私たちには関係がなかった」と、そう言い続けている限り、江戸時代の仕組みは生き残っていく。
見ようとしないなら、存在しない。存在しないものにNoと言うことは出来ない。だから、織田有楽斎ジョアンの墓について語りたい。張大帝の左手について語りたい。鎌倉五山の第一の建長寺にも、ある時代にはキリシタンの影響があった。それは建長寺の深い歴史のひとこまだ。そう思う。
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