徳川家康の次男である秀康は、豊臣秀吉の養子になった後に結城晴朝の養子になり、結城秀康と名乗ったそうだ。慶長5年(1600年)、越前国北庄(きたのしょう)の藩主になって、5歳の長男を連れて福井県福井市にやってきた。その子が松平忠直(1595-1650)。家康の孫にあたる。
江戸時代の殿様を調べていくと、「乱心、乱行」のために罪を得て追放あるいは死刑になった殿様に何人も出会う。切腹した松平忠長や、監視付きの流罪の忠直、「殺生関白」と言われた豊臣秀次、17歳で変死した暴君の豊臣秀保、重臣3人とその子4人を殺した乱心の松平忠充、うたた寝をしながら腹を切ってしまった(!?)松平忠章。そのうちの一番有名な人が松平忠直(ただなお)さんだ。正室(二代将軍徳川秀忠の娘)を斬殺しようとして侍女を殺してしまったという。彼がなぜ「乱心」とされたのか。それに答えた本が「忠直乱行」中嶋繁雄著 1988 立風書房、である。読んでみた。ものすごく面白かった。
「空から美女の絵が降って来て、その美女を探し当てたが、笑わない女だった。彼女の望むままに処刑を見せたら、とても喜んだので、それから次ぎ次に殺戮が繰り返された。」そんな忠直の物語にひそむ真実が次々に明らかになっていく。本の最後は著者が忠直の墓を見て、その特異な墓の文様を解読する場面だ。
豊後で側室のお蘭が亡くなった。その時中直は28才。彼女の墓と同じデザインで自分の墓も作って、翌年に亡くなった娘の墓とあわせて3つの墓が仲良く並んでいる。大分市東生石にある浄土寺のその墓は、忠直が生前に作らせた墓であるから、彼のメッセージが表れているはずなのだ。
大分市歴史資料館が開館20周年記念特別展として、平成19年10月19日から11月25日まで開催した展示会のテーマが、松平忠直だった。「時代を駆けた風雲児 松平忠直」と題したその展示会の図録が、私の手元にある。そこに忠直の墓の写真が載っている。その墓の模様を見て、私はある記号を思い出した。
鎌倉市雪ノ下にはお香の専門店がある。室町時代から発展した香道は茶道とともに日本独自の文化になっていった。聞き香や組香という楽しみを生み出したのだ。主人が出した香炉の香りを聞いて、その香りを記憶する。2回目に出された香りと最初の香りと、同じか違うのか。それを5回繰り返して香りを聞き分ける遊びを組香というのだそうだ。
始めと2番目が同じ香りで、残り3回が別の同じ香り、だったらmnという記号を書く。始めと2番目が同じ香りで、3番目が別の香り、残り2回がまた別の同じ香り、だったらnInだ。5回の香りのすべての組み合わせが52種類あって、数学的な記号である。この記号を源氏香と言って、あの紫式部の源氏物語54帖の題名を付けられて、優雅な文様となっているのだ。先のmnなら10番の賢木(さかき)、nInなら28番の野分(のわき)である。そして忠直の墓に描かれた線描模様は、44番目の竹河(たけかわ)だ。
源氏物語の竹河では、主人公の薫の君が玉鬘へ恋の和歌を贈る。その歌
竹河の 橋うちいでし 一節に
深き心の 底は知りきや
キリシタンだった松平イグナチオ忠直の深き心の 底 を、いったい誰が知っていただろう。墓に彫られた記号が呼び出す歌に、忠直の本心が表れていないだろうか。
源氏物語の竹河とは、催馬楽(さいばら)という古謡の題名でもあるのだそうだ。その唄を読んで、とても心を打たれた。
流罪になった忠直の、28才の声が、蘇った様に思えたのだ。
竹河
竹河の 橋の端(つめ)なるや 橋の端なるや
花園に はれ 花園に
我をば放てや 我をば放てや 少女(めざし)たぐえて竹河の 橋の端なるや 花園に
我をば 放てや 少女たぐえて
竹河の橋を渡った向こう側、橋のたもとにある花園に、私を放ってくれ。あの子も一緒に。
これはたとえば、伊勢の斎宮に仕える少女に恋をして、追放される男が歌う、そんな夢の様な美しい歌だ。
参照:サエダの歴史ちっくな日々
そして河の向こう岸の花園で、年上のお蘭様と一緒に、幸せになりたかった忠直の夢が、見えるようだ。この後彼は27年間生きて、一伯さんと呼ばれ、人々に親しまれて、1650年に大分の津守で亡くなった。55歳。彼は残虐な暴君ではなかったと「忠直乱行」の著者 中嶋繁雄さんは語り終える。源氏香による解釈は私の想像だけれど、私も中嶋さんの説に賛成だ。
追記:大分市歴史資料館から忠直展の図録を購入した時に、「大分の文化財ガイド」という地図も買った。25,000分の一の地形図でとても詳しいものだった。
「忠直荻原館跡」からまっすぐ東向きに道路が走っていて、4km先に「岡藩御茶屋跡」があった。岡藩とは豊後竹田の岡藩、中川久清さんのお茶室だろうか。北鎌倉にあった東渓院を建てた人だ。
参照:110.東渓院菊姫
忠直が荻原に来たのが元和9年(1623)28歳、この時中川久清は8歳。忠直が55歳で亡くなった時、久清は35歳。岡藩主になるのは3年後だ。彼らは知り合っていると思う。そういえば、忠直のお母さんは中川氏とウィキペディアに書いてあった。
お蘭さまの死後、忠直は荻原館から津守の館へ引っ越している。「大分の文化財ガイド」を見て、私は激しく胸を突かれた。「松平忠直津守館跡」と書かれた場所は大分川のほとりだった。館の西に、西方浄土かあるいはバチカンのある西方に、竹河ならぬ大分川が流れていたのだ。そして対岸には「花園」があった。バス停「花園」と「花園遺跡」があったのだ。
竹河の 橋の端なるや 花園に
我をば 放てや 少女たぐえて
北ノ庄藩主だった徳川家康の孫、忠直。長崎でキリシタンの弾圧を指揮した府内藩主釆女正(うねめのかみ)重義によって監視され続けた忠直。
参照:大分県の文化財 サンチャゴの鐘
追放のはての館で、「竹河」を謡うこともあったのかもしれない。その時に「少女たぐえて」 とは、若くして亡くなった娘のおくせ だったかもしれない。
そして忠直の墓の線描模様は、本当に源氏香の竹河だった。私の妄想ではなく、それは忠直の声なのだ。そう、思った。
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