江戸は世界一の人口を持つ都市になり、独身男性の独り住まいが多かったそうだ。外食産業が生まれて、ラーメン、ハンバーガー、フライドチキンといった感じで、ソバ、スシ、テンプラの屋台が並んだ。
そば屋の名前には○○軒や△△庵が多いけれど、「軒」や「庵」は、お茶室の名前にもなっている。それはお寺にある小さな住居のことで、お坊さんがお寺にやって来たお客をソバやお茶でもてなしたことに由来するのだろうと思う。
ソバは元々「そばがき」で食べられていて、麺に仕立てて食べるのは、いかにも中国から来た外国の文化、お寺にふさわしい風景だったのだろう。 江戸っ子はソバを食べる。そうめんやうどんよりも、ソバだ。落語にも出てくる。お酒の相手もソバだ。そのお江戸の人口を支えたソバはどこから来たのだろうか。
蕎麦はこんにゃくと一緒で、荒れた山間の農地でも収穫できると聞いたことがある。米や麦のとれる良い農地は、古くから住む豪農のものであって、たとえば京都や江戸から流罪になった人や、武士をやめて農民になった人達は、村はずれで蕎麦を作る事から始めたのではないかと思う。そう、キリシタンで捕まった人達はみんな殺されたわけではない。流刑になって、慣れない土地で隠れて信仰を守った人達もいたのだそうだ。だからといって蕎麦の産地が、キリシタンの村だと言っているのではない。室町時代の頃にできたという「そば切り」は甲州から信州にかけての宿場町で、お客をもてなすのに大量に消費された。蕎麦の生産は新しく農地を開発した人達にも、生活の糧になったと思うのだ。
それまで各街道は戦国時代そのままの、無法地帯でもあったらしい。それを、生類憐れみの令を出した5代将軍綱吉が、街道を安全に行き来できる様にしたのだそうだ。それで移動する人が増えて、江戸にどっと人が集まって来て、江戸っ子ならソバ喰いねえ、の時代になった。江戸の人は蕎麦の産地の人達を応援したのだ。消費者が積極的にキャンペーンを張ったのだ。と思う。松尾芭蕉が「俳語とそばは江戸の水に合う」と言ったと、HP「そばの歴史、江戸初期のそば」に書いてあった。彼も蕎麦産地の人達を支えたのだろう。「芭蕉」という人はキリシタンを調べていると、なぜか出会う人でもある。
参照:「そばの歴史」「江戸初期のそば」
江戸のソバの売り初めは、お菓子屋さんが蒸して売ったのだそうだ。今でも和菓子屋さんにはお赤飯やお餅が並んでいて、それでランチになってしまうこともある。
お菓子の神様は大黒様で、お菓子屋さんは大黒様にお参りをする。その大黒天像は米俵に乗っていて、俵にかけた縄が見事な十字の模様になっている。キリシタンの人達はそのクルスに向かってお祈りをしたのだそうだ。お菓子屋さんがみんなキリシタンだったわけではない。お菓子屋さんと一緒にいるとキリシタンの人達は住み易かっただろうと思うのだ。
そしてお菓子にはお茶が付く。お茶人の千利休という人も、限りなくキリシタンに近い人だ。
そば切り発祥の地と宣伝している所が山梨県から長野県にかけて、何カ所かあるらしい。その一つに、山梨県甲州市の天目山栖雲寺があった。蕎麦切り発祥の地 天目山栖雲寺と彫られた石碑の写真がネット上にあった。
参照:まちミュー甲州市大和バスツアー
私は蕎麦の産地を探していたのだけれど。
この栖雲寺に虚空蔵菩薩の画像があって、それが有馬プロタジオ晴信の生前の姿であると伝えられているのだそうだ。
113.徳川直轄地のキリシタン
1612年(慶長17)の岡本大八事件で、贈賄の罪を得た有馬晴信は呼び出され、栖雲寺の近くに住んでいたのだそうだ。最寄りの大和駅の近くに、有馬晴信謫居跡という碑があるらしい。ここで彼は切腹を言い渡されて、キリシタンなので自殺を拒否し、斬首されたのだという。
栖雲寺に残る絵は十字架を持った絵なのだそうだ。
蕎麦の根が赤いのは鬼の血の赤い色だという。ソバをたぐる時には有馬プロタジオ春信の45年の人生も思い出してみたい。
追記:「きんつば」というお菓子がある。江戸時代中期に京都でできたお菓子「ぎんつば」(貞享年間1684ー87)が、江戸に来て「きんつば」(享保年間1716ー35)になったのだそうだ。餡をコロッケ型に作って、溶いた小麦粉をつけ、天地と側面を鉄板で焼く。あんこがたっぷり食べ易くなっている。日本刀の鍔(つば)の形を模していて、それが「銀」よりも高価な「金」になったのだ。
金鍔次兵衛は洗礼名をトマスと言うそうだ(1600年〜1637年)。神出鬼没の伝説の宣教師だ。彼の刀の鍔が金色だったから、あだ名が金鍔(きんつば)。長身の目立つ人だったそうだ。
1614年にマカオに追放され、1620年に伝道のために日本に戻り、2年後にマニラに渡って司祭になった。1631年に変装して再度帰国し、弾圧の当局である長崎奉行所の馬丁になって、牢内の宣教師や信者達の至る所に出没。37才で亡くなって日本の178殉教者の一人になったのだそうだ。
キリシタンと同じ名のお菓子が、江戸時代になぜあったのか、ずっと不思議だった。でも今はよくわかる気がする。幕府のお膝元で、「銀」と言っていたものをわざわざ「金」と言い直して、江戸の町民はそれを人気のお菓子に持ち上げたのだ。甘くて美味しいからだけれど、それだけではない。と思う。
キリシタンが隠れて見えなくなった頃、江戸の文化人達は御禁制のキリシタンを学び直していたのではないか、と思っている。医学や算学、俳句や狂歌、茶の湯。江戸人はお稽古事にも熱心だった。そのお稽古仲間で、キリシタンがもたらした新しい文化を、学び直していたのではないか。キリスト教が禁止なのはなぜなのか、信者になるのではなく、キリシタンの文化を覗く人達がいたのではないか。江戸幕府がそんなにも厳しく取り締まるわけを知ろうとしたのではないか。と思う。
鎌倉に残るたくさんのキリシタンの痕跡を、見つけていくたびに、キリシタンとして生きた人達の強い心を思う。そしてそれ以上に、彼らを見守って遺物を守って来た、キリシタンではなかった人達の存在を確信するのだ。それは江戸時代を生きていたふつうの人達であって、恐ろしい処刑や密告を嫌う、したたかでたのもしい人達でもあっただろうと思う。
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