鎌倉市扇ガ谷の扇谷山海蔵寺の前に鎌倉十井の一つの底脱の井(そこぬけのい)がある。それは今も美しい水をたたえている。他の十井は水がほとんど流れていないことを思うと、ここの美しさは際立っている。
参照:106.鎌倉の占星台
海蔵寺には不思議な十六の井もある。やぐら(鎌倉時代の岩窟墓地)の中に16個の丸い凹みが掘られていて、そこに水が溜まっている。この地は清らかな水が流れる場所なのだ。
扇ヶ谷という鎌倉の中心地には英勝寺がある。家康の側室の英勝院のお寺だ。有能な側近秘書だった人のオフィスである。向いには薬王寺がある。織田信長の曾孫の松孝院が再建したお寺で、夫であった松平忠長の供養塔がある。忠長は江戸幕府三代将軍の徳川家光の弟だった。扇ヶ谷とは幕府直轄地の鎌倉の最も徳川家の色濃い場所なのだ。幕府のお膝元。それはひっそりと暮らす人達にとっては、「江戸に次ぐ最も安全な場所」であったのかもしれない。
美しく枝垂れている萩の階段を上って、海蔵寺の御堂の前に立つ。左手に石灯籠が見えて、そちらへ目を誘われる。と、その先にもやぐらがある。
やぐらの中にはお墓が2つあった。昔からここにあったお墓なのだろうか。その真ん中に不思議な塔がある。風化しているけれど美しい姿だ。やぐらの丸いドーム型の天井にあわせて、バランスよく立っている。
両側のお墓が無かったら、どう見えるだろうと想像してみた。この塔を灯籠だとすると、火を灯すところがとても小さくて、明かりが前にしか出ない。やはり不思議な塔だと思う。
その隣にも広いやぐらがあった。その床に井戸が掘ってある。そこからも清水が流れ出していた。井戸の前に鳥居が立っていて、宇賀神がお祀りしてあった。洞窟の中に鳥居があるのだ。興味深いと思う。
TVで聖ヨハネの洗礼の泉といわれる遺跡を見たことがあった。それも岩窟の岩の床に小さく掘られた井戸だったと、思い出した。
この海蔵寺は源翁禅師が開いたお寺として有名だ。謡曲「殺生石」では玄翁和尚という名で登場している。那須の殺生石を打ち砕いた人なのだ。
謡曲「殺生石」について再読してみた。
鳥羽上皇の時代に(1129年ー1156年)玉藻ノ前という美しい寵姫がいた。ある夜、玉藻ノ前の全身が金色に光るのを見て、鳥羽院は恐ろしくなる。陰陽師の安倍泰成が召し出されて、玉藻ノ前の正体は狐であると見破った。狐は下野国(栃木県)の那須野ノ原に逃れ、その地でも人々をまどわせた。
それで鳥羽上皇は数万の軍勢を那須に送り、その狐を討ち取らせた。狐は死んで殺生石になり、それからも石の近くを通る人や鳥を殺し続けた。
その後に玄翁和尚(源翁禅師)が通りかかり、玉藻の前の霊に出会う。その話を聞き狐を成仏させると、殺生石は二つに割れて正体を現し、二度と悪事を働かないと誓った。
参照:謡曲「殺生石」現代語訳
伝説には尾ひれが付く。玉藻ノ前の物語が時代を超えて愛された証拠でもある。
石は粉々になり日本中に飛び散って、三カ所の高田という地に落ちたと言う。
その場所は、越後高田、安芸高田、豊後高田だという。美作高田だという説もあり、豊後竹田の大船山に石は飛んだという説もある。それはきっと江戸中期から付け足したウワサなのだろうと思う。
越後高田(新潟県上越市)には上杉氏の城があった。+その城を改修したのが松平忠輝だ。徳川家康の六男である。伊達政宗の娘のキリシタンだった五郎八姫(いろはひめ)を娶った。松平忠輝は1616年に改易になり、五郎八姫を親元に帰して、91歳で亡くなるまで幽閉されて、許されることはなかったそうだ。
安芸高田(広島県安芸高田市)には毛利元就の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)があった。
+キリシタン嫌いな元就の孫の毛利輝元は、1582年(天正10)に方針を変た。部下がキリシタンになることを許したのだ。吉田郡山城下で、たくさんの家臣が入信したそうだ。
輝元と正室の 南の方 の、両方の叔父にあたる毛利シマオ秀包は大友宗麟の娘のマセンシアを正室に持つ。この時代にキリシタン大名は何人も居たのだ。
毛利輝元が関ヶ原の戦いで敗北した時には、領内に邪宗門をゆるし保護したための敗北だという風評が広まったそうだ。
後に広島城を建てて移転。郡山城は廃城になった。
ところが島原の乱の後に、キリシタン一揆の本拠地とされることを警戒されて、郡山城は徹底して破壊されたそうだ。
参照:お城スコープ 吉田郡山城
+家臣の熊谷メルキオル元直(くまがいもとなお 1555-1605)は黒田シメオン孝高(如水)の影響で熱心なキリシタンになり、毛利領のキリスト教庇護者として赴任の先々に教会を作ったそうだ。
毛利輝元が広島から萩へ減封になった時に、萩の指月城建設の際の罪に問われて殉教する。ウィキペディアには「毛利領内のキリスト教関係者の多くが処刑された。」とあった。
2007年、ローマ教皇庁は日本の殉教者188人を聖人に次ぐ福者に列福し、様々な関連行事が九州各地で開催された。熊谷元直も福者になったのだ。
参照:キリシタンの軌跡を追え!1(旧萩市編)
豊後高田(大分県豊後高田市)は+大友フランシスコ宗麟の地。高田の鋳物師集団が大友宗麟に収めた「国崩し」は日本初の大砲なのだそうだ。
日本に理想のキリスト教国を作ろうとした宗麟の死後、大分にも例外無く弾圧はやってきた。
+大分市の大野川と乙津川の中州にある高田地区では、およそ200人が殉教したのだそうだ。そのあたりにキリシタン殉教記念公園が造られて、往時を偲ぶことが出来るらしい。
殺生石が落ちた地は豊後高田市なのか大分市なのか、どちらだろうか。
美作高田(岡山県真庭市勝山)は+備前岡山57万4,000石の大名、宇喜多秀家(1572-1655)の地。
前田利家の娘のキリシタンだった豪姫が正室だ。秀家はキリスト教への改宗命令を出し、日蓮宗が多かった家臣団に反発されて宇喜多騒動がおこったそうだ。
関ヶ原の戦いで敗北。家康によって改易。
1606年(慶長11)に伊豆諸島の八丈島へ流罪となった。83才で八丈島で亡くなっている。
+宇喜多秀家の姉を正室にした明石掃部守ジョアン・ジュスト全登(1566-?)。彼は花クルスの旗を立てて大阪城で戦った後、行方知れずになる。数回に渡る「明石狩り」にも発見されず伝説になった。彼は美作で武士を棄て、帰農したと言う記録があるそうだ。
参照:ウィキペディア
真庭市勝山には化生寺があって、那須から飛んできた殺生石がそこに今もあるらしい。
豊後竹田の大船山については110.東渓院菊姫 北鎌倉と豊後竹田に書いた。江戸時代に生きた人にとって「鎌倉」とは、御禁制のキリシタンをも守ってくれる里、ではなかったか、と考え出した、発端のエピソードだ。
玉藻ノ前が化した殺生石の一部は日本の3カ所に落ちたという。それは玄翁和尚の手を離れて、玉藻の前のパワーが復活した場所を示している、と思った。
それならば、玉藻ノ前という妖怪は中国からやって来たキリスト教、ではなかったか。フランシスコ・ザビエルが日本にやってくる以前から、キリスト教は日本に入っていた、その記憶を、玉藻ノ前は表現しているのではないか。
玉藻ノ前あるいは九尾の狐とは何だったのか。もう一度見直してみる。もちろんそれは、キリスト教じゃないのかな、という色眼鏡で見直すのだ。
玉藻ノ前が鳥羽上皇に仕えたのが1129年から1156年の間。上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、それが原因で保元の乱が起こったと言う。彼女が玉藻ノ前のモデルなのだ。
後に天竺から来た九尾の狐というキャラクターに成長して、3カ所の高田という尾ひれが付いたのだ。
玉藻ノ前の正体は白面金毛九尾の狐だという。白い顔で毛は金色だという。
一般に毛の色というと黒、白、茶、金、赤、灰色だ。青い毛色とか紫色の毛というのを聞いた事がない。つまり、実際に見た経験のある毛色を昔から語っているのだ。だからブロンドという毛色を昔の人達も知っていたのだ。多分、西域の人達を暗示したのだろう。
九尾というと、9本の尾があったということだ。狐は尾をしごいて狐火を灯すという。九本の尾の先に火が灯るのを想像する。それは七枝の燭台に似ていないだろうか。
7本のロウソクが灯った燭台を手に持って掲げると、燭台の足も入れれば9本の尾になるだろう。
平安時代の十二単を着た女官は髪を長く後ろに伸ばしている。それで動き回ったら髪や絹がいつも擦れていて、冬には静電気がたっぷり溜まる様な気がする。でも彼女達は裸足で暮らしたので、足がアースになっていたはずだ。
その同じ衣装を着て、玉藻ノ前だけが異国風の室内靴を履いていたとしたら。彼女だけは帯電して、指先から青い火を飛ばしたかもしれない。その7枝の燭台に手を伸ばした時に、火花が散るのを見たら、それはきっと恐ろしいアヤカシに見えただろう、と思うのだ。
陰陽師の安倍泰成は解決方法を提案する。泰山府君祭を準備して玉藻ノ前には五色の御幣を持ってもらいましょう。つまり、祭りの主役を彼女に振り当てるのだ。
その計画を聞いて、玉藻ノ前は逃亡する。異教の祭りを自分で行なう事は出来ないからだ。
それで玉藻ノ前は西域の文化を担う人だとバレたのだ。ユダヤ教徒なのかネストリウス派キリスト教なのか、その区別は必要なかったのだろう。古代からシルクロードの人達は日本にだって入って来ていただろうと思う。
中国の唐の太宗皇帝に公認された(638年)ネストリウス派キリスト教は景教と呼ばれたそうだ。その教会を大秦寺といい、ローマ帝国寺という意味だそうだ。
その後、781年に「大秦景教流行中国碑」が作られる。そこには十字架と古シリア文字と聖書の内容、中国での布教の歴史が書かれていた。「アブラハムやパウロら17人の神職」や「高僧ゲワルギス」の名があるらしい。
空海や最澄が乗った最後の遣唐使船は839年に帰って来ていて、景教の資料も輸入されたのだそうだ。
参照:方壷島蔵経閣 大秦景ア流行中國碑頌
638年から781年の間に古事記と日本書紀の完成が入る。あの聖徳太子の伝説が入るのだ。厩で生まれた王子の伝説だ。
長屋王の時代、藤原四子の時代、万葉集の大友家持の時代でもある。
さらに、桓武天皇の子の葛原親王が自分の子供達のすべてに平(たいら)の姓を与えたのが825年だ。
長子も末子も区別無く、女児も男児も、すべて臣下に下して等しく平の姓を名乗らせたのだ。
子供達を天皇制に組み入れなかった葛原親王の考え方の元が、神の下の平等から来ている、ということもあるかもしれない。
キリスト教徒だというのではなく、キリスト教的文化が広がっていたという意味だ。
藤沢市から鎌倉市にかけて伝わる葛原親王の伝承は、この地の人達が彼の思想を讃えていたという事だ。と思う。
参照:71.頼朝以前の鎌倉(星の道3)
後に鎌倉幕府は貞永式目で私有財産権を「本領安堵」と言って認めたのだそうだ。女性も私有財産を持っていたのだ。世界で一番古い、人権を表記した法律だそうだ。
狐について書くスペースが無くなってしまった。
鎌倉の海蔵寺は1253年(建長5)建立の、臨済宗建長寺派の古刹である。建長寺にキリシタンの痕跡があるように、海蔵寺の庭にも江戸時代のキリシタンの痕跡があると、思う。
そして海蔵寺には玄翁和尚が持って来た、那須野ヶ原の「殺生石のかけら」があるらしい。つまり海蔵寺にも殺生石が落ちたのだ。ここも、玉藻ノ前のパワーが根付いた地、であったのだ。
だから、私が敬愛する俳諧師の大淀三千風がここ扇ヶ谷に来たのだ、と思った。そこに気がついた時に、私はなんだかとても感動してしまったのだ。
参照:132.鎌倉に来た三千風
参照:121.大淀三千風の1686年 旅する江戸人3
参照:122.大淀三千風の鴫立庵