鎌倉市材木座の浄土宗帰命山延命寺には「身代わり地蔵」という北条時頼夫人の守護仏がまつられている。北条時頼は謡曲「鉢の木」で諸国を回ったという伝説とともに語られる鎌倉幕府第5代執権だ。
参照:謡蹟めぐり
私は大船の住民をいじめた悪役として書いたけれど。
参照:108.常楽寺 無熱池の伝説 このお地蔵様は女性の体をしているのだそうだ。「すべての観音はマリア像の代わりとして見られたのではないか。」という見かたをすると、江戸時代にはきっと、小袖を頭からかついで、ベールの様に装ったお地蔵様だったのだろうと思う。気品あふれるお顔立ちの地蔵菩薩像だ。
このお寺に「古狸塚」がある。江戸末期に寺に住み着いた狸がいて、和尚さんの為にお使いもして、皆に可愛がられていた。そのお墓なのだそうだ。
参照:鎌倉の寺 小事典 かまくら春秋社
タヌキの墓だったらもっと簡素なものだと思うけれど、これはまったく墓石の形をしていて、名前を名乗らなかった誰かの墓だ、と思うのだ。どこからか来て、お寺の宗門人別改帳に載らなかった人が、ここに居たのではないか。
発覚するとお寺も庄屋さんも罰せられるから、居ないことになっているのだけれど、良い人で、ちょうどフウテンの寅さんのように、いつかは旅立つ人。お寺の和尚さんやこの地域の人達は、黙ってその人を気遣っていたのではないか。と思った。
古狸塚はダイヤ形とギリシャ十字の形が目立っている。優しい旅人の死をきっかけに「古狸塚」を作って、このお寺で十字架を拝む事が出来るようになった。そういう事だったのではないか。
江戸時代の庶民は柔軟でしたたかだ。用心深く大胆な彼らの日々の一片がこの塚にも残っている気がする。
太陽がまだ高くて「古狸塚」の建立の年号が読みとれなかった。嘉永2年酉 1849年だろうか。四月++七日と読んだ。春分の日の最初の満月の次の日曜日がイースター、復活祭だそうだ。その2日前の金曜日に十字架上で亡くなったキリストが生き返った祭日である。1849年の復活祭は新暦の4月8日だそうだ。
参照:会津キリシタン研究所 庚申塔
そこから日を数えて、古狸塚に彫られた(旧暦の)4月27日は、昇天祭の日曜日にあたるだろうか。
古狸塚に新しい花が供えてあって、とてもいい香りがした。今も大切にされている江戸庶民の遺物だ。それはお寺のペットのお墓ではなくて、名を表さずに亡くなった、慕われた人の墓ではないか、と思った。
異教の人がお寺の中で和尚さんと一緒に暮らしていた。それはどんなに心温まることだっただろう。それは鎌倉という町の人々の誇りでもあると思う。
「キリシタン」という言いがかりをつけて、気に入らない人を抹殺しようとする事例が、江戸時代にはあるのだそうだ。それは64年前に、「非国民」と呼ぶ暴力が蔓延した時代を思い出させる。そんなに古い話ではないのだ。そして今でもアメリカの9.11以来、マイノリティーを徹底的に叩く暴力として支持され続けている。江戸時代の延命寺の和尚さんとたぬきさんは、21世紀の今をどう見るだろうか。
鎌倉でタヌキと言えば、建長寺の山門が有名なのだそうだ。別名タヌキ門。建長寺の狸が僧侶の姿に化けて、山門の再建のために諸国を回って資金を集めたのだそうだ。お寺のお坊さんと狸というお話は、日本中にあるらしい。でもあえて、「狸」はキリシタンと変換してみよう。しょじょ寺の庭は月夜で、狸が人の姿になって、たくさん集まって来るのだ。二十三夜の月を狸は待っているのかもしれない。
江戸時代にキリシタンを隠している人達と、キリシタンではない人と、同じ村に一緒に暮している、そんなふしぎな均衡はどうして保てたのか。「キリシタン民衆史の研究」という本に丁寧に説明してあった。2001年に東京堂出版から出された大橋幸泰先生の本だ。
キリスト教の初期の頃から相互扶助の為のコンフラリアという「講」が教会に組織されていて、資金を出し合って困った人を助けるのだという。それはキリシタンではない人達へも適用されていて、葬式や病気など生活が困窮した場合に、物的人的な援助をしたのだそうだ。だから村の人達はキリシタンの組織があることを歓迎したのだ。
宗教の部分だけ隠してくれたなら、キリシタンは従順で勤勉な農民で、幕府にも都合の良い人々だった。そういう新しい視点で、大橋先生はキリシタンを語る。
その相互扶助の資金を「慈悲のぶんぐこ」という役職の人が管理して「ウエタル人ニ、食ヲアタユル事」を実践していたのだそうだ。「ぶんぐこ」の意味はわからないらしい。それで私は「ぶんぷく茶釜」を連想した(
笑)。ぶんぷく茶釜とは「福を分ける茶釜」という意味で、分福茶釜と書くのだそうだ。煮立った湯の中にお金がざらざらとある風景だ。教会にはお茶室が造られていたそうだから、ぴったりだ。
タヌキ、資金集め、分福講、諸国漫遊、、、狸に化かされたつもりで、もう一つ狸を呼んでみる。
あんたがたどこさ。肥後さ。
かつて流行った子供達の手まり歌だ。
熊本どこさ。せんばさ。
熊本市には今も船場(せんば)町があって、米屋町や魚屋町が運河の岸に並んでいる。街道を走って来た伝馬の馬体を冷やす為に、この運河が使われたかもしれない。洗馬と書いてせんば、だ。あるいは千波、千葉だったかもしれない。
せんば山には狸がおってさ。
肥後の熊本のせんば山に狸が居ると繰り返す手まり歌は、美味さ(うまさ)のさっさ。で終わる。2番の歌詞は、エビを漁師が獲るのだそうだ。
狸をめぐる謎は深い。
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