東日本大震災で被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。 +キリシタンと江戸文化+ +
始まりがあれば終わりがあるもので、このHP「鎌倉、まぼろしの風景」も、macのhomepageが無くなるので消えてしまいます。 それで新しくブログという場所で、沸き出す謎を書き留めていくことにしました。 鎌倉、まぼろしの風景(ブログ) 過去の記事は少しずつ移動中。間に合うだろうか、、。 鎌倉、まぼろしの風景(HP)
なのに鎌倉には不思議な伝承がまだまだ沢山あって。知りたいことばかりで、語られていないことばかりで、鎌倉の魅力は尽きないのです。 +203.謡曲「隅田川」と田代城主 能の演目の隅田川は、上演されることの多い人気の演目だ。まったく能に縁の無い私でも知っているほど有名で、歌舞伎や人形浄瑠璃にも、何度も翻訳されている。
+ 人買いに連れ去られた幼い息子を探して、都から東国の隅田川までやって来た母は、渡し船に乗せてもらって悲しい事実を知る。昨年ここで病死した稚児の法要が対岸の塚で行われるという。その梅若丸が我が子であるとわかった。 息子に会いたいと、恥も外聞も捨てて街道をさまよった母は、狂女と呼ばれている。 その思いは果されなかった。哀れに思う人々の前に奇跡が起きる。梅若丸の幽霊が現れるのだ。
母は喜んで抱きかかえようとする。しかしそれはかなわない。 会えて嬉しい、しかし息子は死んでしまった。悲しい、嬉しい、悲しい、、。 母の想いは乱れる、、。そういう物語だと、思っている。
+ 観世元雅(1369?-1432)が作ったこの演目の上演方法について、稚児の姿を舞台上に出す演出方法と、稚児を出演させずに、母の幻覚として演じる方法があるのだそうだ。 稚児の姿を母と一緒に舞台に上げるのが、作者の本来の意図である。 子を思う親の普遍的な姿を演じて、見る人の涙を誘う。人気の演目だ。それが陳腐にならず今日まで続いたのは、別の読み方があったのではないかと、思いついた。 神奈川県寒川町の勝楽寺に行って、内藤秀行の墓を見て、龍角山福泉寺や海底(おぞこ)や、小動(こゆるぎ)村を訪ねてから、半年たって気づいた事だ。 15世紀に作られた演目を上演することで、口に出して語ることが憚られる現在(17世紀)の事実を伝えている。人々に、ああそうだったのかと、教える。 知っている人が、あれは田代(たしろ)の殿様のことだと、切り紙伝授の様に耳打ちすれば、別の世界が広がって見える。 そういう見方が、謡曲隅田川にあった、としたら。 証拠の無い妄想を私も寸劇の様に書いてみたい。主役はご贔屓の大淀三千風にしよう。
+ 現代の都、江戸から、僧形の連歌師がやってくる。 「私は大淀三千風と申す売僧坊(マイスボン)。 陸奥国磐城平の殿様、内藤義英様の御依頼で、内藤秀行の墓を探しに参りました。 小田原北条氏の下で奥三保を支配した彼のゆかりの後をたづねています。」 武蔵国から相模川を超えて田名から角田(すみだ)に入る。角田を流れる中津川を南に渡ると、満珠山勝楽寺の伽藍が見える。そこに探し求めた内藤秀行の墓があった。
曹洞宗満珠山勝楽寺・田代半僧坊(神奈川県愛川町) 墓前で真言を上げる三千風。そこに和尚が登場して、秀行の位牌を見よと本堂へ誘う。
そこには秀行の亡くなった日が書いてあった。 内藤秀行 松渓院孝山宗忠 天正11年8月10日卒(1583) 彼の妻 寿性院茂林慶繁 天正14年2月21日死(1586) + 永禄12年(1569)10月7日の三増峠の戦いは、両軍あわせて3〜4万人という最大規模の山岳戦だった。勝楽寺からわずか2kmほど北の地域である。武田信玄は47歳、知力に勝っていた。一方、北条氏邦、氏照と玉縄城の北条綱成は小田原城の北条氏康を待たずに開戦。双方あわせて4000人の死者を出す激戦になった。この三増合戦の直前に田代古城は落城したと言われている。 田代古城で武田の軍勢と戦った内藤秀行が、戦いに敗れて散りじりになり、軍勢が山の尾根を越えて逃げて行ったのは1569年の事だった。 戦国時代に、城とともに多くの武将は死んで行った。しかし田代古城については、みな山へ分け入って逃げたと、伝承が残っている。 落城した1569年に、内藤秀行は死ななかったのだ。位牌に書かれた命日を見れば。 それから悠に14年、秀行は老後を生きたのだ。妻と過ごした14年があった、それは武士を捨て農民になって、名を隠した暮しであったのだろう。 自殺しないのはキリシタンの信条と同じだ。 その事に三千風は気付く。和尚さんにゆかりの地を訪ねたいと告げる。 和尚さんは黙って、角田の川の上流を眺める。それで全てが分かったのだ。 川の上流に、小さな耕地のある館があった。 そこまで行き、三千風は一夜の宿を求めた。その夕べに三千風は語る。 江戸から来た事。内藤義英の依頼で、勝楽寺の墓に詣でた事。 内藤秀行の位牌を見た事を告げる。 館の主は涙を流して答えた。 「それはこの館のことでございます。ここで秀行は生涯を終えました。そこに座っているわらべが秀行の末裔でございます。」 滅亡した内藤秀行の墓を求めてはるばるとやって来た三千風は、思いもよらず、赤い頬をした少年に出会った。 内藤秀行は百年前に亡くなっている。しかし彼の形見は、この中津川の岸辺で存続していた。それは塚から現れた稚児の幽霊の様に思われた。 この地では未だに小田原北条氏の時代の光が、消えずに残っているのだと知った。 それは依頼主にとって嬉しい事でもあり、また非常に危険な恐ろしい事でもあったのだ。 それを報告しなければと、三千風は帰路についたのだった。
+ 謡曲隅田川には、稚児が実際に舞台に現れる演出と現れない演出とがある。 母一人が稚児の幻影を見るという舞台に稚児が出ない方が、より優れた演出だという人もいる。 子供を舞台に上げるのは、稚児の流行に乗った当時の人気の演出方法だという人もいる。 『相模の国の角田に、キリシタンが共存できた時代を思い出す秘密の里があった。』 そう告げたい人は稚児の幽霊を舞台上にあげて見せただろうと思う。 そうでは無く、そんな時代は消え失せて、今は全く徳川様のご威光で暮らしている、キリシタンなどとんでもない、というアピールならば、子孫が登場する場面はない。 隅田川をどう演じるか。それはそれぞれの武家の好みで違っていただろうと思う。 どの家がどう演じさせたか、皆周知の事実だったのだろう。 それを単なる演出方法の違いだと、公然と話す事ができた。 「私は稚児が出てくる方がいいと思う。」 「いや私は出ない方がいい。」 そんな風に穏便に信条の違いを表明できたのではないか。 能の名作隅田川にはそんな別の読み方があったのではないかと、 田城古城を調べて思いついた。
参照:相模原歴史シリーズ 三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍 参照:神奈川やまなみ五湖navi:名所・旧跡/隠川
追記1: イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは1956年に日本を訪れた。能の隅田川を基に教会の祭典用オペラ「カーリュー・リバー」を作る。母の前に息子の幽霊が現れる場面をキリストによる救いとして表現している。 追記2: 鎌倉市の比企ガ谷の南に、田代観音堂があった。この観音はいま祇園山安養院田代寺にあって、安養院の境内には田代と書かれた碑文がたっている。
安養院にある田代観音と書かれた石碑(神奈川県鎌倉市) 鎌倉時代の武家の田代信綱が作った田代寺の観音像だ。でも、江戸時代の人が聞いたら、まず田代古城を思い出すのではないかなと思った。 延宝8年(1680)に全焼した安養院はその後に田代観音堂を移築して再興。安養院には日限地蔵もあり、観音と地蔵の双対石像もある。北条政子を弔うお寺だから、美しい尼僧姿の政子像もあって、江戸時代には、マリア像のかわりになったのかもしれない、などと妄想してみた。
+
:::Top 最新の目次に戻る:::
***亀子***( 5 Dec. 2011-17 Feb. 2012 )
|
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
資料集 きっかけ はじめに メール*
亀子 ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ) |