+キリシタンと江戸文化+ +
183.芭蕉の見た闇 鳴海にとまりて (笈の小文) 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 松尾芭蕉は東海道の鳴海宿で下里知足の家に泊まった。千代倉という造り酒屋の当主である彼は、今夜は月がなくて風流に欠けて残念です、と迎え入れたそうだ。 芭蕉はこの句で応えた。月のない闇夜は星の美しい夜になる。鳴海宿の北1kmほどには織田軍に攻められて落城した星崎城があった。 星崎の西には鳴海湾があり、その歌枕は千鳥である。
月のない夜は闇を見よと千鳥も言っていますよ。 芭蕉はこの句を発句にして鳴海連中と歌仙を興行した。俳句の会を催してその記録を作品にしたのだ。 名古屋市緑区鳴海町山王山にある千句塚公園に芭蕉自筆の千鳥塚があるそうだ。芭蕉の存命中に建てられた唯一の句碑だそうだ。 参照:芭蕉句碑を訪ねて・千句塚公園 風物、地名を入れて、見事な句を芭蕉は残した。 だけど、一読して、ただならぬ気配を感じる。闇を見よ、とは何事だろう。 星崎城から2kmほど北に富部神社がある。徳川家康の四男である松平忠吉(ただよし)が社殿を作り隣に海雲山天福寺を神宮寺として創建して社領百石を寄進したのだそうだ。 慶長8年(1603)病身だった尾張清洲城主の忠吉はこの近くの天王社にお参りして病気が快復したのだそうだ。彼は慶長12年(1607)3月5日に、江戸の芝浦で急死する。27歳。労咳だったそうだ。この時、石川吉信、稲垣忠政、中川清九郎が殉死する。 彼の遺跡は名古屋にたくさんあるらしい。名古屋市中区大須にある大光院の烏瑟沙摩(うすさま)明王も彼の寺だそうだ。「世の中の一切のけがれや悪を浄める霊験があらたかであるといわれ、尾張名所図解に『毎月廿八日を縁日として参詣の諸人羣集(群集)をなす』とあり、それは今にも続いている。」と「徳川家康フォトストーリー」には書かれている。 参照:徳川家康フォトストーリー、松平忠吉 ところで。 前回の善知鳥について調べていた時に、病気で亡くなった津軽為信親子を知る事ができた。もう一度181.謡坂と善智鳥(うとうざかとウトウ)の追記を読んでみた。彼らの不思議な死を忠吉の死に並べてみる。 参照:181.謡坂と善智鳥 弘前藩初代の津軽為信、その長男の信健(のぶたけ)は豊臣秀頼の小姓だった。関ヶ原の戦いに負けて、敵方の東軍だった父の元に逃れた。26歳だった。石田三成の次男を津軽に逃し、その後も京都、大阪にいて藩と中央を結んでいたそうだ。お公家さんとも親交が深かったとウィキペディアにある。 彼は京都で病気になる。その時同じ病に冒された父が、信健のかかっていた名医に会うために上京する。慶長12年(1607)10月13日に信健は死去。33歳。2ヶ月後に父の為信も京都で死去。12月5日、58歳だった。 慶長12年に亡くなった殿様をもう一人並べてみる。結城秀康、越前北ノ庄藩(福井県)初代、徳川家康の次男だ。慶長12年に伏見城番になり、そこで病を得て越前へ帰国。閏4月8日死去。33歳。彼の息子松平忠直(ただなお)については、すでに2回書いた。
参照:133.「忠直乱行」を読む
参照:138.忠直とサンチャゴの鐘豊後竹田と北鎌倉
参照:110.東渓院菊姫北鎌倉と豊後竹田 松平忠直が江戸へ出向せず、乱行という噂とともに改易された時に、忠直の側の言い訳が「病気」だった。病気のために江戸城に行くことができない、と。「忠直乱行」の著者の中嶋繁雄さんは、その「病」について追求する。レオン・パジェスの「宗門史」からの記述が続く。 元和6年、忠直「御病気」の年である。 ベント・フェルナンデスというイエズス会宣教師が、越前の隣りの加賀金沢へ来た。、、 「将軍の従兄弟」に洗礼をさずけたという。 1620年庚申の年の、その従兄弟が忠直であると彼は考える。「病」「御病気」とはキリシタンになったこと、である。あるいはそのミサに参加する事だ。 では。結城秀康は?津軽為信と信健は?そして松平忠吉の場合は? 1607年に何があったのか。私もレオン・パジェスに聞いてみた。 岩波文庫「日本切支丹宗門史」上巻第九章1607年(慶長12年)205ページ。
京都から美濃、尾張に伝道が行なはれた。尾張の大名で、薩摩守(家康の第四子薩摩守忠吉)を構していた公方の子は、甚だ神父を優遇し、天主堂の再建を許可した。、、、然るに、間もなく、同侯は葬じた。、、、日本の極東、奥州数箇国の領主ジュガザンドノ(Jougazandono津軽殿)の世子は進んで改宗した。 彼は帰路神父の一人を連れ帰り、領内に美麗な天主堂を建てたい希望であった。然るに、間もなく彼が頓死した為に、この頼もしい期待は有耶無耶になってしまった。 キリスト教の禁教令が出たのは元和4年(1618)だ。慶長12年(1607)はまだ全国的な禁教にはなっていない。それでも豊臣秀吉の時代から、家康の時も秀忠の時にも、弾圧があって殉教者も出ていた。この年にイエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオ神父とジョアン・ロドリゲス神父が徳川家康と二代将軍秀忠に会っている。京都、伏見はキリシタンの拠点だった。家康はキリシタンを排除しようとし始めていた。 参照:「関西のキリシタン殉教地をゆく」高木一雄 著 この頃に日本人の神父が活躍していた。結城ディエゴ神父という。 足利義種の家臣で12歳の時に大阪のセミナリヨに入学する。1601年にはマカオに留学、27歳だった。1604年に帰国して長崎で活躍、1607年に伏見の教会にやってくる。慶長12年である。 ラテン語でミサを行う日本人の神父は、キリスト教の布教に新しい風を興しただろうと思う。津軽親子は伏見で彼に会っただろうと思う。松平忠吉も彼と話しただろう。結城秀康も彼を訪ねたと想像する。 ディエゴ神父は後にマニラへ追放になり、日本に再入国して大阪で殉教する。 まだ、そんなに厳しい状況ではなかった慶長12年に、松平忠吉は病死する。 そして4人も殉死者を出した。 忠吉は病死したのではない、と、想像してみた。側近は彼を命がけで守った、と、想像してみた。殉職であったのだろうと。 家康の息子だから暗殺だったら大事件になる。病死なら無難に収まる。彼の死を家康はどう思っていただろう。彼らの「病死」が偶然だったとしても、4人の死を、後の人達はどう思うだろう。 江戸時代の知識人は、そういう事件について、もっと沢山の風評を聞いていたと思う。 松尾芭蕉はキリシタンに詳しい知識人だった。芭蕉の弟子は武士であったり、武士を辞めて出家した人が多かった。武家の事情には詳しいのだ。 彼は鳴海宿に来て、名古屋市の星崎を歩いて、松平忠吉の跡を見る。そして家康の心の闇を思う。 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 千鳥とは「父よ」と囁くキリストとキリシタンのことでもある。 十字架に架けられたキリストの最後の言葉は 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)」詩編22 そして 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」ルカ福音書23章46節 であった。父(神)と子(キリスト)の物語を、芭蕉は家康(父)と忠吉(子)に重ね合わせる。 聖書を読む事は御禁制であった。しかしむしろ家康と忠吉の関係をこの様に語る事こそ、恐れを知らぬ行為である。 松平忠吉は、その最後の瞬間に、父家康の決断を思い知っただろうか。 鳴海で、芭蕉はこの句を発句に歌仙を催した。この句に連なる俳人はどんな気分だっただろう。なに喰わぬ顔で参加する事こそ、芭蕉と自分の身を守る術だ。 初めての芭蕉句碑が建てられた。後に聖俳と呼ばれる芭蕉の心髄がここにある。真実は別の所にあったかもしれない。でも、作品は生まれて一人で歩き出して行くものだ。 星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 星崎に飛び遊ぶ千鳥は、闇夜に葬られた清洲城主にまつわる「闇を見よ」と鳴いているのだ。
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追記: 名古屋市の地図を見た。星崎の北に呼続(よびつぎ)という地名があった。富部神社のある所だ。めずらしい地名だと思った。 南北朝の時代の歌に 鳴海潟 夕浪千鳥 たちかえり 友よびつぎの浜に啼くなり があるそうだ。 この歌を知って、松平忠吉は清洲城から呼続を訪れたのだろうと思った。 一度は棄教した人も、ここで友を得て人々を集め、キリシタンに戻ることができる。忠吉はここにキリシタンの集会所を作ったのだと想像してみた。 富部神社をここに作ったのも、この歌があったからだろうと思う。海雲山天福寺は明治になって廃寺になり、今はそこに呼続公園ができている。富部神社の隣りである。 松平忠吉が治めた時代には、キリシタンが安心して暮らすことができる場所が、ここにあったのだと、思った。
追記2: 愛知県名古屋市南区本星崎町には星宮社があり、舒明天皇の時代(629年 - 641年)に落ちた隕石を祀る。さらに星宮社の南西に喚續神社があり、ここも隕石を祀るそうだ。寛永9年(1632年)に、南野村に落ちた隕石は喚續神社の霊石となり、今は国立科学博物館にあるのだそうだ。 名古屋には隕石が集中して落ちるのだろうか。そうではなくて。 星宮社の神は天津甕星である。ここ星崎にはかつて星を祭る人々がいて、日々天体観測を続けていて、隕石の落下をいち早く発見できた地域だった、という事なのだろう。 そして、1607年10月27日に、ハレー彗星が出現した。76年周期で地球に近づく彗星だ。 日本書紀にも吾妻鏡にも書かれ、接近するたびに誰かの日記に書かれているらしい。彗星が来るたびに人々は動揺し、改元されたり祈祷があったりしたそうだ。 紀元前12年にも出現して、新約聖書に書かれたキリスト生誕の時に現れたと言う「ベツレヘムの星」とイメージが重なっている。 10月は旧暦では9月にあたるというから、津軽為信と信健父子は、この彗星を眺めたかもしれないと、思った。彼らは病死ではなくて、武士を辞めて名前を変え、津軽で、例えば天福(テンプル)寺のようなお寺で出家して、幸せに過ごしたと想像したい。理不尽に死んでいく人達がいる一方で、死んだという事にして生き延びた人達もいたのだと、思いたいのだ。
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***亀子***(25 Nov. 2010-5 Mar.2012)
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十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
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