鎌倉に残るキリシタン遺物と思われるものを考えて行くと、その時代の支配者について無知では居られない。
その時相模国(神奈川県)を支配していたのが後北条氏だ。彼らは足利幕府の下で、平将門以来の東国独立の夢を育てていたらしい。それが伊勢宗達(北条早雲)に始まる後北条氏なのだそうだ。彼等に従うたくさんの人々の意志が後北条氏をつくった、と言うべきだろうか。
後北条氏は5代目の氏直まで、なのだそうだ。三浦氏を滅ぼして相模国を支配したのが1516年。その後、豊臣秀吉に従わなかったため本拠地の小田原城を攻められて、1590年に滅亡。ザビエルが来日したのが1546年だから、3代目氏康から最後の氏直までの44年間がキリシタンの時代になる。一人の青年が教義を学んで信者になり、同じキリシタンの娘と結婚して子供にも伝える、それだけの時間が十分にあるだろう。キリスト教伝来の初期なのだから、華やかな全盛期でもある。
北条早雲の3男であった北条幻庵(北条長綱、幻庵宗哲)は1589年まで生きていた。彼はザビエル来日の年に53歳だった。好奇心もあり、またじっくりと様子見が出来る年代でもある。彼はキリスト教の伝来をどう見ていたのだろう。
1576年(天正4)には織田信長が安土城を築城している。天守閣のある初めての城だそうだ。そして城があった滋賀県蒲生郡安土町では、今でも「天守」ではなく「天主」と書くのだそうだ。天主教と言えばそれはキリスト教のことなのだ。
4代目の北条氏政は、息子の氏直の結婚相手に織田家の娘をと考えていたのだそうだ。織田信長の臣下になろうとした矢先に、本能寺の変で信長が死んでしまったのだ。
後北条氏はキリシタンとどういう関係だったのか。弾圧したのか保護したのか。同時代でありながら、それは語られていないように思えた。
鎌倉市で後北条の遺跡と言えば、まず玉縄城、だろう。今はS泉女学院になっている山頂をめざして、相模陣の先の久成寺の手前から登ると、ふわん坂にさしかかる。
ふわん坂という名前の由来はわかっていないのだそうだ。不安坂であろうとも言われている。でも、キリシタンというキーワードで解けば、それはJuan坂、フワン坂である。と思う。スペインの男性の名前だ。
スペイン語ではJをホタと読んで、ハヒフヘホに使うのだ。だから聖ヨセフはサン・ホセSan Jose。聖ヨハネはサン・フアンSan Juanなのだ。
フワンさんの坂を登ると玉縄城の正面に着く。そのあたりに1956年(昭和31)に建てられた玉縄城址の石碑がある。玉縄城址の碑はもう一つ、女学院正門の方にもあって、そちらは1926年(大正15)建立の格調高い碑文がある。
参照:鎌倉史跡碑事典 玉縄城址1(大正)
参照:鎌倉史跡碑事典 玉縄城址2(昭和)
今は壊されてしまった玉縄城趾の写真が玉縄城址まちづくり会議に載っていた。
参照:玉縄城址まちづくり会議 活動報告
2007年玉縄学習センターフェスティバル
その写真の一部に「お花畠」と書いてあった。それが気になって調べてみた。
玉縄城趾の北側に空堀があって、その向こうに曲輪(くるわ)という城の遺構がある。その場所を玉縄の人達は「お花畠」と呼んで伝えてきた。空堀に橋が架かっていてお花畠につながっていたのだそうだ。
橋の向こう側にお花畑がある。
それは大分県大分市の、松平忠直の墓に描かれた秘密と同じだ。
参照:133.「忠直乱行」を読む
玉縄城が落城したのが1590年。松平忠直が墓に秘密を彫ったのが1623年頃。大分河の西にある花園を眺めながら亡くなったのが1650年。だから川の向こうに花園を設計したのは忠直ではなかったのだ。彼は後北条の城を踏襲したのだ。
あるいは、信長の安土城にそのデザインの原型があったのかもしれない。
橋の向こうの花園。それはパライソの国、東に在る楽園、エデンの園、であると私は思う。
検索するとインターネット上にある「お花畑」は5カ所だった。「花園」は19カ所だ。
+山形県上山市十日町元御花畑 上山城(かみのやまじょう)の東側。城下町にあった。「上山」は「神の山」に聞こえる。
参照:上山城(別名・月岡城)
+福島県郡山市大槻町御花畑 大槻春日神社の東にある。
+東京都文京区湯島の旧地名 ここは江戸時代に、大根畑とかお花畑と呼ばれていたそうだ。そこに新しく町屋ができた。明治5年に「新町屋」と「御花畑」から名前をとって「湯島新花町」になった。大根畑は採用されなかった。ひょっとすると大根畑は御花畑をカモフラージュする架空の地名だったかもしれない。ここは小日向にあったキリシタン屋敷の東南東に当る。
大正15年に、ここ湯島2丁目に新花公園ができた。文京区で3番目に古い歴史ある公園だそうだ。本当は何の跡地なのだろうか。
1602年に江戸にできた修道院は中央区八丁堀あたりだろうとされているそうだ。その関連施設だろうか。大正時代にはそういう伝承がまだ生きていたのだろう。ここに大切な何かがあって、公園になった。そう思った。
参照:文京区民のページ(湯島2丁目)
湯島3丁目にはうそ替え神事で有名な湯島天神がある。表向きと真実の違いを江戸の人達は日々意識して暮らしていたのだろう。
参照:湯島天満宮祭事暦
+京都市上京区堀川通一条東入る 近衛基熙(このえもとひろ1648-1722)の邸宅の堀川屋敷(1702年・元禄2)は御花畑と呼ばれたのだそうだ。南北に走る堀川通りと東西に走る一条の交差点を東に進むと御花畑。
この堀川通と一条の交点は有名な一条戻橋である。陰陽師の安倍晴明が死者を生き返らせたという伝説のある場所だ。そして千利休の首が晒されたのもここであり、1597年(慶長1)に長崎で刑死することになる26人が耳を切られた仕置き場もここなのだそうだ。
豊臣秀吉が行なった弾圧、日本二十六聖人の殉教は、長崎まで連れて行かれた京都のダイウス町の人達の殉教だったのだ。
+埼玉県秩父市東町 秩父鉄道の御花畑駅。北隣が秩父駅。秩父市役所の西側。
+青森県青森市の花園 市役所の東、堤川のむこう。
+新潟県新潟市の花園 JR新潟駅前。市役所(旧県庁)の東。信濃川のむこう。
+新潟県長岡市の花園 長岡城跡の南東。
+大阪府東大阪市の花園 花園ラグビー場。大阪城の東南東。
沢山あるので、あと1つで止めよう。
+埼玉県寄居町の花園城 旧花園町。北条氏邦の鉢形城があり、荒川を越した北側に花園城がある。さらに寄居駅から2つ東に小前田駅があって、駅前が花園だ。更に東へ目をやると武川駅があったのだ。たけかわと読む。不思議な偶然か、とも思った。
竹河の 橋の端なるや 花園に
我をば 放てや 少女たぐえて
参照:133.「忠直乱行」を読む
参照:寄居北条祭り
各地にあるお花畑と花園は、パラダイスを表していると思う。それを離れた所から楽しんだ人がいた。橋の向こう側に在る楽園を座敷に座って夢想したのだ。それが日本の「庭」の設計なのだ、と思う。その人の為に、住民は御花畑と花園を語り伝えた。失われた栄光を取り戻す様に、「御花畑」と言い、「花園」と語って、今にその地名を残して来たのだと思う。
追記:
秀吉に攻略されて後北条の城は各地で落城していった。下田城(静岡県下田市)、松井田城(群馬県安中市)、玉縄城(神奈川県鎌倉市)、岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)、鉢形城(埼玉県寄居町)、八王子城(東京都八王子市)、津久井城(神奈川県相模原市)、、。その中で凄惨を極めたのが八王子城なのだそうだ。
参照:八王子城炎上!! 八王子城落城伝説
豊臣秀吉の連合軍1万5千人に攻撃されて、城内の約1000人は全滅する。城に集められた領内の農民や婦女子が、そのほとんどであったそうだ。
それで落城した6月23日が来ると様々な怪異が八王子城趾に現れる、と言い伝えられているそうだ。それで、ふと思った。各地に在る二十三夜塔、二十三夜供養塔は、もしかしたら、八王子城の戦死者を悼む石碑なのでは、と。
秀吉とその後の家康によって滅亡した後北条氏を、江戸時代になってもこっそりお祀りしていた、のかな、と。
史上最低の税率である四公六民を実施して、飢饉の時には徳政令を行なった後北条氏。正室を重んじて同毋兄弟ばかりだった為に、お世継騒動が無く洗練された一族だったのだそうだ。
参照:ウィキペディア
だからその後に施政者になった徳川家康は、住民達に比較されて、かなり、やりにくかった、らしい。後北条氏の業績は、鎌倉でもっと語られても良いなあと思った。
ちなみに、鎌倉市にある玉縄城は無血開城だそうだ。戦わずに投降したのだ。それも勇者の姿だ、と思った。
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