鎌倉、まぼろしの風景。137 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

:::::目次:::::
:::Top 最新の目次に戻る:::


亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

   
キリシタンと江戸文化

137.許六と芭蕉 (8月6日追加)

 小学館の日本古典文学全集 近世俳句俳文集 に、森川許六の句が載っている。彼は彦根藩の武士であって、江戸屋敷に勤めていた時に、芭蕉の門下に入ったのだそうだ。
 蕉門十哲の一人。槍、剣、馬術、書、絵画に秀でていたので、俳句を加えて6つの免許皆伝の「許六」と呼ばれたのだそうだ。俳人というよりも侍そのものという感じを受ける。
 その本に、許六が芭蕉に始めて会った時に見せた句、があった。
十団子も 小粒になりぬ 秋の風
 彦根から江戸へ来る時に静岡の宇津の山を通るのですが。そこの名物の十団子も、このご時世で小さくなっていましたよ。
 という句だ。
 十団子(とおだご)というのはシャクシですくって出される団子で、店のおかみさんがひょいとすくうと必ず十個入っているという妙技が名物になっていたのだそうだ。大永4年(1524)の頃にはすでに有名であったらしい。
 その後、茶人の小堀遠州がその妙技に見蕩れて書きつけた「辛酉紀行」 元和7年(1621)以降に、団子の形が変わる。「麻ひもに十個づつ連ねた豆粒くらいの団子」になって、許六が俳句に詠んだ元禄5年(1692)には、お数珠の様に連ねたものであった様だ。
 あの小さくて有名な十団子も以前よりもいっそう1粒が小さくなっていた。そういうご時世なんですよ。という句らしい。

 弟子入りしたい師匠に始めて見せる句なのだから、自信作だったのだろう。あるいは自己紹介になる様な、自分にとって特別な句、なのだろう。「団子が小さくなった」というこの句を、芭蕉は称賛したそうだ。
 この句を示されて、芭蕉は「今わが腸(はらわた)は見ぬかれたり」と驚嘆したのだそうだ。
参照:日本古典文学全集 近世俳句俳文集

 筆で文字を書くと、始めは墨をたっぷり含んでいて、黒々とした文字が書ける。それが少しづつかすれていって、そこで墨を付ける。と、また黒い文字がそこから始まる。濃い薄いのグラデーションが波の様に紙面に現れるのだ。そのくっきり黒い墨の十の文字が、短冊のてっぺんに書かれていた。許六は心持ち縦の線を長く書いたかもしれない。まるで十字架の記号の様に。それを突きつけられて、芭蕉はハッとする。
 現役の高位の武士が御禁制の十字架を自分に突きつけたのだ。驚いただろうと思う。その後に許六は信頼された弟子となったそうだ。

 許六が勤めていた彦根城は1622年(元和8)に築城されたもので、10km北の長浜城のリサイクルだそうだ。長浜城は豊臣秀吉が始めて作った城なのだそうで、織田信長と秀吉が滅ぼした浅井一族の小谷城のリサイクルなのだそうだ。城下町は小谷城下からそのまま移した。とウィキペディアには書いてある。
 長浜城の10km北に小谷城跡があって、浅井長政とお市が住んでいた。北鎌倉の東慶寺の天秀尼さんのひいおばあさんだ。
参照:112.東慶寺の姫
 浅井家の城を壊してその城の資材を使って築城した彦根城なのだ。城下町も移動したということは、浅井家によって商売が成り立った人達が長浜城下に移住したということだ。当然キリシタンだった町民も移住しただろう。その一部は彦根まで続いて来ているかもしれない。
 そして彦根城の南西18kmに安土城趾があって、ここが織田信長の居城。戦国武将はみんなお隣さんだったみたいに思える。

 彦根藩士の許六はキリシタンだった人達の生活を良く知っていたのではないか。許六がキリシタンだったとは思わないけれど、キリシタンに関する何かで芭蕉門下に加わったのではないかと想像してみた。初対面で十字架を突きつけたのは何故なのか、興味深いと思う。
 俳句を活字にしてしまえばただの十という漢字でしかない。でも、その時書かれていた字は図像として見ればどう見えていたのか。それが自己紹介の、インパクトのある名刺代わりになったのではないか。そう思う。

 では芭蕉はキリシタンだったのか。その問いには、きっぱりと違うと答える。芭蕉はキリシタンではない。

 芭蕉の句にはキリスト教の知識や故事が織り込まれている、ものもある。
参照:128.十字架の菜の花
 たとえば1687年(貞亨4)「笈の小文」で、44才の芭蕉は愛知県渥美半島を旅している。若い門人の杜国を訪ねたのだ。
 「三川の国保美といふ処に、杜国が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。」「あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。
冬の日や馬上に氷る影法師
参照:笈(おい)の小文
 芭蕉が泊まった吉田は現在の豊橋である。三河吉田城主の池田輝政はキリシタンを保護した大名として有名だ。彼が東三河4郡、15万2千石の大名となったときに田原城も整備されたのだそうだ。現在の渥美半島の田原市にある。芭蕉が「笈の小文」で半島を旅していたとき、田原藩主は三宅康雄。江戸幕府奏者番・寺社奉行とウィキペディアには書いてある。キリシタンの取締当局である。泊まったのは吉田だけれど田原も当然通るのだ。芭蕉は書いていないけれど。
 それとは全く別に、大阪河内に田原城がある。現在の四条畷(しじょうなわて)市だ。古墳時代に日本で始めて馬が飼育されたことで有名なここから、平成14年に田原城主田原レイマンのキリシタン墓碑が出土したのだ。十字架に礼幡と彫られた墓碑には天正9年(1581)の文字があった。
参照:四条畷の遺跡を訪ねて
 もう一度「笈の小文」の文を読んでみる。これは愛知県の紀行文だけれど大阪の四條畷市を念頭に書いている。そう思う。

 芭蕉の若い弟子であった美青年の杜国は商売上の罪を得て渥美半島の先端の保美に逃れていたのだそうだ。その後、1690年(元禄3)の正月に芭蕉は杜国に手紙を出した。その春に彼は死んでいる。推定30才、若い死である。杜国はキリシタンの疑いをかけられて逃亡したのではないか。それは根拠の無い空想だ。
 その杜国と保美で出会って、彼を連れて「笈の小文」の旅は続く。翌年芭蕉は歌舞伎を楽しんでいる。大坂歌舞伎の若衆役者、吉岡求馬を観に行ったのだ。彼はまだ十代だったのではないだろうか。
俗士にさそはれて、五月四日、吉岡求馬を見る。五日はや死す。よつて追善
花あやめ 一夜にかれし 求馬かな

 花形役者が舞台の翌日には死んでいる。そんなことがあるのだろうか。
 舞台がはねた後で芭蕉は求馬(もとめ)を酒宴に誘わなかっただろうか。美しく若い役者と語りあったのではないか。求馬は芭蕉の句に潜むキリシタンの符号に気づいていて、私もキリシタンだと言ってしまったのではないか。接待の歓迎の言葉として、私も先生の心と同じと、喜んで語ったのではないか。それは空想の幻の物語だ。

 1689年(元禄2)3月に芭蕉は弟子の曾良と旅立った。「奥の細道」である。金沢で若い弟子の死を知る。加賀俳壇の有力者だった一笑は前年の11月に36才で亡くなっていたのだ。
塚も動け 我泣声は 秋の風
 本当に悲しい時に人は「塚も動け」などと言うだろうか。

 金澤に入って一笑の訃報を聞いた芭蕉は、宿泊するつもりだった家を変更させられている。断られたのかもしれない。新たな宿泊先で同行の曾良は「病気」になった。宿から一歩も外に出なかったのだ。一笑の兄が追善供養の席を設けた時も、曾良は遅れて参加して早々に退出している。この席で芭蕉はあの句を詠んだ。私も悲しいんですと力説する必要があった時に、「塚も動け」という言葉が出て来たのだろう。と思う。
「謎の旅人 曽良」村松 友次 著 大修館書店 (2002)という興味深い本を読んだ。奥の細道という旅は幕府の隠密の曾良に芭蕉が同行した旅だったのではないか、という。説得力の在る本だ。
 金澤を過ぎて、曾良は病気が治らないからという理由で先に帰ってしまう。病気だから先に行ってくれ、ではなく、先に帰った、のだ。芭蕉と曾良の師弟関係は何度読んでも美しく礼儀正しいと感じさせる。それは「仕事の付き合い」だったから、愛憎関係の無い弟子だったから、なのではないかと思う。

 金澤で亡くなった小杉一笑の句に美しい椿の句がある。
火とぼして 幾日になりぬ 冬椿 「あら野」
 雪の中に赤い椿が一つ咲いていた。気づかなかったけれど、君はいつからそこに咲いていたのかな。たった一人で。

 火を灯すというのは宗教的な表現だ。多分カトリックでは信仰の火を灯すという意味で使われるのだろうと思う。冬の椿とは禁教の時代に灯された一人の信仰の灯火なのだと思う。
 彼の辞世の句
心から 雪うつくしや 西の雲 一笑
 悲しみの極みの中に、穏やかな彼の姿が見える。キリスト教を良く知っている人がこの句を読んだら、もっと沢山の象徴を読み取れるかもしれない。

 長崎の生月ではサンジュアンさま(聖ヨハネ)に椿の花を供えるのだという。
参照:旅する長崎学
 大阪府茨木市から1930年に発見された「マリア十五玄義図」には白い椿が描かれている。原図を日本人が模写したというこの絵のマリアは、バラではなく椿を持っているのだ。
 日本中の神社や庚申塚に椿の巨木が今も在る。それは八百比丘尼が植えたという伝承とともに、江戸時代には、キリシタンの墓碑にもなっていたと私は思う。

 キリシタンにとって、芭蕉の句は孤独を慰めるものだったかもしれない。「見ず聞かず言わない」キリシタン禁教時代に、彼らから見ればあからさまに句に出してしまう芭蕉を、尊敬したとしても不思議ではない。つまり芭蕉の句は「撒き餌」なのだ。恐ろしい俳句である。と思う。

 弟子の向井去来の句。
郭公(ほととぎす) なくや雲雀と 十文字
 水平に飛ぶホトトギスと真っすぐ上がるヒバリの交差である。平安の歌人定家の歌にも、煙と霞が十文字になるという歌があるのだそうだ。
弓張(ゆみはり)の角(つの)さし出(いだ)す 月の雲
 芭蕉はこの句を褒めていて、角、弓張月、雲のどれか一つ欠けてもだめだと言う。雲の中から二十六夜の月の両端が牛の角の様に見えていてその中央に聖母マリアが立っている。そういう掛け軸がある。長崎の生月のキリシタンに伝わった絵だ。
参照:西南学院大学博物館開館1周年記念特別展 図録 「納戸の奥のキリシタンー生月島におけるキリスト教の受容と変容」
 芭蕉はキリシタンの文化を知っている。知っていて、それを作品に書き入れている。そう思う。

 では、最初に戻って、
十団子も 小粒になりぬ 秋の風
 許六はなぜ芭蕉に十字架を付きつけたのか。
 キリシタンの摘発も、もうかなり徹底して来ましたね。いま捕まるのは小者のキリシタンだけになってきましたよ。
 芭蕉先生の隠密としての活動も、そろそろ終わりなんでしょうか。取締にも秋風が吹いて来ましたが、秋風といえば俳諧にとっては侘び寂びの風。先生には今後はゆっくり俳諧に専念なさって下さいね。

 十団子の句を、そう読み取ってみる。「風」というのは隠密のことだ。
 それでも許六の本心は見えない。「私はキリシタンだ。あなたのやっていることを知っている。側にいてあなたの動向を見張っているよ。」ということか。それとも「私も同じ隠密だ。あなたのやっている事はキリシタンにバレ始めている。だから協力したいんだ。」ということか。現役藩士の許六の素顔は、なかなか見えてこないのだ。
 

追記:後に聖俳と崇められた芭蕉は各地に句碑が建てられて、それは芭蕉塚とも呼ばれている。その芭蕉句碑のあるところは、キリシタンの史跡であると仮定しよう。キリシタンの歴史は公には語られて来なかった。焼かれたタヌキの話や洞窟に住み着いた話は民話として残ったけれど、キリシタンと言われて迫害された人達の記録は消えてしまう運命にあったのだ。だから碑が建てられた。聖俳芭蕉の句碑ならば幕府も文句は言わない。芭蕉が偉大になればなるほど、その句碑は大切にされて残るのだ。これは「ほめ殺し」であると思う。キリシタンが迫害者の顕彰碑を建てるのだ。その熱意が後世にも伝わって、本当に純粋に芭蕉を讃える句碑もできて来た。だから日本中に芭蕉句碑があるのだと思う。
参照:126.六地蔵・芭蕉の辻と潮墳碑
 芭蕉句碑の在るあたりには洞窟礼拝堂があるかもしれない。キリシタンのお墓があるかもしれない。高い崖があってそこが殉教の場所だったかもしれない。二十六夜のマリアの月が見える集会所かもしれない。きれいな泉があって洗礼式をする場所かもしれない。在る時代の芭蕉塚は、1700年代の後半からの芭蕉句碑は、文学碑という枠を超えて各地に建てられている、それは歴史の表に出て来れなかった人達の顕彰碑であると、私は思っている。
:::Top 最新の目次に戻る:::


  ***亀子***
( 11 Jul. 2009-15 Mar.2012)

     

   
十文字の影がある庚申塔 横須賀市

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::


資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子
ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)

//////無断複製を禁止します。All Rights Reserved. (C)亀子
検索にご利用下さい
inserted by FC2 system inserted by FC2 system