小学館の日本古典文学全集 近世俳句俳文集 に、森川許六の句が載っている。彼は彦根藩の武士であって、江戸屋敷に勤めていた時に、芭蕉の門下に入ったのだそうだ。
蕉門十哲の一人。槍、剣、馬術、書、絵画に秀でていたので、俳句を加えて6つの免許皆伝の「許六」と呼ばれたのだそうだ。俳人というよりも侍そのものという感じを受ける。
その本に、許六が芭蕉に始めて会った時に見せた句、があった。
十団子も 小粒になりぬ 秋の風
彦根から江戸へ来る時に静岡の宇津の山を通るのですが。そこの名物の十団子も、このご時世で小さくなっていましたよ。
という句だ。
十団子(とおだご)というのはシャクシですくって出される団子で、店のおかみさんがひょいとすくうと必ず十個入っているという妙技が名物になっていたのだそうだ。大永4年(1524)の頃にはすでに有名であったらしい。
その後、茶人の小堀遠州がその妙技に見蕩れて書きつけた「辛酉紀行」 元和7年(1621)以降に、団子の形が変わる。「麻ひもに十個づつ連ねた豆粒くらいの団子」になって、許六が俳句に詠んだ元禄5年(1692)には、お数珠の様に連ねたものであった様だ。
あの小さくて有名な十団子も以前よりもいっそう1粒が小さくなっていた。そういうご時世なんですよ。という句らしい。
弟子入りしたい師匠に始めて見せる句なのだから、自信作だったのだろう。あるいは自己紹介になる様な、自分にとって特別な句、なのだろう。「団子が小さくなった」というこの句を、芭蕉は称賛したそうだ。
この句を示されて、芭蕉は「今わが腸(はらわた)は見ぬかれたり」と驚嘆したのだそうだ。
参照:日本古典文学全集 近世俳句俳文集
筆で文字を書くと、始めは墨をたっぷり含んでいて、黒々とした文字が書ける。それが少しづつかすれていって、そこで墨を付ける。と、また黒い文字がそこから始まる。濃い薄いのグラデーションが波の様に紙面に現れるのだ。そのくっきり黒い墨の十の文字が、短冊のてっぺんに書かれていた。許六は心持ち縦の線を長く書いたかもしれない。まるで十字架の記号の様に。それを突きつけられて、芭蕉はハッとする。
現役の高位の武士が御禁制の十字架を自分に突きつけたのだ。驚いただろうと思う。その後に許六は信頼された弟子となったそうだ。
許六が勤めていた彦根城は1622年(元和8)に築城されたもので、10km北の長浜城のリサイクルだそうだ。長浜城は豊臣秀吉が始めて作った城なのだそうで、織田信長と秀吉が滅ぼした浅井一族の小谷城のリサイクルなのだそうだ。城下町は小谷城下からそのまま移した。とウィキペディアには書いてある。
長浜城の10km北に小谷城跡があって、浅井長政とお市が住んでいた。北鎌倉の東慶寺の天秀尼さんのひいおばあさんだ。
参照:112.東慶寺の姫
浅井家の城を壊してその城の資材を使って築城した彦根城なのだ。城下町も移動したということは、浅井家によって商売が成り立った人達が長浜城下に移住したということだ。当然キリシタンだった町民も移住しただろう。その一部は彦根まで続いて来ているかもしれない。
そして彦根城の南西18kmに安土城趾があって、ここが織田信長の居城。戦国武将はみんなお隣さんだったみたいに思える。
彦根藩士の許六はキリシタンだった人達の生活を良く知っていたのではないか。許六がキリシタンだったとは思わないけれど、キリシタンに関する何かで芭蕉門下に加わったのではないかと想像してみた。初対面で十字架を突きつけたのは何故なのか、興味深いと思う。
俳句を活字にしてしまえばただの十という漢字でしかない。でも、その時書かれていた字は図像として見ればどう見えていたのか。それが自己紹介の、インパクトのある名刺代わりになったのではないか。そう思う。
では芭蕉はキリシタンだったのか。その問いには、きっぱりと違うと答える。芭蕉はキリシタンではない。
芭蕉の句にはキリスト教の知識や故事が織り込まれている、ものもある。
参照:128.十字架の菜の花
たとえば1687年(貞亨4)「笈の小文」で、44才の芭蕉は愛知県渥美半島を旅している。若い門人の杜国を訪ねたのだ。
「三川の国保美といふ処に、杜国が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。」「あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。
冬の日や馬上に氷る影法師」
参照:笈(おい)の小文
芭蕉が泊まった吉田は現在の豊橋である。三河吉田城主の池田輝政はキリシタンを保護した大名として有名だ。彼が東三河4郡、15万2千石の大名となったときに田原城も整備されたのだそうだ。現在の渥美半島の田原市にある。芭蕉が「笈の小文」で半島を旅していたとき、田原藩主は三宅康雄。江戸幕府奏者番・寺社奉行とウィキペディアには書いてある。キリシタンの取締当局である。泊まったのは吉田だけれど田原も当然通るのだ。芭蕉は書いていないけれど。
それとは全く別に、大阪河内に田原城がある。現在の四条畷(しじょうなわて)市だ。古墳時代に日本で始めて馬が飼育されたことで有名なここから、平成14年に田原城主田原レイマンのキリシタン墓碑が出土したのだ。十字架に礼幡と彫られた墓碑には天正9年(1581)の文字があった。
参照:四条畷の遺跡を訪ねて
もう一度「笈の小文」の文を読んでみる。これは愛知県の紀行文だけれど大阪の四條畷市を念頭に書いている。そう思う。
芭蕉の若い弟子であった美青年の杜国は商売上の罪を得て渥美半島の先端の保美に逃れていたのだそうだ。その後、1690年(元禄3)の正月に芭蕉は杜国に手紙を出した。その春に彼は死んでいる。推定30才、若い死である。杜国はキリシタンの疑いをかけられて逃亡したのではないか。それは根拠の無い空想だ。
その杜国と保美で出会って、彼を連れて「笈の小文」の旅は続く。翌年芭蕉は歌舞伎を楽しんでいる。大坂歌舞伎の若衆役者、吉岡求馬を観に行ったのだ。彼はまだ十代だったのではないだろうか。
「俗士にさそはれて、五月四日、吉岡求馬を見る。五日はや死す。よつて追善」
花あやめ 一夜にかれし 求馬かな
花形役者が舞台の翌日には死んでいる。そんなことがあるのだろうか。
舞台がはねた後で芭蕉は求馬(もとめ)を酒宴に誘わなかっただろうか。美しく若い役者と語りあったのではないか。求馬は芭蕉の句に潜むキリシタンの符号に気づいていて、私もキリシタンだと言ってしまったのではないか。接待の歓迎の言葉として、私も先生の心と同じと、喜んで語ったのではないか。それは空想の幻の物語だ。
1689年(元禄2)3月に芭蕉は弟子の曾良と旅立った。「奥の細道」である。金沢で若い弟子の死を知る。加賀俳壇の有力者だった一笑は前年の11月に36才で亡くなっていたのだ。
塚も動け 我泣声は 秋の風
本当に悲しい時に人は「塚も動け」などと言うだろうか。
金澤に入って一笑の訃報を聞いた芭蕉は、宿泊するつもりだった家を変更させられている。断られたのかもしれない。新たな宿泊先で同行の曾良は「病気」になった。宿から一歩も外に出なかったのだ。一笑の兄が追善供養の席を設けた時も、曾良は遅れて参加して早々に退出している。この席で芭蕉はあの句を詠んだ。私も悲しいんですと力説する必要があった時に、「塚も動け」という言葉が出て来たのだろう。と思う。
「謎の旅人 曽良」村松 友次 著 大修館書店 (2002)という興味深い本を読んだ。奥の細道という旅は幕府の隠密の曾良に芭蕉が同行した旅だったのではないか、という。説得力の在る本だ。
金澤を過ぎて、曾良は病気が治らないからという理由で先に帰ってしまう。病気だから先に行ってくれ、ではなく、先に帰った、のだ。芭蕉と曾良の師弟関係は何度読んでも美しく礼儀正しいと感じさせる。それは「仕事の付き合い」だったから、愛憎関係の無い弟子だったから、なのではないかと思う。
金澤で亡くなった小杉一笑の句に美しい椿の句がある。
火とぼして 幾日になりぬ 冬椿 「あら野」
雪の中に赤い椿が一つ咲いていた。気づかなかったけれど、君はいつからそこに咲いていたのかな。たった一人で。
火を灯すというのは宗教的な表現だ。多分カトリックでは信仰の火を灯すという意味で使われるのだろうと思う。冬の椿とは禁教の時代に灯された一人の信仰の灯火なのだと思う。
彼の辞世の句
心から 雪うつくしや 西の雲 一笑
悲しみの極みの中に、穏やかな彼の姿が見える。キリスト教を良く知っている人がこの句を読んだら、もっと沢山の象徴を読み取れるかもしれない。
長崎の生月ではサンジュアンさま(聖ヨハネ)に椿の花を供えるのだという。
参照:旅する長崎学
大阪府茨木市から1930年に発見された「マリア十五玄義図」には白い椿が描かれている。原図を日本人が模写したというこの絵のマリアは、バラではなく椿を持っているのだ。
日本中の神社や庚申塚に椿の巨木が今も在る。それは八百比丘尼が植えたという伝承とともに、江戸時代には、キリシタンの墓碑にもなっていたと私は思う。
キリシタンにとって、芭蕉の句は孤独を慰めるものだったかもしれない。「見ず聞かず言わない」キリシタン禁教時代に、彼らから見ればあからさまに句に出してしまう芭蕉を、尊敬したとしても不思議ではない。つまり芭蕉の句は「撒き餌」なのだ。恐ろしい俳句である。と思う。
弟子の向井去来の句。
郭公(ほととぎす) なくや雲雀と 十文字
水平に飛ぶホトトギスと真っすぐ上がるヒバリの交差である。平安の歌人定家の歌にも、煙と霞が十文字になるという歌があるのだそうだ。
弓張(ゆみはり)の角(つの)さし出(いだ)す 月の雲
芭蕉はこの句を褒めていて、角、弓張月、雲のどれか一つ欠けてもだめだと言う。雲の中から二十六夜の月の両端が牛の角の様に見えていてその中央に聖母マリアが立っている。そういう掛け軸がある。長崎の生月のキリシタンに伝わった絵だ。
参照:西南学院大学博物館開館1周年記念特別展 図録 「納戸の奥のキリシタンー生月島におけるキリスト教の受容と変容」
芭蕉はキリシタンの文化を知っている。知っていて、それを作品に書き入れている。そう思う。
では、最初に戻って、
十団子も 小粒になりぬ 秋の風
許六はなぜ芭蕉に十字架を付きつけたのか。
キリシタンの摘発も、もうかなり徹底して来ましたね。いま捕まるのは小者のキリシタンだけになってきましたよ。
芭蕉先生の隠密としての活動も、そろそろ終わりなんでしょうか。取締にも秋風が吹いて来ましたが、秋風といえば俳諧にとっては侘び寂びの風。先生には今後はゆっくり俳諧に専念なさって下さいね。
十団子の句を、そう読み取ってみる。「風」というのは隠密のことだ。
それでも許六の本心は見えない。「私はキリシタンだ。あなたのやっていることを知っている。側にいてあなたの動向を見張っているよ。」ということか。それとも「私も同じ隠密だ。あなたのやっている事はキリシタンにバレ始めている。だから協力したいんだ。」ということか。現役藩士の許六の素顔は、なかなか見えてこないのだ。
追記:後に聖俳と崇められた芭蕉は各地に句碑が建てられて、それは芭蕉塚とも呼ばれている。その芭蕉句碑のあるところは、キリシタンの史跡であると仮定しよう。キリシタンの歴史は公には語られて来なかった。焼かれたタヌキの話や洞窟に住み着いた話は民話として残ったけれど、キリシタンと言われて迫害された人達の記録は消えてしまう運命にあったのだ。だから碑が建てられた。聖俳芭蕉の句碑ならば幕府も文句は言わない。芭蕉が偉大になればなるほど、その句碑は大切にされて残るのだ。これは「ほめ殺し」であると思う。キリシタンが迫害者の顕彰碑を建てるのだ。その熱意が後世にも伝わって、本当に純粋に芭蕉を讃える句碑もできて来た。だから日本中に芭蕉句碑があるのだと思う。
参照:126.六地蔵・芭蕉の辻と潮墳碑
芭蕉句碑の在るあたりには洞窟礼拝堂があるかもしれない。キリシタンのお墓があるかもしれない。高い崖があってそこが殉教の場所だったかもしれない。二十六夜のマリアの月が見える集会所かもしれない。きれいな泉があって洗礼式をする場所かもしれない。在る時代の芭蕉塚は、1700年代の後半からの芭蕉句碑は、文学碑という枠を超えて各地に建てられている、それは歴史の表に出て来れなかった人達の顕彰碑であると、私は思っている。
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