大分県竹田市の歴史資料館には、国の重要文化財に指定されているサンチャゴの鐘がある。「高さ83cm、口径66cm、内口径56cm、表面に十字章と『HOSPITAL SANTIAGO 1612』という銘が鋳出されている」とHP大分県の観光、竹田市に書いてあった。長崎にあったミゼリコルディア(慈善院)の、付属病院だったサンチャゴ病院(聖ヤコボ病院)の鐘である。日本で作られた鐘なのだ。
「熱心なキリスト教崇拝の地であった竹田の盆地に、朝な夕なミサを知らせて響きわたったであろうと想像される。」と、HPには書かれていた。
参照:大分県の観光、竹田市
この鐘は中川神社の社宝なのだそうだ。中川神社は明治の廃藩置県で竹田の岡城が壊された時に、城内にあった藩祖廟所を移築したものだそうだ。中川清秀とその長男の中川秀政、弟の岡藩初代藩主中川秀成が祀られていた。つまり創建者は二代藩主の中川久盛ということだろう。さらに1933年(昭和8)に三代藩主の中川久清が合祀されているのだそうだ。満州事変の2年後、日本が国際連盟を脱退した年、小林多喜二が殺されたこの年に、「キリシタン弾圧に踏み切った中川久清」の合祀があったと考えると、歴史とはいつも重いものだと思う。あるいは、中山神社を残すための努力が為されたということだろうか。
中川久清は北鎌倉の光照寺にあるクルス門を作った人だ。
参照:110.東渓院菊姫 北鎌倉と豊後竹田
キリシタン禁教時代を過ぎて明治まで、サンチャゴの鐘は岡城の中にあったのだ。「中川神社の社宝」という意味を汲み取るとそうなるだろう。さらに、庶民の鍋や釜までも鉄砲の弾にされたという昭和の時代を生き残る。お寺の鐘だって拠出されたのだそうだ。それを思うと竹田市の人達がこの鐘を守り通して来たことがわかる。それは二代藩主中川久盛とその時代を愛し偲んでいたということだろう。「中川氏第2代の久盛公の家老古田重治は、禁教令下ではありながら神父ペトロ・パウロ・ナバロ、フランシスコ・ブルドリノを2つの洞窟に保護したと記録にあり」と大分県の観光、竹田市には書かれている。この洞窟とは竹田市がキリシタン洞窟礼拝堂として史跡保護している洞窟だ。
参照:127.キリシタン洞窟礼拝堂
サンチャゴの鐘は中川久盛によって長崎市から大分県竹田市へ来たと、ここでは想像してみよう。
1620年(元和6)長崎奉行の長谷川権六がサンチャゴ病院を破壊する。鐘は長崎の別の教会に秘匿されただろうか。
1623年(嘉永元)松平忠直が豊後府内藩(大分市)にお預けとなる。府内城主の竹中釆女正重義が迎え受ける。豊後岡藩の中川久盛が御茶屋敷を忠直に譲る。
1629年(嘉永6)竹中重義が長崎奉行となる。キリシタンへの残酷な弾圧が始まる。サンチャゴの鐘は長崎奉行所内に運ばれたかもしれない。
1634(寛永11)徳川三代将軍の家光が竹中重義に江戸で切腹を申し付ける。岡藩の中川久盛が府内城の城番となる。このとき久盛は鐘を松平イグナチオ忠直に預けたと想像したい。忠直が1650年に大分で亡くなるまで、鐘は彼の屋敷の中で鳴っていたと思いたい。
1651年(慶安4)中川久盛が長男の久清に藩主を譲る。久盛はもう参勤交代のために大分に出向く事はなくなるのだ。だからその前に御禁制の十字架のついた鐘を岡藩まで運んで隠した、と想像したい。
参照:明治時代の紀行文 西村天囚の豊後路
長崎の慈善病院の鐘を中川久盛は岡城に隠し持った。それは家臣や家族をも巻き込む危険な決断だっただろう。そしてさらに、実証の無い夢を重ねてみたい。久盛は忠直の娘を中川家の娘として育てていたのではないか。大分で忠直の娘おくせは幼くして亡くなった。だから次の娘を産まれてすぐにその母とともに岡城に引き取ったのではないか。それは忠直の願いでもあったかもしれない。竹田で中川家の娘として、母親と幸せな人生をおくることを願ったかもしれない。久盛が39年も藩主を続けたのは、忠直の娘の行く末を気にかけていたからではないか。その母を仮にお寅さんと呼ぼうと思う。そしてその娘を菊姫と呼んでみよう。
38歳で岡藩を継いだ三代藩主久清は菊姫を自分の娘として江戸屋敷で育てただろう。お寅さんは乳母になって、彼女を慈しんだだろう。でも、たとえ秘密だとしても従三位参議の忠直の娘を家臣に嫁がせるわけにはいかない、そう当時の人達は思ったのだ。
1680年に中川久清は寺院を建てる。彼は65歳になっていた。まだ8歳だった頃、突然に父の御茶屋敷に将軍の甥がやってきた。それはウルトラマンがお隣に引っ越して来た様な出来事だっただろう。久清の母も家康の姪だけれど若い貴人の配流は特別な事件だった。
あこがれと好奇の目で久清は松平忠直を見つめただろう。10代20代の多感な時期を、忠直のご機嫌伺いをすることで過ごしたかもしれない。その娘を彼は育てた。父がサンチャゴの鐘を守った様に。それは私の空想だけれど。
久清は北鎌倉に寺院を建て東渓院と名づけた。それは近くに在る縁切寺で有名な東慶寺と同じ名前だ。
大阪城が落ちた時に豊臣秀頼の側室お岩とその娘の奈阿姫は東慶寺の尼になることで命をつないだのだ。それに倣って忠直のお寅と菊姫にもここで幸せに暮らしてほしい、そう願って建て、寺領を与えた寺院であったのだろう。
今度国に帰ったらもう二度と江戸には上らない、そういう年齢になった久清は、彼女達の生活の基盤を江戸から北鎌倉に移したのだと思う。時には聖母マリアに向かって十字を切る二人が、最も安全に暮らせる場所、それがここだと思ったのだろう。翌年、江戸から帰国する彼は旅の途中で発病し、豊後竹田で亡くなったそうだ。66歳だった。
すべては私の夢想だけれど。でも。なぜ、一人の娘にだけ寺院を建てたのか。なぜ中川家の菩提寺に入れなかったのか。寺を建てた翌年に国元に帰ってしまったのはなぜなのか。それらを考えると、自分の死後に、頼りない二人の生活を託した、その徳蔵山東渓院ではなかったのかと思うのだ。
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