浄瑠璃作家の近松門左衛門(1653-1725)は、名を椙杜信盛という。父は松平昌親に仕えた越前藩士だった。 越前福井藩の藩主松平光通は世継ぎ問題から心労が続き、弟の昌親に藩を譲って自殺する。光通の自殺は松平忠直の妻だった高田殿の発言が発端なのだそうだ。この不自然な相続のため、昌親は2年後に光通の長男の松平綱昌に藩主を譲って隠居する。6代藩主となった綱昌は、乱心して家臣を殺すようになったそうだ。江戸時代には「乱心した」と記録される殿様が何人もいる。不思議だ。
福井藩はこのスキャンダルで廃藩になるところだった。そこを前藩主の昌親が再任して、大規模なリストラで藩を存続させたのだそうだ。それは越前松平家が徳川家康の次男の結城秀康から始まる名門だからだっだ。結城秀康は松平忠直のお父さんだ。そして結城秀康となると、あまりに謎が深すぎて私には手に負えない。
この事件の5年以上前に近松門左衛門のお父さんは浪人になった。親子で京都に出て、その頃の十代の近松の俳句が残されているのだそうだ。武士をやめた近松は浄瑠璃本を書き、30才の頃には有名になっていた。彼の弟は医者だそうだ。椙杜(すぎもり)家は山口県の荻で代々御典医であり、蘭学を学んだことで流罪になったご先祖がいたのだそうだ。荻は1605年にメルキオール熊谷豊前守元直が殉教した町だ。椙杜家との関係は私は知らない。
参照:近松門左衛門は長州深川の人
それまでは浄瑠璃作家の名前が表に出ることはなかったらしい。近松から作者の名を表す様になったのだそうだ。「曽根崎心中」の大ヒットで、人形浄瑠璃はブームを迎える。
江戸のキリシタン屋敷に幽閉されていたシドッチ神父を訊問した新井白石は、諸外国事情を知りキリスト教を知り 、そして武家諸法度からキリシタン禁止の項目を削除したそうだ。その9年後の1719年(亨保4)に、近松は傾城島原蛙合戦を出す。京都の遊郭である島原は、天草四郎が率いた島原の乱が終わってから「島原」と名付けられたのだそうだ。1637年の島原の乱から82年目、ちょうど今が第二次大戦から64年経っていることを考え合わせると、分かり易いかもしれない。当時を知る人は居なくなって、島原の乱を郭の争乱にパロディするには良い時期だったのかもしれない。
キリシタン屋敷のシドッチ神父も5年前に死んでいる。もうキリシタンの姿はどこにも無い様に見えたはずだ。それでもキリシタンは禁じられていて、信者と断定されれば晒し首だった時期だ。そんな危険を引き受けてまで、なぜ島原、だったのだろう。
その、遊郭を舞台にした華やかなフィナーレを持つ傾城島原蛙合戦には大悪党の七草四郎が登場する。時代は頼朝のいた鎌倉時代初期、というふれ込み。ガマの妖術を使う七草四郎の一派は仏像を焼き、仏像の踏み絵を踏ませ、人心をたぶらかす。
こういう語り口を、私は以前に読んだことがある。足利市の鶏足寺を調べたときのことだ。鶏足寺は平将門を倒した田原籐太秀郷が戦勝を祈った場所だ。秀郷の武勇を讃えれば讃える程、将門がどんなに大悪人であったかがわかる。大悪人であったのは、たくさんの人が将門を支持して従ったということだ。自然に将門を賛美する論調になって来る。それを押さえて、田原籐太秀郷の鶏足寺はある。そうして21世紀まで、無難に将門の名を伝えることが出来ているのだ。
参照:62.語らない鎌倉
その大悪党の七草四郎は傾城島原蛙合戦で大いに語る。
「わが法は広大にして人を殺さず、一人も仙術に勧め入るを本とするゆえ、、」
武士をやめた近松の言葉だ。と、思う。
参照:近松物語 渡辺保著 新潮社 2004
傾城島原蛙合戦で悪役の四郎とヒーローの源六は、幡楽の娘の傾城更級をめぐって決闘をする。その二人の矢を受けて父の幡楽は死んでいく。上記参照の著者、渡辺保はこう解説を続ける。
「幡楽の死を通して仏教と切支丹は対等に、共生する宗教になる。それは幡楽が自分の命を捨てて、二人の青年の立場を対等にしたからである。」
七草城落城をリアルに描き、それを遊郭の劇中劇の仕立てにした56才の近松。鎌倉時代に設定して、江戸時代の現在進行形のキリシタン弾圧に触れた近松。それを熱狂的に迎えた京都や江戸の町人達。風通しのいい自由な世界を求める人達には、キリシタンに対する弾圧は不自由の象徴であっただろうと思う。
十代の近松が越前から移住した京都には、かつて北野天神を取り巻く一帯にデウス町があって、たくさんのキリシタンが住んでいたのだそうだ。全町の住民が処刑されたと、切支丹風土記別巻(宝文館1960)には書いてある。江戸の大殉教の4年前、近松が京都に住む50年程前の1619年(元和5)のことだ。近松親子はそこで何を見聞きしたのだろう。
浄瑠璃作家近松は虚構を語る。演じるのは人形である。その題材は遊郭という飾り上げた悪所であった。そういう絵空事を重ねて、近松は長崎島原の3万7千人の死を弔った。それが京都の人々の心を動かし、近松門左衛門を今に伝える一因にもなっていると、思った。
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