鎌倉市今泉にある白山神社に、江戸時代後期の狂歌師、酔亀亭天広丸(すいきてい あめのひろまる)(1756ー1828)の歌碑がある。有名な歌人で占い師でもあったらしい。
くむ酒は これ風流の眼(まなこ)なり
月を見るにも 花を見るにも 廣丸
いい歌だ。風流に月や花を楽しむには、まず酒がなくちゃあはじまらねえや。あったりめえだあ。
同じ歌碑が墨田区の白鬚神社にもあるそうだ。1804年(文化元)の碑で、両方とも本人の直筆らしい。彼の墓は今泉にあるそうだ。東京の麻生の浄土宗法性山善学寺には、彼の辞世の歌が記念碑にあるという。
心あらば 手向てくれよ 酒と水
銭のある人 銭のない人
という。すばらしい。 ところで、「銭のないひと」と言えば、徒然草の吉田兼好。1283年(弘安6) - 1350年(観応元/正平5)。
横浜市金沢区に住んでいた彼は、「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。」と書いた。良い友達とは物をくれる友達。その後に「医者」と「知恵ある友」が続くけど、「物くるる友」のインパクトには負けている。
彼の歌。
夜も凉し
ねざめのかりほ
た枕も
ま袖も秋に
へだてなき風
その歌に、友達の頓阿の返した歌。
夜も憂し
寝たく我が背子
はてはこず
なほざりにだに
しばし問ひませ
これは冠沓という方法で読むと
米給へ 銭も欲し
(米を下さい。お金もほしい。)
米は無し 銭少し
(米は無いけどお金なら少しあげましょう)
となる。なるほど、面白いと思った。
参照:頓阿法師と兼好法師
だから、広丸さんが歌ったのは、銭の無い兼行には水を、銭の少しある頓阿には酒を、墓に添えてくれということなのだ。
先に亡くなっている人にお願いしてるのもおかしいけれど。
そんな風に古今和歌集を解読して知り得る秘密を古今伝授といって、古くから一子相伝で伝わっているという。頓阿法師はその古今伝授を受けた人、兼好法師は受けていなくて秘密を知らない人、なのだそうだ。
江戸時代になると、この秘密もお金を出せば買う事が出来たらしい。あやしげな秘密をもったいぶって教える先生がいたらしいのだ。川柳に、
猿ならば 猿にしておけ 呼子鳥
というのがある。
古今伝授を習ってみたら、その秘密とは「呼子鳥とは猿のことなり」である。と言われて、なんだそりゃあ、と。長い年月の間に何が大切な事だったのか、すっぱりと消えていて、キーワードの呼子鳥を猿に変換しても、何の事なのかわからない。だったら初めっから猿なら猿と言えばいいのに。というわけだ。笑い話になっている。
呼子鳥とは、吾子、あこ、と子を呼ぶ様に鳴くカッコーのことだった。カッコーは拓卵をする。ウグイスの親がカッコーの子供を育てるのだ。それは、藤原鎌足が中臣氏ではないという秘密を語る事だった。その後で、呼子鳥とはホトトギスであると言われた。中国語で「帰れない」と鳴く鳥である。鎌足は外国から亡命してきた王子であるという秘密だ。
参照:49.万葉集の大船幻影(休憩)
そして更に、呼子鳥は猿でもあると言う。「我が子」と鳴く呼子鳥は猿だというのだ。それはいつから言われた事か知らないけれど、声高に言い始めたのは細川幽斉だと私は思う。1534年(天文3)ー1610年(慶長15)
戦国武将の幽斉は歌人でもあり、三条西実枝から古今伝授を受けていた。彼はそれで命拾いをする。1600年(慶長5)丹後田辺城に籠城していた時、彼が死ぬと古今伝授が伝えられなくなるという理由で、後陽成天皇が勅命を出す。自害せずに彼は城を出る事が出来たのだ。
幽斉の正室は沼田麝香(1544-1618)。細川ガラシャの死の翌年にキリシタンになり細川マリアとも呼ばれる。細川幽斉は生涯側室を持たなかったそうだ。キリシタンと同じだ。彼の長男が細川忠興。ガラシャの夫であり利休七哲の一人の茶人。でも忠興は側室がたくさんいたので、キリシタンにはなれなかったと思う。次男は細川ジョアン興元。だから細川幽斎はキリスト教に詳しかったと思う。「我が子」と鳴く鳥、呼子鳥を彼はどう伝えただろうか。
我が子とはキリストのことでもある。キリシタン灯籠にはラテン語のFILI ヒリョ(子) が、記号の様になって彫られている。
参照:キリシタンの美術 宝文館
だから幽斉は、呼子鳥は猿、つまりキリストの暗号が猿であると伝えただろうと思う。庚申の猿、見ざる聞かざる言わざるの猿である。
庚申塔にはキリシタンの記号が隠されていることがある。と思う。月の形、雲の形、にわとり、猿の並び方、青面金剛の腕の形、法輪、文字などに隠れている。もちろん、まったくそうではない塔もあるけれど。そしてそれはむしろキリシタンではない人達が必要としたのだと思うのだ。
続きます。
追記:細川幽斎には「幽斎公十木の御詠」という歌が伝わっているそうだ。
必ずと契りし君が来まさねば
強ひて待つ夜の過ぎ行くは憂し
合いに来るよと約束したあなたが来ないのなら、つらい時間を待っているのは嫌だなあ。
恋人の歌というより、遊女の歌の様な艶っぽい歌だ。この歌に、10種類の木の名前が入っている。ナラ、トチ、キリ、シキミ、カキ、柾、根、葉、シイ、マツ、スギ、ユ(ユズ)、クワ。
参照:古今伝授と細川幽斎
それで、最後に「うし」が残る。牛が出る。出牛=デウス=神、という絵解きがあるそうだ。そんな判じ物よりももっとストレートに「君」を「キリスト」に変えてみると、この歌自体が信仰告白の様になる。
私たちを救って下さると約束して下さったキリストに迎えられるのだから、今の時代を耐えて待つのも辛くはないのです。そういう歌になるだろう。
古今伝授の「呼子鳥」に新しい意味を加えた幽斉、と考えると、あの有名な川柳はもっとおもしろくなる。
猿ならば 猿にしておけ 呼子鳥
もはや、キリシタンによってもたらされた文化や習慣は日本中に広まっている。それは公然の秘密。皆が知っている、言わないだけの秘密だったのだ。
そんなふうに、酔亀亭天広丸の辞世の歌をもう一度ながめてみよう。
心あらば 手向てくれよ 酒と水
銭のある人 銭のない人
古今伝授を受けた銭のある頓阿さんには酒を、古今伝授を受けてない銭のない兼好さんは水を。それは、こんなふうに読める。
キリシタンに心よせる人達よ、ワインと聖水をふるまって下さい。洗礼を受けて信者になった人も、そうではない信者ではない人も。人生は一緒に楽しむ事ができるのですよ。と。
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